あなたの幸せがわたしの幸せ

 ガッ、とローファーが石畳を踏む。

 制服姿のまま高井出神社に駆け付けた安藤奈瑠美なるみは長い階段を一息に駆け上がって、今ようやく境内の入り口に立っていた。

 奈瑠美の視線の先に広がるのは明かりのない境内。だが、真っ暗闇なその中でも奈瑠美には目標が見えていた。

「久坂……航平」

 呼ばれた少年は体重を預けていた鳥居の柱から背中を離し、参道の上、奈瑠美の正面に立った。

「ああ、君か。なるほど、やけに彼女に肩入れしていると思ったが、生徒として潜入していたのなら合点がいく」

 久坂は相も変わらず平坦な声でぺらぺらと話す。だが、奈瑠美はそれに答えるつもりはなかった。代わりに、厳然たる口調で久坂に質問を投げかける。

「久坂航平……貴様は彼女を、水上みなかみ智沙都ちさとを元に戻せるか?」

「元に戻すというのが『ドラゴンニーソックス』と融合する前の状態にするというのを指しているのなら、それは不可能だ。なぜな……」

 と、久坂の言葉が不自然に途切れた。その視線の先、奈瑠美の手には拳銃が握られていた。


 カチャリと拳銃のスライドを引きながら、奈瑠美は一歩距離を詰める。

「あえてもう一度訊く。端的かつ正確に答えろ。彼女を普通の女の子に戻すことは可能か、不可能か」

 弾丸が装填された自動拳銃が久坂へと向けられる。銃口の先に取り付けられたサプレッサーは銃身の延長線上に位置し、ただでさえ分かりやすい狙いを突き付けるように教えてくる。まだ引き金には指は掛けられていないが、サプレッサーの消音機能に加えて山を下るまでは一件の民家もないことを鑑みれば、射撃を躊躇する要因は無いと言える。

 それでも久坂は、変わらずに声を発した。

「彼女を戻す手段はない。高い適合度のせいか、融合状態の安定性が類を見ないレベルに達していた。無理に元に戻そうとすれば不安定化した大量のエネルギーで彼女は消し飛ぶだろう。以上だ」


「そうか」

 久坂の答えを聞いた奈瑠美はそう言うなり、拳銃を真っ直ぐ構えたままスタスタと距離を詰めた。そして三メートルほどまで接近したところで足を止める。手を伸ばしても届かないが、拳銃ならば狙った部位へ容易に当てられる、そんな距離。

 奈瑠美の細い指が引き金に掛かる。照準の先は胴体。後は人差し指を少し引くだけで、弾丸が久坂の体を貫く。

「では、死――」

「なるちゃんから離れろ、このクソ変態エロ星人があああああ!!」

 瞬間、深緑の光を纏った少女が怒声と共に急降下、二人の間に着弾した。



 少女の細腕が奈瑠美の背中に回され、ぎゅっと抱きしめられる。奈瑠美は慌てて銃口を下に向けるが、それ以上は気が回らない。柔らかさと温もりに包まれ、いつも感じていた彼女の香りをいつになく濃密に感じた。

「なるちゃん大丈夫? あいつに変なことされてない? そう、よかった。もう大丈夫だから安心して。私があいつをなるちゃんの半径五メートル以内に近付かせないから!」

 口を挟む隙もないほど立て続けに投げかけられる言葉に、奈瑠美はただ頷くことしかできない。だが、そんな状況下でも一つ確かなことが分かった。


 彼女は彼女だ。何も変わっていない。

 背中に緑の翼が生えていようが、全身がうっすらと発光していようが、彼女は彼女、奈瑠美の知る水上智沙都だった。

 その事実を噛み締めながら、奈瑠美は左腕で智沙都を抱きしめ返した。


「な、なるほど、適合度の高さはすなわち力の制御にも関係して、兵器級の攻撃を非殺傷レベルにまで弱めることができるということか……。流石は僕が見込んだ天女だっ……」

 抱きしめ合う二人を他所にそう呟くのは、智沙都の着弾の衝撃でひっくり返ったままの久坂だった。

「ま、まあそれはいいとして、近付いたのは僕じゃなくてそっちなんだが……」

「黙れ変態。なるちゃんに手を出したら宇宙の塵にするからな」

 久坂へ冷ややかな視線を投げかけながら言う智沙都を見て、そこでようやく奈瑠美は疑問に辿り着く。

「というかちさとちゃん、無事なの?」

 聞かれた智沙都は「なにが?」とでも言うように首を傾げる。

「えっと……竜化した人間は知性を失って暴走するものだって言われてて、てっきりちさとちゃんもそうなってるのかと……。というかあの緑の靴下は、暴走したドラゴンを制御するための装置だとばかり……」

「そうなの? 私、暴走してる感じはしないけど……」

「それはそうだろう。特別な竜化だからな」

 そう答えたのは、いつの間にか起き上がり眼鏡を拭いていた久坂だった。久坂はいつもの平坦な声に僅かながら自慢げな色を滲ませる。

「通常の竜化は対象の全身をドラゴンへと近づける。だが知っての通りドラゴンと人間は遥かにかけ離れたもので、それを無理矢理変化させれば元の体は原形を留めない。言葉にするなら変身よりも新生とでも言った方が近いほどだ。当然、知性など残るはずもない。

 しかし、非常に高い適合度とドラゴンニーソックスが合わされば、野蛮で強引な新生ではない、美しく均整のとれたドラゴンと人間の完全なる融合が可能となる。すなわち全身を均質に竜化させるのではなく、ある組織はドラゴンに近付け、ある組織は人間のままにしておく。そうして誕生するのが人間の知性とドラゴンの力を併せ持った天女。そう、これが僕の導き出した解だっ!」

 長口上の末に眼鏡をくいっとしながら、久坂は決め台詞を吐いた。

「……まあ安全ならなんでもいいけどね」

 いやにテンションの高い久坂をばっさり切り捨てて、そこでふと智沙都は奈瑠美に向き直った。

「ところでなるちゃん、他に誰か連れてきた? なんか囲まれてる感じなんだけど」



 淡く発光する智沙都以外に光源のない境内。その一面の闇の中に、カチリと一点の光が灯った。三人をまとめて照らすその白い光の向こうから、男の声がした。

「いやはや驚いた。自我を保ったまま超感覚オーバーセンスまで使いこなしているとはな」

 その声を聞いて、奈瑠美が鋭く息を吸いこむ。やはり奈瑠美の仲間なのだろうと智沙都は察し、微かに震える細い肩に手を置こうとした。

 だがその瞬間に声が飛び、智沙都の動きを制止する。

「おっと、動かないでくれよ。我々の位置が分かるということはこの銃器も見えているのだろうが、これは実弾なんかじゃない。下手に動けば君の友人の命はないと思った方がいいぞ。……よし、聞き分けが良くて助かる」

 智沙都は両手を挙げたまま、暗がりに潜んだままの声の主へと質問を投げかけた。

「ところで、その銃の中身は何なの?」

「そうだなぁ。レイラ、説明してやれ」

 そう言って声の主が顎でこちらを指すのが智沙都の超感覚には見えた。同時に奈瑠美の顔が俯く。どうやらレイラとは奈瑠美のことらしかった。

 そして、奈瑠美が絞り出すような声で答えた。

「あれは、適合度を低下させる阻害剤をガス状にしたもので、竜化を強制的に解除、する……。つまり」

「つまり不安定化したエネルギーで彼女は消し飛ぶ。至近距離にいる僕らも巻き込まれて死ぬだろうな」

 そう説明を引き継いだ久坂は、奈瑠美とは対照的に緊張すらしていないかのようないつも通りの声だった。

「そういうことだ。理解していただけたかな?」

 優しげな口調で声は言う。だがそれは相手の命を手中にしても動揺ひとつしない冷徹さの裏返しのように智沙都には感じられた。つまり、彼は必要とあらば二人を巻き込んででも智沙都の竜化を強制的に解き、殺すのだろう。

 となれば、智沙都の選ぶ道は一つしかなかった。


 智沙都は両手を頭の横に挙げたまま、半開きだった背中の翼を畳んだ。そして、ゆっくりと、はっきりと、言った。

「分かった、この通り抵抗はしない。だから、二人を逃がしてあげて欲しい」

「だ、ダメだよ智沙都ちゃん! 私たちのことはいいから逃げて!」

 叫ぶ奈瑠美の声が突き刺さる。その悲痛な響きが痛いほどに愛おしい。

 だから、智沙都は涙の浮かぶ瞳を見つめて答えた。

「ありがとう、なるちゃん。でも、私が逃げちゃったらなるちゃんはきっと酷い目に遭うと思うの。だから一人で逃げるなんてしたくない。なるちゃんのこと、好きだから」

「ちさとちゃん……」

 雫が一つ落ちた。その瞬間、別の意味で心が痛んだが、しかし止めるわけにはいかなかった。


 闇の向こうへと智沙都は声を張り上げる。

にお別れを言いたいから、少しだけ時間を貰いたいのだけど」

 すると、智沙都の願いは意外にもあっさりと聞き入れられた。

「いいだろう、一分だけ待とう」

 その答えに安堵しつつ、智沙都は奈瑠美に向き直る。

 頬には涙の跡が残り、見たこともないほど悲しみに満ちた奈瑠美の顔を、智沙都は直視できなかった。だからその細い体を智沙都は力いっぱい抱き寄せた。

「ちさとちゃん……」

 風が吹けば掻き消えてしまいそうなほどの弱々しい声が、重ねて智沙都の罪悪感を増していく。

 このまま奈瑠美だけを連れて飛び去りたいという思いをなんとか押し留めながら、智沙都は声を発した。念には念を入れて声が奈瑠美以外に聞かれないように大気の粒子を操作しながら。

「声には出さずに答えてね。なるちゃんの国って中東でいいんだよね?」

 肩の上で奈瑠美の頭が力強く頷く。

「ありがとう。……なるちゃん、私頑張ってみるから」

 もう一度奈瑠美が大きく頷き、続けて小さな声が返ってきた。

「私も好きだよ、ちさとちゃん」


 さて、と智沙都は気持ちを仕切り直す。

 目の前にいるのは眼鏡で長身のまあまあ美形な男子生徒。とはいえ、今日一日でこの男の智沙都の中での評価は地に落ちている。

 だから当然抱き付きたくなんかないし、掛けてやる別れの言葉なんかも存在しない……のだが、今だけは事情が違う。

 これもなるちゃんのためだからと言い聞かせて、久坂の首に回した手を殺さない程度に力を込めて引き寄せた。久坂の頭が肩に乗り、体がしっかりと密着するが、今はそのことについては考えない。

「二つだけ聞きたい。手短に答えて。一つ目、この体は睡眠は必要? 二つ目、能力を残したまま元に近い姿に戻れる?」

 先程と同様に声が漏れないようにして智沙都は尋ねた。すると、質問を見越していたのか久坂はすぐに答えた。

「一つ目はノーだ。眠りたければ眠れるが、生理的に睡眠は不要だ。加えて、一部の機能だけを覚醒させておくことも可能なはずだ。二つ目はおおむねイエスだ。服装などに一部制限はあるが、見た目だけならば元に近い姿にはなれる」

 そこまで聞くと、智沙都は手を離して距離を取った。そして怪しまれないように、久坂に向かって微笑みかけてやった。これもなるちゃんのためだ。



「一分だ」

 白い光の差す方から、男の声が届く。その声に従うように、二人は智沙都の元から離れていった。

 真っ暗闇の境内の中で、智沙都だけが光を浴びていた。それはまるで一人だけの舞台に立っているようだった。

 ある意味でそれは正解だろう。何せ、これから智沙都は一世一代の大立ち回りを演じるのだから。

「私が言うのもなんだが、もしかすると無事に竜化が解除できる可能性はあるのかもしれん。ここまで適合度の高い例はないからな。勝手だが奇跡を祈らせてもらうよ。……構え」

 不運にも事件に巻き込まれた少女に告げるように、声は言う。声から感じる優しさのうちのいくらかは、多分本当にこちらを気遣ってのものなのだろうと智沙都は思った。同時に今はそれでいい、と。

 計九人の銃口がこちらに向いているのを、智沙都は超感覚で見る。

「……撃て!」

 そして引き金が引かれた。


 控えめな発砲音と共に、直径三センチ程度の大きな弾丸が撃ち出される。

 そうして放たれ宙を飛ぶ弾丸を九つ全て捉えると、智沙都は翼を広げ、両手を真上に振り上げた。

 その肉体の動きの間にも、弾丸は白い煙の尾を引いて飛び続ける。そして全てが智沙都の半径五メートル以内に入った瞬間、力を解放した。

 視界がズレて見えるほどの高密度の空気の流れ。それが智沙都の周囲に、そしてそれぞれの弾丸とそこから放出された煙全てを包み込むように現れた。

 一瞬遅れて聞こえる音はジェットエンジンさながらの轟音。それほどの勢いで吹き荒れた風は、一秒と経たないうちに全てを片付けていた。


 残されたのは智沙都の頭上約十メートルの高さに浮かぶ九つの弾丸と白い煙、そしてそれを包み込む球状の空気の壁だった。

 智沙都は振り仰ぎ、掲げた両手に力を集約させ、一気に解放。両手の先からは青白い炎がほとばしり、立ち上った炎の柱は空気の壁ごと弾丸と煙を飲み込んだ。

 そして溶けかけの弾丸が降ってくるのを確認しながら、智沙都はもう一つの大仕事に移った。



 超高温に晒されて原形を留めない弾丸が、カランカランと地面に落ちる。

「な……」

 驚愕の声を漏らしたのは、一人ではなかった。そして声を漏らさなかったのは驚きで声すら出ない者だった。唯一、平然としていたのは久坂航平だけだった。

 これまで寸分違わず智沙都を照らしていた光が大きくぶれ、あの声が聞こえてきた。

「貴様、一体何を……」

「そのセリフは、もう三十秒くらい待った方がいいかな」

「は?」

 そして、律儀にも三十秒間の沈黙が訪れた。静寂を破ったのは、緊急の通信に応える男の声だ。

「はい……は? 作戦中止、ですか。一体…………了解しました」

 そのやりとりに割り込むように、智沙都は声を上げる。

「私からの要求は二つ。私となるちゃん、あと久坂航平に危害を加えないこと。そして、なるちゃんをここに、少なくとも高校卒業まではいさせること。通話の相手に伝えて」

「あの、標的からの要求が――」

 そして男は智沙都の要求をそのまま伝え、短い間の後に要求を呑んだ旨が男の口から告げられた。

 通話はすぐに切れ、再び同じ言葉が放たれた。

「貴様、一体何をした!?」

 智沙都は、余裕たっぷりに答えを告げる。

「別に。太陽を二つにしてみただけ」

「何を、言っている……?」

 智沙都がひらりと手のひらをひるがえすと、その手の上に火球が現れた。同時に、境内が白い光で塗り潰される。

「大きさは100メートルくらいかな? それをこうやって空に飛ばしたら、太陽みたいに見えるかなって」

「まさか、そんな……」

 じりじりと肌を焼くような光に晒されながら、男は自らの至った結論に喘いだ。それを肯定するかのごとく、智沙都は手のひらを返した。

 火球は地面に落ちて火柱に変わる。その下では境内の砂が超高温に焼かれていく。その炎の中に、男は故郷の幻影を見た。

「次がないことを願ってる。私も誰かを殺したくなんかないし、ね」

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