第20話 蘇り(2)

「腹いっぱいだ……」


 普段通りにバイトを終えた深夜。

 街灯が立ち並ぶ通りを僕は一人歩いていた。


 バイト先は老年の夫婦が営む飲食店で、バイトのときはいつもまかないをご馳走になっている。

 今日も例にもれず、もはやまかないレベルを超えた定食を遅めの夕飯にいただき、なおかつ妹の分、と持ち帰りの分まで用意してもらっていた。


 正直な話、彼らは人が好すぎると思う。


 たかがバイトである僕の扱いしかり、客へのサービスしかり、あれじゃボランティアで店をやっているみたいなものだ。

 しかし彼ら夫婦のその人柄故なのか、集まってくる客はみなことごとく常連となり、そしてしばしば夫婦に対して土産やら何やらを差し入れていく。

 さらにその客の好意の対象はバイトである僕にも向けられることがあり、「夫婦の親戚の子ども」として紹介されている僕も何かしらの恩恵を受けることが少なくはない。


 まあ正直、酒で赤みを帯びる頬を緩ませた常連客に「今のうちから手伝いとは偉いよなあ! 優秀な跡継ぎがいて良かったなあ!」などと容赦なく背中を叩かれながら言われると、なんとも心苦しくはあるのだが。


 なんにせよ、あそこはバイト先としては大変恵まれた環境だと思う。

 そこで僕は、週末は夕方から深夜まで、平日も不定期で学校終わりに数時間だけ働かせてもらっているのだ。


 まあそんなこんなで割といい気分で帰路に就いていたのだが――。


「そういえばあの道、通れないのか」


 普段通り自宅とバイト先間の近道へ向かおうとした矢先、行きで出くわした工事を思い出して僕は思わず嘆息した。

 どうも今週末はその工事のために通行禁止の規制が続くらしく、その旨を示す看板が立っていたのだ。


 ということは、だ。


「……またあの家の前を通らなくちゃいけないのか」


 何者かに対する暴言をヒステリックに叫ぶ女。

 見るも無残にやせ細り、息も絶え絶えの飼い犬。


 あんな状況を目の当たりにして、あの家で何が行われているかなんて、明白にも程がある。

 だからこそあの時、僕は自分自身の幼い頃の日々を――父親に虐待された日々を思い出すこととなったのだ。


 同じだと思った。

 幼い頃の僕とあのやつれた犬の境遇が。


 それはなんてちっぽけで、なんて理不尽な世界の物語なのだろう。


 舞台は何の変哲もない一軒の家。登場人物もたった二人で事足りる。

 その狭い世界の中で、だけどその世界が自分の全てで、だから自分が見上げる先にいる者から与えられる全てを真正面から受け止めるしかなくて。

 逃げることができない――いや、逃げるという思考すら抱くことのできない救いのないシナリオ。

 その閉ざされた世界の中で幼い頃の僕は生きていたし、あの犬は現在進行形で生きている。

 そしてその物語は、登場人物のどちらかが舞台から退場するか、そこに第三者が介入しない限り、終わることなく続くのだ。


 ちなみに僕の場合は、あのクレイジーな男の手によって父さんが退場したことになるわけで……不本意ながらも。まあ正確には、その男によってまだ父さんの身体は生かされていると言えるんだけどね。

 自嘲気味に心の中でそう呟き、ふと少し先の景色を見据える。


――そこに見えてきたものは。


 例のブロック塀で周囲が覆われた、赤い屋根の家。

 似たような家が立ち並ぶ住宅街で、なぜかその赤だけが妙に夜の闇に映えている。

 その一種禍々しい色に吸い寄せられるように歩みを進めていると、聞き覚えのある声が遠くの方から聞こえてきた。


「――もーほんっと言うこと聴かなくってさあ。ストレスたまるたまる。――え? うん、そうそう。ま、でもどうせそろそろ死ぬだろうし、それまでの辛抱かなーなんて。ははっ!」


 次第に近づいてくる、キンキンと耳障りな声。

 誰かと会話をしているような口ぶりだが、一人分の声しか聞こえないということは通話中なのだろうが。


 この、声は。

 間違いない。あの女だ。


 先の方に目を凝らすと、この閑静な住宅街で、しかも深夜のこの時間帯に不釣り合いな大音量を発しながら歩いてくる女がいた。

 スマホらしきものを耳に押し当てながら、もう一方の手にはコンビニ袋のようなものを握っている。

 ウェーブのかかった茶髪を揺らしながらこちら側へ歩いてくるその女は――なんというか、やけに露出度の高い服を着ていて。


 この人、何歳なんだ……。


 次第に近づく女の顔を盗み見れば、濃い化粧のほどこされたそれからして、正直なところある程度お年を召しているのではという、なんだか女性を敵に回してしまいそうな感想を抱かずにはいられない。


 そうして無意識のうちに僕はその女を凝視していたのか。


「――それでさあ……あ、ちょっと待って」


 気づけば僕と女の距離は互いの顔をはっきり認識できるまでに近づいていて、しまったと思った頃にはすでに女が足を速め、一直線にこちらへと向かってきていたのだ。

 その目はしっかりと僕を見据えていて、明らかにこの僕に何か物申したい様子である。


 ……面倒だなあ。


 カツカツとむやみやたらにヒールの音を響かせながら数歩の間合いを詰めてくる女に内心ため息をつきながら、とりあえず大人しくその場に立ち止まってみる。

 奇しくもそこは女の家の門扉の前だった。


「ちょっとあんた」


 そして予想通り僕の目の前までたどり着いたその女は、表情や声音に一切の不機嫌さを隠すことなくもろとも僕にぶつけてきた。


「……なんでしょうか」


 無視をするのもありかと考えたが、その方が面倒なことに発展しそうだと瞬時に判断し、ひとまず対話を試みることにする。


「何しらばっくれてんの? あんたが人のことをジロジロ見てきたんでしょ!?」


 ぐい、と顔を近づけてくる女。

 きつい香水の匂いが鼻につく。


 というかそもそも深夜に大声で、しかも一人で喋っている人がいれば僕に限らず注目を浴びせたくなるのではないだろうか。

 僕は思わず眉根を寄せそうになるのをなんとか堪え、愛想笑いを浮かべた。


「いや……すみません。こんな時間にこんな場所を僕以外に出歩いている人がいるとは思わなくて」

「はあ?」

「……女性の深夜の一人歩きは危ないですよ」


 僕のその言葉に思い切り眉根を寄せる女。

 その両の目には不審の色が濃く浮かび上がる。

 いちいち感情が丸出しだ。


 ただし正直なところ、自分自身でも話の運びのセンスのなさに少々呆れていたところでもある。

 これじゃ不審者と思われても仕方あるまい。

 そしてその予想通り、女は僕に対しての怒りをぶちまける。


「どっからどう見たってあんたが一番危険人物でしょ!? 早くどっか行って!」


 ええごもっともで。


 これ以上騒ぎにならないうちにと僕は気休め程度に女に対して一礼して、そそくさとその場を後にした。

 後ろを振り返ることはせず、ただただ前へと歩を進める。

 しばらくは背中に刺さるような視線を感じていたが、程なくして聞こえてきた扉の開閉の音にほっと息をもらした――。


 その一方で。


「……バレバレだっての」


 人というのは、何か他人に知られたくないもの――隠しておきたいものを無意識に意識してしまうものなのだ。皮肉にも。


 あの女が僕と話をしている間、チラチラとブロック塀の向こうへと視線を泳がせていたことを僕は見逃さなかった。

 その目線の先にあったのはおそらく、あの今にも息絶えそうな犬なのだろう。


 まあしかし夕方にあれだけ大きな声で怒鳴っておきながら、ちょっとでも自分の所業を隠そうという意識があることに驚きだが……僕も大概怪しかったしなあと独りごちる。だから警戒した部分もあるのだろう。

 先程の出来事を振り返ってそう結論付ける。


 そして、僕は。


「さてと、いっちょやりますか」


 あの女をこの手で殺すことにした。



 ……ただし頭の中だけの話だけどね。

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