第14話 闇に巣食う巨悪 

 結城慎吾が、息子真司の捜索願を警察に提出してから二日後、埼玉県奥秩父の渓谷で、中年夫婦のハイカーが不自然な乗用車を発見した。不審に思った彼らが中を覗き込むと、若い男女が運転席と助手席のシートを倒し、眠るように横たわっていた。

 中年夫婦の通報で現場に急行した埼玉県警秩父署の捜査員が鑑識を行った結果、練炭による一酸化中毒死と断定した。また、血液中から睡眠導入財の成分も検出された。

 所持品により、二人の身元はすぐに判明した。

 男性の方は結城真司、二十一歳。帝都大学三回生。

 女性の方は三枝実佳、二十歳。

 男性の携帯電話には、父親に当てた遺書らしきメールが残されており、文面が途中であることから、入力中に意識が無くなったものと考えられた。現場検証の結果、二人には外傷がなく、争いや盗難にあった形跡もなかったことから、秩父署は心中自殺との判断を強めたが、一応の裏付け捜査を行った。

 その結果、結城真司は祖父から贈与された五十億円のうち、二十億円を株式相場で損失し、残りの三十億円も所在が不明であること。

 また銀座の高級クラブ・檸檬で出会った三枝実佳に一目惚れをし、交際を求めたが、断られ失意の中にあったことが分かった。

 以上のことから、結城真司が三枝実佳に無理心中を迫ったものとの見解に至った。

 これに断固異を唱えたのは、他ならぬ本宮真奈美だった。彼女は、保護責任者死体遺棄の嫌疑は残ったが、加賀見雅彦殺害の嫌疑は晴れたため、釈放されていた。

 真奈美は、光智から真司が自殺したとの報を聞くや否や、自殺ではない根拠を切々と訴えた。光智自身も、真司の自殺には釈然としないものがあったため、中筋の同行を請い、真奈美と共に秩父署に赴いた。


 本宮真奈美の告白は、大阪の不動産屋の高鍋から聞いたものと同じ内容から始まった。

 真奈美の記憶と、彼女が祖母佐奈子から聞いていたという話を総合すると、六歳のとき両親を失った真奈美は、母方の祖父母に預けられ、名も尾藤から本宮に変わった。しかし、まもなく祖父が闘病生活に入り、彼女が十歳のとき、治療も虚しく亡くなった。高額治療費を捻出するため、資産を売り払ってしまっており、病弱の祖母の許、その後の生活は困窮を極めた。

 そのため、祖母が養護施設に入れることを考え始めたとき、彼女の許に現れたのが結城真吾だった。真奈美の実父哲也が経営していた関西精機買収の一翼を担った真吾は、結果として両親を死に追いやったことへの良心の呵責から真奈美を引き取り、養育すると申し出たのである。彼女が十一歳のときだった。

 祖母佐奈子はずいぶんと悩んだが、真吾の心からの悔やみと真摯な態度に、真奈美の将来を考え、彼女を預けることにした。

 祖母と真吾の会話を漏れ聞いた真奈美は、両親の死の真相を知り、嫌悪感を抱いたが、祖母の心情を忖度して、養女になることを受け入れた。

 結城家には真奈美と同い年の少年がいた。真司である。

 事の経緯は分からなかったが、真奈美の表情に不幸の影を感じ取った真司は、彼女を快く受け入れ、優しく接した。しかし、思春期を迎えた頃から、真奈美は真司の視線に、同情以上の熱を感じ始めるようになった。

 真奈美にとって真司の求愛は、受け入れ難いものだった。真司個人に対する気持ちはともかく、両親の死に関与した人物の庇護を受けるだけでも忸怩たる思いの彼女が、その息子の愛を受け入れることなど考えられなかったのである。

 真司の祖父や父真吾もまた、いかに血が繋がっていないとは言え、義兄妹が恋愛に陥ることなど、世間体を考えても容認できるものではなかった。マスコミの格好の餌になることが明白だったからである。

 結局、真奈美が十七歳のとき、結城家は真司に内緒で養子縁組を解消し、彼女は祖母の許へと戻った。その際、結城家は将来の生活費として、三億円を一括贈与したが、彼女がこれに手を付けることはなかった。

 突然、目の前から愛する真奈美が消えてしまい、失意の底に沈んだ真司は、必死になって彼女の行方を捜したが、むろん見つかるはずもなかった。祖父や父慎吾に何度も真奈美の居所を訊ねたが、全く取り合ってもらえなかったため、彼は二人に反感を抱くようになり、その反動から、二人の承諾を得ずに株式相場に手を出したのだと、後日再会したとき、真奈美は真司から聞いたという。

 さて、運命の再会は、奇しくも共に帝都大学に入学したことで巡って来た。法学部の真司と文学部の真奈美とでは、学舎は遠く離れていたため、すれ違うこともなかったが、彼は加賀見食堂で、アルバイトをしていた彼女と再会した。真奈美も、真司が同じ帝都大学に進学していることなど知る由もなく、人の集まる食堂でアルバイトをしていたのである。

 真司は、彼女に変わらぬ想いを打ち明けたが、彼女の心が傾くことはなかった。それどころか、真奈美は真司から遠ざかるため、加賀見食堂のアルバイトを止めることを決意した。

 彼女が加賀見雅彦から性的暴行を受けたのは、母屋で行われた送別の食事会でのことだったのだ。真奈美は、暴行のショックから大学を休学したため、再び真司の前から彼女の姿が消えることとなった。

 真奈美と再会したことで、彼女への想いを再確認した真司は、まず学生課で住所を訊ねたが断られたため、探偵を雇い、彼女が銀座のクラブでホステスをしていることをようやく突き止めたのだという。

 だがこのとき、真奈美は葛西彰吾というヤクザ者と付き合っていたため、真司も手を出すことができなかったのである。

 その後、精神的に立ち直った真奈美が銀座のクラブを辞め、サンジェルマンでアルバイトを始めたことを知った真司は、彼女が葛西省吾と別れたわけではないと知りつつも、どうにか光智を引き込み、状況の打開、進展を画策したのだと見られた。

 指紋を鑑定すれば、はっきりすることだが、サンジェルマンに仕掛けられた盗聴器は、二度と真奈美の消息を失わないようにと、真司が仕掛けたものであろう。同時に、光智の行動も監視ができる一石二鳥の手段である。


 以上から、真司の真奈美に対する想いに変化はなく、彼が三枝実佳に交際を迫ったとは考え難い。よしんば、そうした事実があったとしても、単に報われぬ恋の捌け口を求めたに過ぎず、実佳に拒絶されたとしても、無理心中にまで及ぶことなど考えられなかった。

 株式投資にしても、たしかに二十億円の損失を出したのは事実だが、不明の三十億円のうち、二十億円は光智のグループの投資活動に出資されており、しかも現時点では五億円の収益を上げていた。残りの十億円は、関西の証券会社を通じて、牧野フライス株を購入していた事実を村井慶彰が突き止めていた。それもまた現時点で二億円近い収益を上げていた。つまり、悲観して自殺する状況にはなかったのである。

 光智と真奈美の証言に加え、中筋が加賀見雅彦殺害事件との関連を示唆したことにより、他殺の可能性が浮上したため、秩父署に捜査本部の設置が検討された。

 このとき、真奈美は他にも重要な証言をしていた。堀尾貴仁の殺害を計画していた葛西彰吾を引き止めるため苦悩していた彼女は、唯一信用の置ける真司に悩める胸の内を打ち明けていた。愛情はないが、人としての信頼はあったのだ。

 その際、真奈美がヤクザ者と交際するような人間ではないと信じる真司に、葛西との交際に至った理由を執拗に問い質され、加賀見雅彦から受けた凌辱から、自暴自棄になっていたことを口にしてしまっていた。

 つまり、結城真司は加賀見雅彦に意趣があったことになる。

 光智は他殺の可能性が浮上したことで、自責の念に胸を痛めた。結城家が凶行の的になる可能性を予見していたはずである。なぜもっと親身に警告しなかったのか、と自分自身を責め立てたのだった。

 しかも、真司が殺害されたとすると、野崎に真司のアリバイ調査を依頼したため、警察の動きを察した真犯人が口封じに及んだとも考えられるのだ。

 光智はまた、己の不明も恥じていた。真司は優柔不断な男などではなく、本宮真奈美を一途に愛し続けていたのだ。

 光智の頬に涙が伝った。それは後悔と愛惜が入り混じった苦い涙だった。


 秩父署からの帰途、警察車両の中で光智と中筋はこれまでの殺人事件と今回の事件との関連性を検証した。

 中筋は、野崎から託された真司の捜査結果を報告した。それによると、加賀見雅彦が殺害された時刻、真司にはアリバイがあった。光智はうっかり失念していたが、事件の当日は、午後三時から帝倉ホテルで、結城電器の創業四十周年記念パーティーが行われており、彼も後継者として出席していたのである。

 アリバイは確かでも、光智の疑惑は晴れなかった。郷田組から、加賀見宅及び大学周辺の地理や佇まいを詳しく聞かれた際、真司は加賀見が危害を加えられると直感し、心を寄せる真奈美に代わって、彼に天誅を加える意味で加担したものと確信していた。

 真司は、己の想像を確認するため現場に足を運んだ。あるいは、後々郷田組と取引するための材料として、現場を押さえ彼らの弱みを握ろうとしたのかもしれない。

 むろんそれは、あまりに短絡的な試みであることは言うまでもない。極道の習性を知る者ならば、報復を恐れ、決してそのような無謀な行為には及ばない。

 真司にしても、その辺りのことは重々承知していたはずである。それでも尚、彼がそのような行動に出たとすれば、裏に何かがあるはずだと光智は考えた。光智には、それこそが闇の関与だと思えてならなかった。

 ともかく、その短慮が命取りになったのは間違いない。光智は、胸の痛みが静まるのを待ってから訊いた。

「では、真司はずっとそのパーティー会場にいたのですね」

「いえ。真吾氏の話では、途中で抜け出しています」

「抜け出している? では、アリバイが崩れるのではないですか」

 光智は意気込んだが、中筋は顔を横に振った。

「それが、宗方妙雲氏によって証明されました。もっとも執事長を介してですが、彼がホテルの一室で、結城君と一緒に居たことを証言しました」

「執事長? 宗方妙雲とは何者ですか」

「浄臨宗の京都別格大本山・万臨寺の貫主で、政財界の指南役と言われている人物です」

――万臨寺……。

 群馬仁多家での小里の言葉を思い出した光智は、脳細胞が蠢き始めたのを感じていた。

 結城家は、古くから妙雲氏の信者で、毎月一日には会社と自宅に祭っている観音菩薩への読経を依頼していた。

 パーティーに出席した妙雲であったが、大勢の来客の中に居るのは億劫だと、中抜けして結城電器が用意した一室で休憩をしていた。部屋を手配した真司は、一緒に部屋へ入って話し込んでいるうち、すっかり長居をしてしまったということである。

「高僧が大勢の来客を億劫というのもおかしな話ですね」

「常識的にはそうですが、あれだけの大物ですからね。ここぞとばかりに、相談を持ち掛けられたのではないでしょうか」

「なるほど、それならわかるような気もします。しかし、真司はそのような高僧と話し込むほど、懇意だったのですか」

 生前の真司からは想像も付かなかった。どちらかと言えば、宗教とは無縁のように見えていた。

「ええ。彼自身も、京都の万臨寺へも頻繁に出向くほどだったということです」

――京都まで……? 純粋な信仰とは違うような気がする。

 と、光智が考えていると、突然中筋の声色が変わった。

「ただ、アリバイではありませんが、妙雲氏には気になることがあります」

「どういうことですか」

「我々は、大王組との関係を掴んでいます」

――なに! 大王組……。

 光智の脳細胞が、コンピューターの集積回路のように激しく作動した。

「ということは、結城家は大王組とも関わりを持っている可能性が有りますね」

「そうだとしても、今回の事件と関わりが有るとは思えませんが」

 中筋は、さすがに否定的だった。 

「奈良龍明は事情聴取のとき、新しいスポンサーの目途が付いたと言っていた、とおっしゃったことがありましたね」

「まさか、それが結城家だと?」

「慎吾氏は、堀尾さんからの依頼は断ったそうですが、大王組からとなると、そう無下にも断れないでしょう」

 山城組長の護衛をしている奈良龍之は、宗方妙雲とも面識があることになる。  兄龍明の依頼を受けて、妙雲と直接会ってスポンサーの紹介を懇請したのではないか。

 結城真吾は、堀尾貴仁からの出資話は断ったが、稲墨連合も大株主の立場を利用し、共同事業と称して結城家に出資を迫っていた節がある。妙雲がその相談に乗っているところへ、大王組からの依頼があったとすれば……。

 心ならずも大王組と稲墨連合の板挟みに結城家が、信仰という絆のある妙雲の進言に従ったのは間違いない。真司は、ブック・メーカー事業に興味を抱いていたし、稲墨連合との株問題を解決してくれることを交換条件にすれば、結城家にもメリットはある。

 あるいは、真司個人が出資する予定だったのかもしれない。関西の証券会社を通じての牧野フライス株購入は、そのための利鞘稼ぎとも取れる。

 光智は、真司が加賀見殺害現場に赴くという無謀な行動に出た理由がわかったような気がした。大王組が後ろ盾になれば、稲墨連合傘下の郷田組とて迂闊に手は出せないと踏んでもおかしくはない。

 光智の推理に得心した中筋が訊いた。

「ちなみに、結城家はどれほどの資産を持っているのでしょうか」

「上場時の持ち株売却で、五百憶以上は手に入れているはずです」

「創業者利得の恩恵で、ほぼそっくり残っているという訳ですか」

「その気になれば、五十億は出せるでしょう」

「堀尾の五倍ですか。そうであれば、奈良に余裕があったのも頷けます」

 中筋は、最初の事情聴取の際の、奈良龍明の態度を思い出して言った。

 ここで、光智の連想は別の支流へと転じた。

「ところで、中筋さん。宗方妙雲は、稲墨連合とも関わりがあると思われますか」

 唐突な問いに、中筋は束の間戸惑ったが、

「妙雲氏が山城組長と懇意であることは、稲墨連合も承知しているでしょうから、直接的には無いでしょうが、間接的には考えられなくもありません」

 と、言葉に含みを持たせた。

「どういうことですか?」

 珍しくも、戸惑いを見せた光智に、中筋は勿体ぶる顔つきになった。

「ちなみに、別当さんはザ・サンデーという週刊誌をご存知ですか」

「滅多に読みませんが、一流雑誌ですね」

「実は、以前そのザ・サンデーが、ある男の糾弾を特集したことがあるのですが……」

 中筋は、一段と声を潜めた。運転しているのは麻布署の同僚刑事だが、宗方妙雲の手が伸びているとも限らないのだ。

 ザ・サンデーは、政界や経済界の暗部を追及することで、発行部数を伸ばしている硬派の週刊誌だった。以前、そのザ・サンデーに稲墨連合の稲本会長と、黒い親交があると糾弾されたのが、浄臨宗大本山・鎌倉大臨寺の久万法雲(くまほううん)貫主だった。宗門内における久万の影響力は、影の法主とも囁かれるほど絶大で、妙雲の宗教上の兄弟子でもあった。名門出身ではない妙雲の目覚しい出世は、実力者である久万貫主の助力によるものが大きいと見られていた。

「ここだけの話ですが、二人は公安がマークしています」

 中筋は身体を寄せ、光智の耳元で言った。

「公安が……。それだけ、二人は闇社会と密接な関係があるということですね」

 小声で聞いた光智に、中筋は黙って頷いた。

 宗方妙雲が大王組、久万法雲が稲墨連合と親密な関係にある。そして二人は宗教上の兄弟弟子……。

 光智の眼底に不気味な鈍い光が宿った。そして、しばらく視線を外の景色に向けた後、複雑な連想を終えた彼の脳は、演算を終えたコンピューターが結果を出力するように、ある邪悪に満ちた仮説を生み出した。

「では、妙雲はスタイン社と稲墨連合の結び付きも、加賀見が邪魔な存在であることも知り得たかもしれませんね」

「ま、まさか貴方は、堀尾と加賀見の殺害に妙雲氏が関わっているとお考えなのですか」

 光智の、奇抜な着眼に慣れつつあった中筋も、思わず驚愕の声を上げた。

 それに反して、光智は極めて落ち着いた声で言った。 

「中筋さん。二人が残したBは万臨寺、Mは宗方あるいは妙雲を指しているのではないでしょうか」

「そ、それは……」

 中筋は絶句した。

「馬場聡はBSです。BMが馬場ではないとすると、謎が残ったままです」

「しかし、二人の被害者と妙雲氏の接点、そして動機は何ですか?」

 中筋は、すぐに落ち着きを取り戻し、犯行の要諦に触れた。

「堀尾さんは、毎月二度も万臨寺に祈願に赴くほどの信者だったそうですし、加賀見も熱烈な信者だった仁多甚三郎さんの影響を受けて、入信されています」

「二人が妙雲の信者だった? そうだとすれば、彼らは妙雲にブック・メーカー事業を相談していたとも考えられますね」

 はい、と光智が頷く。

「おそらく、堀尾さんの裏切り行為は、妙雲から大王組に知らされたのでしょう」

「妙雲にすれば、堀尾の代わりはいくらでもいるが、大王組の代わりは無いということですか」

「そして、堀尾の後釜として、結城家あるいは真司を紹介した」

「こちらは話の筋が通りますね」

 中筋は、納得顔でそう言った後、

「加賀見の方は、久万貫主への義理立てですか」

 と焦点を移した。

「それだけではありません。加賀見さんが亡くなったため、その莫大な遺産は妙雲の懐に入ります。おそらく、万臨寺ではなく妙雲個人が所有する単立寺院に寄付されるのだと思います」

 別格大本山・万臨寺は浄臨宗所有の寺院である。したがって、たとえ妙雲の貫主時に寄付されたものであっても、彼が寺院を去れば、その資産を自由に扱うことはできないのである。

「なるほど。妙雲は次期法主の座を射止めるため、宗門に対して目に見える貢献が必要だと言われています。彼にとって百憶を超える寄付は願ってもないことです」

 中筋も、事件の全貌を把握できた気がした。

 堀尾と加賀見は、奈良龍明や今津航、馬場聡との交渉の前後に妙雲と会っていた。ただし、二人が一緒に万臨寺を訪れたのは、三月二十八日の一度切りで、後は個別に訪れていたものと思われた。

 光智は、加賀見雅彦はブック・メーカー事業の件ではなく、仁多甚三郎の遺産について、妙雲との折衝に赴いていたのではないかと推測した。妙雲は、信頼して打ち明けた話を逆手にとって、大王組には堀尾の裏切りを、稲墨連合には加賀見が堀尾のスポンサーに加わる情報をリークした。それが葛西彰吾による堀尾殺害計画と、馬場聡による二人の殺害に繋がった。

「でも、何も物証が有りません」

 光智は悔しさを滲ませていた。

「事情聴取をしても、一笑に付されるだけでしょう。大王組と稲墨連合とて同様です」

 中筋も拳を強く握り締めて言った。

「巨悪は悠然としているのですね」

 光智は、大きな闇の正体は宗方妙雲だと確信していた。

「巨悪ですか」

「中筋さん。もし私の推理が正しければ、最も巨悪なのは宗方妙雲です。殺人が小悪だとは言いません。ですが、大王組にしろ稲墨連合にしろ、彼らは自分達は社会悪だと宣言し、世間に姿を晒しています。個々のヤクザ者も同様です。ですから、市民はそれなりに対処することができる。

 然るに宗方妙雲は、高僧という世間の信頼と畏敬を集める、言わば善なるものの最上位に立っている身でありながら、心の安寧と人の世の理を諭し、人々の魂を仏の世界に導くという、現世での使命をないがしろにしたばかりか、赤子の手を捻るが如く心を弄び、悪事に手を染めている。これ以上の巨悪を私は知りません」

 光智の声は、いつになく強い怒気を含んでいた。

「私も同様です」

 中筋は唇を噛み締めた。怒りを露にする光智を初めて目の当たりにした中筋は、その正義感に胸を熱くしていたのだった。

「堀尾さんと加賀見さんの不幸は、この奸物と巡り会ったことに端を発したと言っても過言ではありませんね」

「それが結城真司君にも及び、三枝実佳さんはその巻き添えを食った」

「悲しいことです」

 光智はやるせない声で言った。彼は胸を痛めていた。真司の死もさることながら、三枝実佳に真司を紹介しなければ、彼女が死に至ることはなかったのだ。

「それにしても、堀尾は大変に几帳面な性格だったのですね。忙しい身で毎月二回、それも同じ日に参拝するとは、まるで何かの業を背負っているみたいですね」

  業? 何気ない中筋の一言に、光智の脳が再び鋭く反応した。

――そうか、もしかすると彼は……。

 少しだけ光智の頬が緩んだ。彼は、荒涼たる砂漠に小さなオアシスを見つけたような、暗黒の荒波にほのかな灯火を見つけたような思いになった。

「何かおかしなことを言いましたか」

 中筋は、狐につままれた表情で訊いた。

「いえ、何でもありません。司直の手は、ターナー社長にも及ばないでしょうね」

「無理ですね。彼についても、馬場聡は何も話さないでしょうし、国際捜査の壁もあります」

 中筋は歯軋りをした。

「ところで、馬場は逃走ルートをどのように知ったと言っていますか」

「郷田組から教えられたと言っています。やはり、真司君を疑っているのですね」

「結城家と大王組、稲墨連合そして宗方妙雲が繋がったのです。そこに何も無かったいう方が考え難いでしょう」

 棘のある言葉とは裏腹に、光智の声には惜別の情が籠っていた。

 愛する本宮真奈美を失った絶望感と、家族との軋轢で心が荒んだ真司が、その拠り所を宗教、つまり宗方妙雲に求めたのは必然であったろうし、人並み外れた人間力に触れて心が癒され、彼の魔力に心酔して行ったのも当然の成り行きだったと言える。

 きっかけは心の癒しであったが、その華麗な人脈を目の当たりにして、いつの間にか結城電器の後継者では飽き足らなくなり、大きな野望を抱くようになったとしても、それも人間の性というものだろう。

 入学以来、顔を合わせる機会も多々あったのに、先頃になって、急に親しく声を掛けて来たのは、妙雲の指示に従ったからに違いない。

 サンジェルマンに盗聴器を仕掛け、自分と真奈美の監視をしていた真司は、あの自社の創業四十周年パーティーの日、自分が加賀見宅へ訪問することを突き止めた。郷田組から情報提供を求められて以来、毎週日曜日の夕方に大学へ出向いていた彼は、宗方妙雲にそのことを話したのだろう。

 そこで、妙雲は自分の背後にいる勢力を探るため、郷田組には犯行時刻の指定を、真司には光智の行動を注視し、あわよくば罠を仕掛けるよう指示をした。真司が第三者の女性を伴ったのはそのためであり、野崎から真司のアリバイを確認された妙雲は、嘘の証言をした。

 光智はそのように推量したが、真司を恨む気にはなれなかった。彼もまた、心の弱みに付け込まれ、マインドコントロールをされていたのだ。そして、何よりも真司が接近して来なければ、上杉恭子と巡り会うこともなかったのである。


 捜査本部に戻った中筋を竹中捜査本部長と山根副本部長、そして森野係長の三人が待ち受けていた。

 奈良龍明の捜査は、思わぬ頓挫をしていた。

 宮崎綾香の証言によると、奈良の右前腕部の刺青は『蛇』ではなく『龍』だというのである。彼女が嘘を吐く必然性もなく、『大龍組』あるいは『龍明』という名からも『昇り龍』が妥当と考えられた。

 継続捜査班とって、これは大きな誤算であった。刺青が違っていれば、奈良は真犯人では有り得なくなる。仮に、当時十一歳だった都倉が『龍』を『蛇』と見間違えたとしても、証言としての価値を失うのだ。

 そうなれば、DNA鑑定の結果、公園のトイレから採取された毛髪類の中に、奈良のDNAと一致する物があったとしても、奈良はトイレを利用した一人に過ぎず、都倉刑事の殺害を否認されれば、推定無罪の原則から、公判維持はできなくなる。竹中捜査本部長から打開策の相談を受けた山根と森野は、中筋に意見を求めることにした。

 状況を聞いた中筋は、前回の取調べのときに受けた奈良龍明の印象から、ある秘策を申し述べた。竹中はしばらく黙考したが、中筋の意見を採用した。それは、大きな賭けともいうべき奇策であったが、時効が差し迫っている中、他に採るべき手段がなかったのである。


 山陰の島根半島に、美保浦という萎びた漁村がある。

 漁業は斜陽産業になって久しくなった。山陰における漁獲高は、最盛期だった昭和四十年代から、右肩下がりが止まらない状態が続いている。水産会社は次々と潰れて行き、漁師の数も半分以下になった。

 美保浦もご他聞に漏れず、若者が仕事を都会に求めて村を離れたため、少子高齢化は加速し、小学校や中学校の統廃合が進んでいった。それでもこの小さな村は、他村に比べれば比較的裕福な村だった。それはひとえに、隠岐諸島へのフェリーの定期便が就航していた恩恵に他ならない。

 後年、鳥取県境港市から、より利便性のあるフェリーが就航したため客足は遠のいたが、それでも一定の乗客を集めていた。

 小さな村には民宿が三軒もあった。隠岐への観光客は、ほとんどの者が素通りしたが、たまに宿泊する変わり者がいたり、リアス式の海岸が釣りの絶好の穴場となっていたため、休日には遠方より泊り掛けの釣り人も少なくなかったからである。

その中の一軒である小浜荘に、寂れた村とは不釣合いの、妙齢の女性が宿泊していた。宿帳には『鈴木久美子』とあったが、いかにも取って付けたような名前に、女将の宮本初江は、長年の勘から偽名だと見抜いていた。ただ、宿泊料は前金で貰っていたことと、取り立てて悪人とは思えなかったので、何も詮索せず泊めていた。

 ところが、当初は一泊した後、隠岐へ向うと言っていたのだが、すでに四泊したのにも拘らず、いっこうに出立する気配がないので、しだいに不審を深めていっていた。

 そのようなとき、突然彼女が姿を暗ますという騒ぎが起こった。散歩に出掛けると告げたまま、夕食の時間になっても戻って来なかったのである。荷物を部屋に置いてあったこと、またフェリーの出発時刻からして、一旦戻ってから、黙って隠岐へ向ったのではないと思われた。女将の初江は、彼女の時折見せていた、暗く沈んだ表情に不吉な予感が働き、駐在所に駆け込んだ。

 村は大騒ぎとなった。何せ戦後この方、この村においては殺人や強盗といった凶悪犯罪はおろか、空き巣や万引きの類の犯罪まで、一切無いという全くの平和な村だったからである。ましてや、自殺者などテレビのニュースや新聞の記事の上でのこと、という意識しか村人にはなかった。

いきおい、消防団をはじめ青年団、婦人会と、人総出での捜索となった。漁協は海難事故に備えて、出港の準備までしていた。

 張り詰めた空気が覆う中、夕闇も深まった頃になって、岬の方から覚束ない足取りで戻って来る鈴木久美子の姿が見えた。うな垂れていた彼女は、心配して駆け寄った女将の初江の顔を見るや否や、緊張の糸が切れたように泣き崩れた。

 彼女は、事情を訊ねた駐在所の巡査に、堀尾貴仁殺害事件への関与を告白した。巡査は仰天し、すぐさま県警本部へ報告を上げ、県警から警視庁へと連絡がなされた。

 連絡を受けた捜査本部は、直ちに石塚警部補と中筋、そして都倉の三刑事を、身柄を保護された島根県松江東署に出向かせた。

 鈴木久美子こと、山内静香の自供によって、馬場聡の容疑が固まり、警視庁から全国指名手配がなされた。特に、彼の潜伏の可能性が高い島根、鳥取の両県警本部には、捜査協力の要請が行われた。

 供述によると、事件当夜、いきなり馬場から堀尾の自宅に同行を求められた彼女は、その有無も言わさぬ強い態度に、訳の分からぬまま仕方なく着いて行った。すると、飲食中に席を外した堀尾の隙を見て、馬場がグラスに不明な粉末を入れた。 後刻、睡眠薬だとわかったが、馬場が浴槽に湯を張ったのを見て、堀尾を殺害する気だと悟った彼女は、気が動転して思考停止に陥り、後は彼の言いなりなったのだという。

 時間が経つにつれて、良心の呵責に耐えられなくなった静香は、つい馬場を詰ったのだが、それを機会に彼の態度が一変した。本能的に身の危険を感じた彼女は、馬場の目を盗んで自宅を飛び出した。

 三日間、行く当ても無く彷徨っているうち、故郷である隠岐へ向おうと心に決め、美保浦までやって来たものの、実家が隠岐にあることを知っている馬場が後を追って来るかもしれないと思い直し、美保浦で思案に暮れていたのだった。

 彼女は高校生の頃、松江市に出向くとき、フェリーに乗って度々美保浦にやって来ていたことがあり、境港市より親近感があったため、この寂れた村に留まっていたのだった。

 だが、一人で居ればなおさらのこと、騙されたとはいえ、堀尾殺害に手を貸したことへの罪の意識に苛まれた。悩み抜いた彼女は、いっそのこと自ら命を絶とうと思い詰め、岬の断崖へ立ったが、そのとき遥か波間の向こうに、うっすらと浮かび上がる隠岐諸島が目に映った。その刹那、父母への愛惜の情念が沸き、思い留まったのだという。

 島根県警の捜査により、馬場聡は隠岐諸島・西ノ島の民宿灘家に滞在しているところを逮捕され、松江東署で簡単な取調べを受けた後、警視庁へと移送される運びとなった。

 山内静香にとっては、美保浦に宿泊していたことが命拾いとなった。彼女の実家がある西ノ島には、馬場聡の他に郷田組の組員二名が、フェリーが就航している境港市のホテルには、同じく郷田組の組員二名が潜伏していたのである。

 美保浦は、境港市から境水道を渡って島根県に入り、三キロほど東の位置にあったため、馬場と郷田組の組員の、いずれも関東人で構成された暗殺部隊の死角となったのである。


 前後して、一人の若い女性が両親に伴われ、警視庁・目黒警察署に保護を求めてきた。女性の名は高波早百合、十九歳。関東女子大学の二回生である。

 供述によると、彼女はレースクイーンやイベントコンパニオンを派遣する事務所に登録しており、結城電器の創業四十周年記念パーティーのコンパニオンとして雇われた。当日、来賓の接客をしていたところ、真司から良いアルバイトがあると声を掛けられ、着替えをしてホテルを抜け出し、帝都大学に行った。

 真司は、帝大の正門を入ったすぐ横にある警備員室の影に隠れ、正門前と裏手の林の奥の様子を窺っていた。日曜日なので警備員室は無人だった。しばらくして、真司に言われるまま、警備員室横の公衆電話を使って消防署に通報し、そのまま再びホテルに戻った。真司からは、この件を秘匿するよう固く釘を刺され、謝礼として二十万円を手渡された。

 翌日、報道で加賀見宅の事件を知ったが、真司の実家は社会的地位があり、また犯行に手を貸した訳ではなく、むしろ事件を通報したのだから、と自身に言い聞かせて時を過ごして来た。

 ところが、その結城真司まで死亡したというニュースを耳にして、只ならぬ事態に背筋が凍りつき、ともかく両親に事情を話したのだという。

   

 東京国税局の脱税による刑事告訴を受け、警視庁・捜査二課は奈良龍明を逮捕した。

 奈良は、取り調べに対して真摯に応じた。彼には、正直に自供することで、保釈を早める計算があった。

 ところが、拘留三日目の取調べは、捜査官が捜査第二課から、森野、石塚、中筋の三名に代わった。奈良は少なからず動揺した。その心の内を見せまいと、前回の約束を反故にした森野をことさら詰った。

 奈良の態度に、中筋は手応えを感じていた。俗に言う、弱い犬ほど良く吠える、という例えもあるように、実際威勢の良い者ほど、口を割ることが多いのだ。

 森野も冷静に応対した。奈良の悪態は、彼の動揺を物語っているからである。しばらく奈良の罵声を遣り過ごし、彼の気分が落ち着くのを待ってから、おもむろに切り出した。

「毛髪を貰いたいのですが」

「毛髪? なんでや」

 奈良は興奮冷めやらぬ中で訊いた。

「DNA鑑定をしたいのですよ」

「DNA鑑定って、俺は堀尾なんか殺しとらんで」

 奈良は強気な面をしていた。

「それを確認するためにも、お願いしたいのです。どうです、スッキリした方が良いでしょう」

 DNA鑑定は終了済みであったが、中筋の提案で、敢えて本人に提供を求めた。 深謀遠慮が始まっていたのである。

 奈良は、しばらく考えた後、

「しゃあないなあ」

 としぶしぶ応じた。

 拘留四日目は、再び捜査二課が取り調べに当り、その間に科学捜査研究においてDNA鑑定が行われた。当然、奈良の毛髪は、都倉警部の殺害現場である練馬区の公衆トイレで採取された毛髪の一つと一致した。

 拘留五日目と六日目は、取調べは行わなかった。奈良に疑心暗鬼を抱かせる心理作戦である。

 そして、拘留七日目。捜査一課は、ついに核心部分の取調べに入った。

 事情聴取には、森野係長と中筋、そして都倉が当った。いつものように、口火を切るのは森野である。

「DNA鑑定の結果、堀尾殺害事件に関して、貴方は『シロ』でした」

 森野は、あくまでも丁寧な言葉遣いをした。これも、筋書きに沿ったものである。

「そうやろ。せやから、言ったやないか。ほんで、いったい何時釈放してくれるんや」

 奈良は涼しい顔で言った。

「釈放ですか。ちょっと無理かもしれませんね」

「なんでや」

 奈良の面に、一瞬不安が奔った。

「実は、意外な事実が判明しましてね」

 森野は、まるで他人事のように言った後、奈良を覗き込んだ。

「ある公園のトイレに落ちていた毛髪と、貴方の毛髪のDNAが一致したのです」

「なんのこと……」

 取り合わない素振りをしようした奈良は、ようやく森野の狙いを理解した。

「そりゃあ、俺かて、公園のトイレぐらい使うで」

 奈良は力の無い声で、苦しい弁解をした。

「ところが、ただの毛髪じゃないのですよ」

「……」

 一転、奈良は押し黙った。青筋を立てたこめかみから、胸の動悸を懸命に押さえ込んでいるのが見て取れる。

「十六年前の毛髪です。何か思い当たる節はありませんか?」

「……」

 奈良は押し黙った。

「黙秘ですか。良いでしょう、私が勝手に話します。十六年前の四月八日、午後八時三十五分頃、都内練馬区の区民公園、通称桜公園の公衆トイレで、警視庁・練馬警察署の都倉警部が何者かに殺害されました。しかし、残念ながら犯人検挙には至らず、今日を迎えています。ところが、今申したように、鑑識が殺害現場から採取した毛髪の中に、貴方のDNAと一致した物がありました」

「……」

 伏し目勝ちの奈良の息が、しだいに荒くなっていった。

「そこでお聞きしたいのですが、事件について何かご存知ないでしょうか」

「……」

 奈良は頑なに口を閉じたままだったが、、

「黙っていると言うことは、心当たりがある、と見なしますよ」

 との森野の挑発的な言葉に、ようやく口を開いた。

 奈良は視点をそのままにして、

「俺かて、トイレぐらい行ったかもしれんが、何時だったかまでは覚えているはずがないやろ」

 と、母親に叱られたときの子供のような弁明した。

「それは、そうでしょうね。ですが、当日の午後五時に、区の清掃員が掃除をしているのですよ。ですから、貴方は午後五時から犯行のあった八時三十五分までに利用したことになるのです」

「そやからと言って、俺が犯人とは断言できんやろ」

 奈良はいじけた口ぶりになった。その様子に、中筋は心の中で膝を打った。彼が目論んでいた状況になりつつあったのである。

「もちろんです」

 森野は、椅子から立ち上がって、奈良の後ろに廻りながらそう言うと、

「ところで、貴方はトイレから出たところで、少年とぶつかっていませんか」

 と追求の鉾先を変えた。

「少年? いや、知らんで」

「そうですか。少年はたしかに貴方とぶつかったと言っているのですがねえ」

「俺は知らん」

「良く思い出して下さい」

 森野は、奈良の肩に手を当てて言った。

「知らん。そんなに言うなら、そいつを連れて来い」

 奈良は開き直ったように言った。機が熟したと判断した中筋が都倉の背を叩いた。

 都倉は身を乗り出した。

「ここに居る。私がそのときの少年だ」

「な、なに。お前が……」

 奈良の顔面から血の気が引いていくのがわかった。それでも、奈良は必死に抗弁した。

「せやけど、十六年前やったら、お前はまだ子供やったやろ」

「十一歳だ」

「十一歳やったら、俺の顔など憶えているはずないがな」

「私は顔など見ていない」

 都倉は冷たい目で奈良を睨み付けた。

「せやったら、なんで俺やとわかるんや」

 奈良は視線を逸らして言った。顔を見られていないはずの彼が視線を逸らすのは、心の弱さを表していた。

「顔は見ていないが、別の印を見た」

「な、なんや」

「お前の右前腕の『龍』の刺青だ」

 数瞬間が空いて、奈良は都倉に視線を合わせた。

「俺の刺青だと? 嘘を吐くな」

「嘘じゃない。私はたしかに見た」

 都倉は、努めて感情を抑えて言った。

「刑事が嘘付いてええんか」

 強気な言葉とは裏腹に、目が泳いでいる。

「嘘ではない。では、お前の腕に龍の刺青は無いのか」

「それは、ある」

「それ見ろ」

「せやけど、違う。お前は『龍』を絶対に見ていない」

「なぜだ。なぜそう言い切れる」

「それは、それは……」

 奈良の唇が震えていた。そのとき、中筋が森野に目配せをした。仕上げに入る合図だった。

「奈良さん、彼をよく見て下さい」

 中筋が初めて口を開いた。

「な、なんや」

「誰かに似ていませんか?」

 中筋はそう言いながら、都倉の顔を奈良の眼前に近づけさせた。

「……」

 錯乱気味の奈良は、中筋の言葉の意味が良く理解できなかった。

「彼の姓は『都倉』というのです」

「と、都倉? まさか……」

 奈良は、まるで亡霊を見ているかのような目になった。もちろん彼は、自分が殺害した男が、都倉という刑事だということは報道で知っていた。

 中筋はこの機を待っていた。

「この男は、お前が殺害した都倉警部の息子だ!」

 一変、中筋は怒号すると、奈良の背を強く叩いた。

 放心したように、都倉正義を見る虚ろな目には、十六年前に殺めた男の面影が映り込んでいた。

「あの時は、あの時は、本当に『龍』ではなかったのだ……」

 奈良は、独り言のように呟くと、全身を震わせながら崩れ落ちた。

 奈良は、ほどなく自供を始めた。中筋は前回の取調べで、土壇場での心の脆さを見抜いていた。奈良龍明が大龍組を継がなかった真の理由は、そのあたりに有るのだろうと推測していたのだった。

 高校卒業後に上京した奈良は、偶々知り合ったイラン人の仕事を手伝うようになった。それが覚醒剤の売人である。大龍組を若頭の勝部幹夫に譲った見返りとして得た金を覚醒剤売買に注ぎ込んだのだった。

 事件当夜、殺害現場で覚醒剤の確認をしていたところ、たまたま用を足しに入った都倉警部と出くわした。覚醒剤は鞄の中に隠していたが、奈良の挙動不審に気付いた都倉は職務質問を始めた。そのうち、鞄の中を巡って口論から揉み合いになり、弾みでナイフを突き刺した、というのが真相であった。

     

    

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