06「こんなに大きくなりました」

 命からがらブラジル大使館に駆け込み、帰国の手続きが取れたのは、俺が日本を離れてからちょうど三十五日目になっていた。


「ふっ。ようやく我が祖国に帰ってきたわ」


 俺は顎まで生えそろった無精髭をゴリゴリやりながら気分は野武士になっていた。


 いやぁ、この一か月間実にいろいろあったよ。


 つか、なんで戻る場所が世界一治安のよいニッポン国じゃないのよエルフのお兄さん。


 まさか、飛ばされた先がブラジルの山奥だなんて、なにもかもが理解不能だったんだぜ。


 ここに至るまで、なんと金塊を巡るガリンペイロの醜い戦いに巻き込まれるわ、スペイン人ハーフの美女との熱いロマンスは生まれるわ、ナチスの残党との決戦に九死に一生を得るわで、ほとんど一生分の危機的状況に陥ったが……本編とは関係ないので割愛しておく。


「日本の匂いだ……」


 俺は少年院帰りの明日のジョーのように、ずた袋を担ぎながら、カイワレみたいな妙な草を唇の端で上下させた。


 付き添いである日本大使館の人がジロリと横目で睨むので、慌てて床に吐いた。


 ふふ、雰囲気だよ雰囲気。高校生相手にムキになるなよ、もう。これだから役人は。


「藤太ッ!」

「あなたって子は、もう――」


 空港にはおろおろした様子で父母が待ち構えていた。母には随分と心配をかけてしまったか。


 駆け寄る両親をブラジル仕込みのハグで迎撃しようと待ち構えていると、そのうしろに控えていた金色の風が、さっと走った。


「トータッ!」

「え――」


 その女性の声は、ずんと心臓に響くほど美しいものだった。


 金色の髪に、輝くような金色の瞳。


 背はスラッと高く、俺とほとんど変わらない、モデル体型だ。


 美術品の造形めいた際立って美しく整った目鼻立ちと、うっとりするような笑顔に魅入られ、俺は塑像のようにその場に立ち尽くした。


「う、ぶっ?」


 抱きつかれたと同時にひっくり返った。


「トータ、トータッ! トータぁ!」


 ぎゅむぎゅむと大きな乳房に顔を押し包まれ、呼吸ができない。信じられないほど張りのある巨乳のやわらかさに頭がカッカッと燃え立った。


 誰だ? こんなふうに熱烈に歓迎してくれる美女なんぞ知り合いにいないぞ。


 なんとか苦心して顔を上げると、涙をボロボロ零す、二十くらいの美女が俺の顔を真っ直ぐ見つめていた。


 いやぁ照れるなんてもんじゃない。息もできないほど、心臓がバクバクいっている。


 彼女のスタイルは、あらゆる女性が追い求める理想を体現したようなものだった。


 ぼんっと突き出した胸に、きゅっとくびれた腰に、スカートの上からでもわかる形のよいお尻は凶暴的ですらあった。


 ふわぁ、いい匂いだよぅ。


「トータさんっ!」

「ふんがっ」


 油断していると死角に回っていたもうひとりの声が天から降ってきた。


 むぎゅと、大サービスですといわんばかりに豊満な乳房が俺の顔面を圧迫した。


 この声の主は間違いない。エロイーズだ。この乳からも理解できますね。


「なんでぇっ。連絡くれなかったんですかぁ……」

「悪い」


 見ているだけでこっちも泣きたくなるような、悲痛な顔をしていた。エロイーズは泣き笑いの表情で黒曜石の瞳をうるると濡らしている。自分でも思う。迷惑をかけた。


「お、おい。つか、こっちのおねーさんは、いったいどなたさんなんで?」


「ひどいようっ。マゼルはマゼルだよっ! ちょっと会わなかったうちに忘れちゃうなんてっ」


 美女は唇をへの字にすると、子供っぽい仕草で自分のスカートを掴んで首をぶんぶんと左右に振り回した。


 脳みそがうに化。再び。


「でええええっ!」


 ちょ、待っ、ちょっ。なんでやねーんっ!


「トータぁ。マゼル、いい子で待ってたよ。ママのいうこときちんと聞いて」


 金髪の美女はくふんと鼻息を漏らすと、仔犬がやるようにぐりぐりと鼻先を胸のなかに押しつけてくる。ああ、この懐かしい感覚は、なんだろうか。


 エロイーズもエロイーズで傍目も憚らず首っ玉にしがみつくと、ひんひんと大粒の涙を漏らしている。


 ちょっと待った、おまえら。ここには父も母もおるんやで。


 俺はぐいと首を伸ばして尻を冷たい空港の床にぺったりつけたまま両親を仰いだ。


 血を分けた家族であり、俺は両親に愛されているという自負がある。だってひとりっ子だし。


 だが、彼らが俺に向けている視線は、かなり複雑なものが入り混じっており、一目見ただけではとてもではないが、理解しえない色合いをしていた。


 父は大使館の役人としばらく話をしていたが、それが終わると空港のラウンジで座っていた俺たちに向かって淡々と述べた。


「とりあえず帰るから。藤太、車に乗りなさい。家に着いたら、話がある」


 父をもの凄く遠くに感じたのは気のせいだろうか。怖い、怖いよパパン。


 ぴっかぴかに磨き抜かれたセダンに五人で乗り込んだ。後席は、俺とマゼルとエロイーズの三人で、さすがにぎゅうぎゅうと狭く感じる。


「トータ、あのねあのね……」


 マゼルは再会してからというもの、俺にぴったりとくっついてまるで離れる様子がない。


 今も、俺とほとんど変わらない背丈でしなだれかかっているので、両親を前にしてみれば気まずいことこの上ないのだ。


 不可思議なことに母はそんな俺たちの姿をあたたかい目で見守っており、そのちぐはぐさが胸に宿ったハテナマークに拍車をかけていた。


 一方、エロイーズははじめはともかく、今はどこか澄ました顔で俺とマゼルのやりとりを、一歩離れた場所から俯瞰している様子だった。


「おい、どうなってんだよ、これは」

「あとで説明しますよ。あとで」


 彼女は口数も少なく、窓の外に流れる風景をジッと見やっている。


 服装こそ、あのボンテージではなく、ビビットカラーのタイトワンピであるが頭の角は隠そうともしていない。


 俺が疾走していた一か月余はどうして過ごしていたんだろうか。


 というか、学校じぇんじぇん行ってないけど、卒業大丈夫かな。


 とか、思いは千々に乱れてゆく。


「それでね、それでね……」


 マゼルは、とにかく俺の気を引きたいのか、朝起きてから自分がしたことをこと細かく、途切れなく説明していた。


 驚いたのは、姿かたちもそうだが、一か月前よりも格段に語彙が増えているということだ。


 こうしてガキみたいにくっついてくるのはともかく、もっと落ち着いて話していれば、自分と同年代の女性であるとしか思えないほど語り口は流暢になっていた。


 なんというか隔世の感があるな。


 ほんの、ひと月前までは、俺、こいつのおしめをとっかえたり、抱きかかえてご飯を「あーん」とかやって食べさせていたんだよなぁ。


 う。ちょっと想像して、後頭部が熱くなった。


「ね、トータ。変な顔してどうしたの?」

「や、別に」


 マゼルさんは、無防備に鼻先が触れ合うような位置まで近づけ目を覗き込んでくる。


 なんちゅうか、面影は端々に残っているが、あれとこれを同一人物と断じるのは、教えてもらわなきゃ絶対に不可能なんだよなぁ。現に、今も壮大ないたずらだと疑っている。


 この人、マゼルの姉か、お母さんだっていうほうがずっとしっくりくるよなぁ。


 俺の動揺を知ってか知らずか、マゼルはだっと抱きつくと、恥ずかしげもなくすりすりと身体をすりつけてくるので、ここまで密着されると頬が燃え立っちまうぜ。てか、はずいよう。


「うー。トータの匂いがするぅ」


「あらあら、マゼルちゃんは甘えん坊さんねぇ。パパにずっと会えなくて寂しかったのかしら」


 助手席を振り返った母が目を細めてからからと声を上げて笑う。


 母よ! 今、あなたなにをいったのでしょうか。


 息子の僕にはこれっぽっちも理解できんのですが。


「マゼルちゃん。トータさんはお疲れですから、お車のなかではいい子にしましょうねぇ」


「や!」 


 背筋の毛がそそりたつような甘ったるい声をエロイーズが出したかと思うと、マゼルは俺の胸に顔を埋めたまま即座に拒否した。


 直後。エロイーズの背に不動明王が顕現したかのように、業火が立ち昇ったように見えたのは錯覚だろうか。


「ほほほ。この子ってば。お義母かあさま。マゼルはほんと甘えんぼで困りますわ。ね」


 エロイーズがボキの母に対して不思議な言葉で呼びかけながら、膝にとりついているセクシーエルフさんを引っぺがそうとしている。


「やーだーっ。はーなーせーっ」

「いい子、だーかーらっ。ほっ。せいっ!」


 が、すでにマゼルのほうが十センチ以上背が高く、体格もいいのだ。


 当然のこと、単純な力比べではどうにもならない。


 そもそもこんな狭い車内で争うんじゃないよ、おまえら。


 謎を乗せてセダンは首都高に入った。あ、なんかちょっと俺酔いはじめたかもしれんわ。


 運転手さん。おろして欲しいかなぁ。

 あはは。


「おろへまへん」


 父はステアリングを実直に操作しながら、少しだけ制限時速を超え追越し車線に入った。






 帰ってきた、ついに我が家に帰って来たぞ。ほぼひとつきぶりやね。


「ただいまっ」


 父がセダンを車庫に淹入れ終わったと同時に、マゼルが母から家の鍵を受け取ると、あたりまえのような顔をして一番乗りした。


 おいおい、母さん。いくらなんでも、馴染み過ぎじゃないですかねぇ。


「はは、マゼルちゃんは元気がいいなぁ」

「ほんとね」


 父が好々爺のような年寄り染みた口調でいうと、母も頬に手を当ててのんびりとした声を出した。


 待ってくれ。なんで、そんなに孫を見るようなしみじみした語り口調なんだよ。


 父はまだ五十になったばかりだし、母も四十二だ。


 見た目だって、贔屓目に見なくてもずっと若作りなのに、なんでいきなり老成した感じなんですかねぇ。


 エロイーズは極めて自然な感じで車を降りると、ぴったりと俺に寄り添っている。


 はは。なんかさ、これって、若夫婦とその孫、それにお祖父ちゃんお祖母ちゃんが外食に出て帰宅しましたっ。みたいな流れだよね。いくらなんでも。そんな、馬鹿な……。


「ビンゴ、です」


 瞬間的に身体が凍りついた。エロイーズが耳元でさややくと、あとはもう俺を見ずにすたすたと我が物顔で家に入っていく。


 このときはまだ。


 悪い予感が当たるはずないと、どこか楽観視していたのかもしれない。


「藤太、ちょっとそこに座れ。母さんは、マゼルを連れて向こうに行っていてくれ……」


 ちゃんづけが消えている。これはマジ話だ。


 父は俺とエロイーズを居間のソファに並んで座らせると、実に難しい顔をして、寿司屋でもらったごつい湯呑を手に取った。


 この感じは覚えがあるぞ。確か、親父が海外パブの女に入れ揚げ、母に実家に戻られるという大暴投を行い「パパたち離婚しちゃうかもしんない」とかほざいたときとそっくりだ。


 一難去ってまた一難。命からがら日本に戻れたというのに、神はなぜこの子羊くんに試練を投げかけてくるのですかねぇ。トラウマじゃんよ、もおおっ。


「まあ、いまさらおまえがやったことをどうこういっても仕方がないが。マゼルをどうして認知してやらないんだ」


 は。


 たぶん、俺はそのとき公園の鳩みたいな顔になっていたと思うの。


「確かにエロイーズさんは外国人で、色々と複雑な事情があるかもしれんが……。父さんはな、おまえがやってしまったことを咎めているわけじゃない。男として責任を取らず逃げ出したことに対して怒っているんだァ!」


 親父、フルスイング。


 ガッと頬骨が鳴ったかと思うと、俺は思いきりぶん殴られてソファのうしろに、どでーんとひっくり返った。


「あなたっ!」


 あなたじゃねえよ、エロイーズ! 

 なんで、今、俺殴られたの? 

 わけわかんねぇし!


「立て、藤太。今日という今日は、おまえの根性を叩き直してやるっ。ひとりっこといえど、甘やかした私が悪かったのやもしれんっ」


「お義父とうさまっ。おやめになってくださいましっ。トータさんは悪くありませんっ」


「なにやってるのよ、お父さんっ。藤太、藤太? 早く謝んなさいっ」


「トータッ!」


 がたごとと家具がひっくり返る音で、隣室の畳部屋にいた母とマゼルが飛び込んできた。


「立てぇ。藤太! どんなに厳しく辛くても、おまえは現実から逃げてはいかんのだっ。私も、私もいっしょに苦しんでやるからっ!」


 父は俺の襟元をぐいと引き上げると真っ赤な目をしてこっちを睨みつけている。


 なんか彼のなかで青春的なスイッチがオンしちゃったらしい。


 ――ははーん。そうね、そうなっているのね。


 俺は心を鬼にした父に無理やり起こされながらエロイーズを凝視した。


 彼女は、横を向くと、くつくつと声を押し殺し笑っている。


 この茶番、だいたい読めたぜ。


「じーじっ。だめ! トータをいじめちゃダメなんだからねっ!」


 マゼルはそのすぐれた体格を生かして俺を父から引き離すと、うーっとかばうようにして吠え立てた。


「そうか。マゼルは、パッパが大好きか。ははっ。負けた、負けた……」


「お父さん」


 母が駆け寄って、父の腕を取った。なにこの小芝居。俺は終始真顔である。


 父は、ばっと両手を広げると、目を真っ赤にして恍惚感に浸っていた。


 役にハマりすぎぃい! おっとさん。


「エロイーズさん。藤太はまだ学生で半人前だが、見捨てないでやっていてくれるか。あなたも、大学生でありながら学業を放棄してマゼルをここまで育てるのは大変だっただろう」


 オヤジ、違うぅ。それェ! 


 そいつ大学デビューに失敗して世界を滅ぼそうとしてた危険ヒキニートだから!


 悪の化身だからっ。


「どうかこの愚かな息子を私に免じて許してやってほしい……!」


「それは、私からいわなければならないことです。まだまだ、人間としても未熟ですが。お義父とうさまも、お義母かあさまも、私とマゼルを受け入れてくださって、本当に深く感謝しております」


 茶番はもはや俺を必要とせずに収束しはじめていた。


「トータ、ほっぺ赤くなってるよっ。冷やさないとっ」


 マゼルは慌ててながら俺を抱き起すと洗面所に引いて行って、タオルで殴られた場所を懸命に冷やしてくれた。


 この家で信じられる正義がマゼルのみと確定した瞬間だった。






「俺とおまえが夫婦ぅ? しかも、マゼルは俺たちの娘ェ!」


「はいです」


 帰国間もなく、ぶっちぎりの舞台が終わったのち。俺に告げられた事実は、なんとなく予測のついた、かなりペラいお涙頂戴もののストーリーだった。


 久方ぶりの自室でくつろぎながらエロイーズに、俺が召喚陣に消えたあとの話を聞いた。


 なんでも、両親はあのあと予定を早めて帰宅し、その場にいたエロイーズたちとかち合ったらしい。


 その際に彼女は、両親に向かって自分たちは俺の内縁の妻と娘だと信じ込ませたらしかった。


 当然、サキュバスであるエロイーズの角やエルフであるマゼルの長耳は幻術をかけた。


 俺が、召喚陣に消える際呼びかけた言葉は「家族を頼む」だった。


 エロイーズはエロイーズなりに、俺の言葉を愚直に守ろうと、よい嫁を必死で演じ、父母は認知を恐れて逃げたという設定の俺を申し訳なく思ったらしく、なし崩しに受け入れていったらしかった。


 あとは取り立ててなにかをするということもなかったらしい。


 マゼルのかわいさは折り紙つきだし、第一に俺の父母は異常なほど子供好きだったのだ。


 エロイーズも、逃げ出したヤリチン高校生である俺をひたすら待つという、もはや日本から絶滅した大和撫子を演じ切り、父母の信頼を勝ち得て藤原家の嫁という座を獲得したらしい。


「あ。ちなみにトータさんは、出会い系で知り合った私を無理やり凌辱して、そのときのことを引き合いに出してつき合うことを強要し、あまつさえ避妊せず、ついには孕ませに至ったお茶目さんとして、涙ながらに語ったら上手く譲歩してくれたので。それが橋頭保でしたね」


 ふざけんなよ! 俺はどこの凌辱ゲーの鬼畜キャラなんだよっ?


 ベッドに頭をもたれかけさせながら思わず白目を剥かざるを得ない。


「トータ、大丈夫? どこか気持ち悪い悪い?」


 ああ、ありがとうマゼル。おまえだけが俺の心の救いさ。


「しかし、なんですね。マゼルが一か月くらいでこれほど成長するとは思ってもみない事態でしたよ」


 エロイーズがいうには、サキュバス幻術によって、今のマゼルは両親の眼には一歳くらいの女児にしか見えないようにしてあるらしい。


「てか、マゼルにじゃなくて、父さんと母さんに術をかけたのかよ」


「この子、異様に抗魔力が強くて。私程度の術では、弾かれちゃうんですよ。その点、お義父とうさまやお義母かあさまは極めて普通の人間でいらっしゃいますから……」


「つーかさ。おまえも本気で家族ごっここのまま続ける気はないだろ? マゼルは、まあ、なんとか俺が面倒みるからさ。おまえはこの先――」


「え。なにをいってるんですか、トータさん。もう、実質上私たちは夫婦なんですけど」


「は?」


「もう婚姻届け出してありますしね。トータさんのご両親は、快く引き受けてくれましたよ」


「あ、あははっ。そんな、冗談きついんだから。エロちゃん……」


「うふふふ」


 刷毛のように長い日本人離れしたまつ毛をそっと伏せて、エロイーズはやや厚ぼったい唇をすぼめると、実に官能的な笑みを作った。


 ぞくり、と。腹の底が冷えるような感覚。


 エロイーズはぺろろと舌なめずりをすると、四つん這いのまま寄ってきた。


 風呂上がりなのだ。匂い立つような色香を身体中に纏っている。


 わざとそうしているのか。量感のある胸元がバッチリ目に入って頭がくらくらした。


「あ。そうだ。ちょっとパパンと明日の町内会の打ち合わせが――」


「今は、夜の十一時ですよ。お義父さまもお休みになっておられるのでは?」


 くっそエロいぞ。エロイーズちゃん。

 なんてこった。


 これじゃ、本当に男を誘う魔性の淫魔サキュバスみたいなじゃいか……!


「だから、私は、サキュバスですってば。それとも、トータさんは。私のこと、きらい?」


 両肩を掴まれ、ジッと瞳を覗き込まれた。


 よく考えれば俺はこいつのこと拒否する理由ないんじゃないかな?


「あのとき、本当は、私も死のうって、思ったんですよ」


 ジワリと、エロイーズの瞳が曇った。


「でも、あの言葉があったから、今日まで耐えられたんです」


 彼女はそういうと、今まで溜めていた感情を爆発させ、首筋に顔を埋めてきた。


「学生証を家に忘れたのもわざとですっ。だって、私は探して欲しかったんだから――!」


 ここまで感情をぶつけられて無反応を貫けるほど、俺は木石に徹することはできなかった。


 ただの肥大した承認欲求といえばそれまでだけど。


 彼女は、帰ってくるとなんのあてもなかった俺の言葉を愚直に信じたのだ。


 ひと月で戻ってこれたのは、ただ運がよかった。それだけの話だ。


 ……おい、ちょっと、待て。


 エロイーズの獣のような吐息が耳元で激しくなってゆく。


「トータさんっ、トータさぁん。あぁ。すっごい、大きい。コレ。はぁはぁ……」


 今、俺はいい話をしていたのに、おまえはどこを触っているのかぁ――。らめぇ!


「だめーっ!」

「きゃっ、なにをするのですか」


 俺の貞操の危機を感じたのか黙って見守っていたマゼルが止めに入った。


 ちょっとだけ、ホッとする。

 いいのさ。どうせ俺はヘタレなのさ。


 マゼルは本能的に母性本能が働いたのか、俺の身をぎゅっと抱きしめてかばうようにエロイーズを睨みつけている。


 月並みであるが両者の間に見えない火花が飛び散り、くつろぎ空間であるはずの自室は世紀末覇者が互いの武を競いそうな剣呑な気配に包まれてゆく――ホント、やめてよ。


「……はぁはぁ。マゼルちゃん。今からパパとママは夜通し夫婦のコミュニケーションを仲よく取るのだから、今夜は、ばぁばのお部屋で寝なさいね。さ」


「やだっ!」

「むかっ」


 ギラギラと血走ったエロイーズの瞳に邪悪な獣欲がほとばしっているのを感じたのか、マゼルは顔をぶんぶんと左右に激しく振って、提案を頑強に拒否した。いいぞ、その調子だ。


「じゃあ、特別に今日はこれからアイス食べていーから。ね?」


「ほんとっ? じゃ、ばぁばと寝るっ」


 マゼルは唸るのをやめてぴょんと飛び跳ねながら顔をほころばせた。


 おい、簡単に懐柔されてんじゃないよ。てか、さっき歯磨いたばっかだろ。この子虫歯になってちゃうよ、エロイーズさん、ほんと自分の欲望に忠実で歪みねぇな。


 結局のところ、エロイーズはさんざんにごねたが久しぶりということで、三人で川の字に寝ることで危機は回避できた。


 もっとも、マゼルの成長が半端なかったんで床に毛布を並べて寝たんだが……。


 それでもエロイーズ先輩の寝相は悪かったんで、夜中に腹を蹴られて三回くらい起きた。


 これ、立派な離婚理由になりますよねぇ。






 ともあれ、久しぶりの日本。久しぶりの我が家であることに違いはなかった。


 俺は巧みにマゼルを誘導してエロイーズに絡みつかせることによって、とりあえずの睡眠を得ることはできたのだ。


 ぱちり、と。


 目を開けて、敷布団から飛び起きた。あたりには、見慣れた家具がいつもどおりの位置で静まり返り、今までのことがなにもかも夢かと一瞬思えたが、毛布に残る女の濃い残り香で一気に現実へと戻された。


 やっぱ夢なわけないよな、これは。


 溜まりに溜まった膀胱の中身をトイレで空にすると、寝ぼけまなこをこすって階段を下りる。


「おはよう、藤太。なんだ、早いな」


「おはよう。なによ、もっとゆっくりしてればよかったのに」


 食卓には両親がそろって茶を啜りテレビを眺めている。父は新聞に視線を落したまま、音だけを拾っているようだった。


「あ、おはようございます、トータさんっ」


 台所には母に代わって調理台に立つエロイーズの割烹着姿と、


「トータっ、おあよーっ」


 情け容赦なくダッシュして胸のなかに飛び込んできたマゼルがあった。


「お、おはようございます」


「マゼルね、マゼルね。今日もひとりでおっきできたよぅ」


「あ、あはは。そうか。マゼルはいい子だな」

「うふー」


 胸元に頭をぐりぐり押しつけてくるマゼルの頬を軽く撫でていると、母がやわらかな目で俺たちのやりとりを見守っている。


 母には、きっとマゼルの仕草がちっちゃい幼児のほほえましい愛情表現に見えているのだろうが、実際は若い男女がいちゃついているようにしか見えないんだよなぁ。


 それにしても対象を絞っての幻術っても罪なものだと、いまさらながら思わせられるわ。


 俺は、フライパンを上手に使いながら目玉焼きを焼いているエロイーズの背中を見ながら食卓の席に着いた。


 彼女は長い黒髪をアップにして、ふんふんふんと鼻歌まじりに上機嫌この上ない。


「トータさんっ。今すぐあったかい私の手料理ができますから、待っててくださいねー」


 エロイーズはくるっと顔だけ振り向くと、唇に手を当て投げキッスを送ってきた。日本人がやればひんしゅくものだが、ハーフでイタリアンな上モデル並みの美形な彼女のやりようはこの上もなくさまになっていて自然だった。


「やるぅ、藤太ちゃん愛されてるねぇ」


 母が口笛を吹きかねない口調で俺をからかい出す。


 この世に生を受けて十八年間。


 ただの一度も浮いた噂のなかった生物として間違っている息子をここぞとばかりにからかいたいのだろうなぁ、と思って我慢する。これこそが大人の対応ってやつだ。


 エロイーズのおくれ毛が見える白いうなじがなんとも色っぽくつい目をそらしてしまったが、新聞を読むふりをしながら俺に代わって視姦している父の目線に気づき、ちょっと情けなくなった。


 ふと見ると、母が台所を出て居間の戸口で手招きをしている。


 なんだなんだと近づくと、そっと耳元に顔を寄せささやいてきた。


「エロイーズちゃん、ホントあんたがいない間よくやってくれてたのよ。今どきの若い子に珍しく、きちんとしつけが行き届いていて。実のところ、家のことはぜーんぶ任せてあるのよね」


 仕事しろよ、主婦。


「マゼルちゃんの面倒も、ほんっとよく見てくれるし。あんたより、ふたつばっかし年上だけど、こう考えてみると、あんなにいい子があんたのお嫁さんに来てくれるなんて……。


 母さん、正直なところ、藤太はよくやったって、褒めてあげたいわ。お父さんの手前、開けっ広げには無理だけどね」


 母はあまりにエロイーズが主婦としての特性にすぐれ過ぎていたため、最近ではフルタイムのパートをはじめたらしい。


「マゼルちゃんのためにもお金がかかっちゃうしね」


 ぐふ。だから、あれは別に俺が創造した生物ではないのだが、今はなにをいっても無駄だろうな。


 どうしたことだろうな。俺が知らないうちに、ふたりの存在が着々と藤原家に根づいていっているのは気のせいなのだろうか。


 まぁ、仲が悪いっていうのよりはぜんぜんよいのだろーが。


「トータさん、できあがりましたよう。冷めないうちに召しあがってくださいねー」


「お、おう」


 俺はエロイーズの一点の曇りのない笑顔に、胸をどきんとさせた。


 そうだよな。彼女はちょっとサキュバスで角が生えていてるのを除けば、特Aクラスの優良物件であるといえよう。


 本気か嘘かはわからないが、少なくとも俺のことを嫌っている……という感じではない。


 と、なれば馬鹿みたいに拒む必要もないのではないかと思うのだ。


 いや、逆に考えるんだ、藤太。これはおまえの脱・童貞のチャンスかもしれないんだぞ?


「どうしました?」


「い、いや。ご飯ありがとうな。いただきまーすっ」


 俺は程よく焼けた目玉焼きやベーコンを噛みしめながら、疑似的新婚生活を脳内でシミュレートしてみた。悪くない、悪くないぞ。むふふ。


 そして、このとうふと油揚げの味噌汁も、だしがしっかりとれていて素晴らしい。


 母が作るインスタントの味噌で作るクッソまずい人工的な味よりかは比べ物にならないほど美味いのだ。


 料理ができて、性格がほがらかで、身体えっちで。


 なんと、彼女はまるで瑕疵の見当たらないパーフェクトな女性ではないか……!


 そう思って見てみると、なんとなくエロイーズという女性の存在に運命的なものを感じずにはいられなくなってしまうから俺も単純な生き物だ。


 とかなんとかやっているうちに、テレビには俺が大好きなキャスターのお姉さんが現れた。


 ついついガン見してしまう。かぶりつきだ。具体的にいうと画面に張りついている。


「おい、藤太。父さんテレビ見えないぞ」


 あなたは見なくていいです。


「トータさん、どこ見ているのですか」


 うるさいな、このサキュバスが。俺は彼女の太ももを見ないと一日がはじまらんのだよ。


「へえ、でも、私思うんですけど――」


 エロイーズはタオルで手を拭きながらテレビモニタの横に立った。


 俺がエロイーズの低まった声音に気づかず、釘づけになっていると、それは起きた。


 ばしゅっ、と。


 金属的な音が響いたと思うと、モニタの隣に立っていたエロイーズが唇を歪めて笑った。


 え――?


「食事中に、こういうものを見るのってマゼルの教育上によくないですよね」


 彼女が手刀を斜めにすべらせたかと思うと、液晶モニタはハサミを入れたように亀裂が走りずずっと断ち割られてテーブル台から落下した。


「ななな、なんだぁ!」

「えええっ! ちょっと、なにこれ?」


 両親には理解できなかったのか。あるいはそういうものなのか。


 俺は腰を椅子から浮かしかけたが、素早く近づいてきたエロイーズに両肩を押さえられ、無理やり席に着かされた。


「もうっ。ダメですよ、トータさん。私という妻がありながら、こんな公営淫売に目移りしてしまうなんて。許さないぞっ」


 エロイーズが長いまつ毛を伏せウインクしながらかわいく声を作る。


 彼女はくすくすと笑顔を絶やさないが、目がこれっぽっちも笑っていない。


 ――というか、完全にブチ切れている。

 これ、優良物件じゃないですよねぇ。


 俺はとんでもない地雷を踏み抜きつつあるのだろうか。


 どうしよう凄くこの場から逃げたい。椅子をカタカタいわせながら震えていると、エロイーズは俺の頭に手をかけながら顔を近づけてくる。目がぎらぎら輝いていてひたすら怖い。


「あ、トマト。残ってるじゃないですか。これ新鮮でとっても美味しいんですよね。あーん」


 彼女は皿のつけ合わせのプチトマトを見つけると、フォークの先端で、


 ぐさり


 と、刺して俺の口元に持ってきた。


 先端がぷるぷると震えて俺の両眼を狙っているように見える。


 俺は彼女の機嫌を損ねないように、意思の力で唇を動かした。


「あ、あは。おいし、美味しいです」

「――まだ、食べてないじゃないですか」


 スッと目が猫のように細められた。


 真顔だった。俺はこの瞬間、日本に戻ってきたことをひたすら後悔していた。

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