02「サキュバスさん逃げないで」

 夕飯は豚肉の生姜焼きにオニオンスープ、それとシーザーサラダもどきで大層美味しゅうございました。


「ごちそうさまでした」


「トータさん、ほんっと美味しそうに食べてくれますねっ。私も作り甲斐があるってものですよん」


 俺は目を閉じてフランシスソワーズに礼をいうと、淹れてもらった濃い目の茶を啜った。


 ああー、じんわりくるんじゃ。


 目の前に座ったサキュバス料理人さんはというと、マゼル姫を抱っこして離乳食らしきものを与え、養っている。マゼルはまん丸の目を見開いて食欲旺盛そのものだ。おかげで、フランシスソワーズはまだ、自分の食事にとりかかれていない。


「あ、悪い。ごはん、代わるよ。ほら」


「すいませんねー、トータさん。じゃ、私もお言葉に甘えちゃいますねぇ」


 彼女は乳母ということだが、子供にご飯をくれていて夕食が冷めてしまうのは、さすがにちょっと悲しいだろう。


 俺は、マゼルをフランシスソワーズから受け取ると、きゃっきゃっとはしゃぐ赤子の口へとスプーンを使って粥を運んでゆく。


 マゼルが美味しそうにご飯をもぐもぐしているのを見ると、胸の内がじわっと隅々まであたたまってゆくのを感じ、自然と頬がゆるんでしまう。しばし、ゆるやかな時間が流れる。


 って、――あれ?


「あは。ほら、美味いか――はうぁ!」

「どーしたんですか、トータさん?」


 箸を使って器用に肉を分けていたフランシスソワーズが問うてくる。


 なにやってんだ、俺は……!

 

 これじゃ、ナチュラルに交代で子供の世話をする夫婦みたいじゃないかっ。


「そうじゃなくてだ、フランシスソワーズさん。いったい、いつまでこんなことを続けるつもりだ」


 俺はマゼルの口に粥を運んでいたスプーンを一旦止めると、重々しくいった。


「えと、今日はトータさんがマゼルをお風呂に入れてくれるんですよね?」


「違うっ。というか、いつもやってるみたいにいうなっての! 今後どうするかってのを聞いているんだ」


「今後、それを、私の口からいわせるおつもりですか。うふふ」


「その変な笑い方やめてよ。だいたい、あのオークさんたちに関しては俺、どうにもできないぞ。ただの高校生だし」


「私の希望としては、あの豚さんたちが私たちのことを諦めるまでここでかくまって欲しいのです」


「まあ、そうなるよね。はぁ、月曜には親だって帰って来るし。長くは無理だぞ。どのくらいなんだ」


 フランシスソワーズはびっと指三本を立てると不敵に笑った。


 なんで笑ったかはまるで意味わかんないけどな。でも……。


 三日か。


 自分の裁量でどうにかなる許容範囲内だ。


 幸いにも、明日明後日は土日であり、来客予定は……そのへんはどうにでもなる。


 俺ひとりが口をつぐんで、この憐れな主従を匿うことは不可能ではなかった。


 空気が変わったのを悟ったのか、抱いていたマゼルが表情を固くした。フランシスソワーズも唇をへの字にして、心なしか震えている。もったいぶるのもあれだしな。


「今日を入れて三日くらいならなんとか」 

「三年くらいおなしゃっす」

「できるかっ!」


 年単位だった。


「えぇー、ケチ臭いなぁトータさんはぁ。なぜに度量の狭さをお見せになるのですか」


「いや、それはおまえだけにいわれたくねぇよ。はぁ、とにかく月曜くらいまでならなんとかかくまってやるから、その間にどうするか算段をつけろよ」


「しっかたないですねぇ。今日のところは、このくらいで勘弁してあげますかっ」


 なんで上から目線なんですかねぇ、この方。


 フランシスソワーズは、腕を伸ばしながら「んーん」と唸ると、両手で自分の頬をぱしりと打って、席を立つと腰に手を当て、ぷりぷりした尻をくいっと揺らした。


「じゃ、お皿洗っちゃうんで先にマゼルちんをお風呂に入れといてくださいね、パパ」


「はいはい……」


 俺はマゼルを抱っこして脱衣所にまで移動し、ハタと気づいた。


「誰がパパじゃ、ボケ!」


 チクショウ、なんだか絶対なにかがおかしい。


 自分の意思に反してあらゆる事象が動きはじめている気がする。


 そもそも、俺ってばこんなに意志薄弱な人間だっただろうか。


「おい、フランシスソワーズッ! なにナチュラルに俺に風呂入れ頼んでんだよっ! おまえは俺の嬶かっ」


「――ちっ。ちょっとづつ魅了チャームが効きにくくなってますねぇ」


 フランシスソワーズが皿をきゅきゅっとスポンジで洗浄しながらなにかを呟いているが、小声過ぎて聞き取れなかった。


 なにか、本能的にやばいと俺の第六感が告げている。


「そのくらいしてくれたっていいじゃないですかぁ。夫婦は助け合いですよ?」


「俺とおまえは夫婦でもなんでもないよっ。つか、おまえこの子の乳母なんだよな? 最初といってる設定がめちゃくちゃになりつつあるんですが、俺がおかしいんですかねぇ!」


「ぎ、ギクぅ。それは、そのぉ……細かいことはどうでもいいじゃないですか! トータさんはそんなんだからいつまでたっても童貞なんですよ」

「どどど、童貞じゃないんもんっ。てか、おまえは俺のなにを知ってるっていうんだよ」


「どうせ、この三年の間に深い仲になるからいいじゃないですか」


「よくねーよっ! ってか、エルフ帝国は? オーク軍団の設定はどうした! そもそも、エルフ帝国って地球のどこにあるんだよ」


「それは、そのぉ、えーと、中南米?」


「俺に聞いてどうする。そもそも、そんな帝国聞いたこともねえよ」


「最近できたんですよ。うん、ちょお最近」


「すっごい嘘くさいんですけど。ネットで調べてもいい?」


「あ、トータさんネットとか信じる人なんですか。ネット脳なんですか。私、ウェブに落ちてる情報を拾って情強気取る方って、正直軽蔑の対象なんですけど」


「くっ。そこまでいわんでもいいじゃないか。じゃあ、大使館の連絡先を教えろよ」


「残念でしたー。エルフ帝国は国連未加盟国なんで、そういう便利なものはありません」


「んな阿保なっ!」


「ついでにいうと国際社会からも黙殺されているんで、正式には武装勢力に近いです」


「一気に格下げになった!」


「というわけで、私とマゼル姫がユーロをはじめとする西欧文明に翻弄される憐れな民人であることが理解できましたか? 日本人はもっと難民を受け入れるべきなんですよっ。


 て、ことでエルフの幼き姫ぎみをごしごし洗っちゃってください。赤ちゃんは新陳代謝激しいですから」


 俺はどう考えても穴のありまくる理論で武装したフランシスソワーズにすら舌戦でいい負かされ、泣く泣くマゼルを風呂に入れるハメになった。


「おい、姫さまよ。おまえの乳母は人間的にどうなんだ? てか、そもそもサキュバスって存在を受け入れている俺のほうが凄いのか」


 どう考えても、普通の状況ではない。あの角は、あきらかに人間の頭部にあっていいものでもないのにもかかわらず、俺の心はフランシスソワーズの存在をすとんと綺麗に落とし込んで受容しているのだ。


 マゼルは裸にされても、ただひたすらきゃっきゃっはしゃぐだけで身の危険をまるで感じていなかった。


 ふっ、今すぐそのかわいいツラを地獄絵図に変えてやんよ。


「まず、だばだばっと洗面器にお湯を入れまーす」


 俺は素っ裸になった無垢なる少女を仰向けにすると、あらかじめ湯を流してあたためておいたマットの上にごろんと寝かせる。これなら、寒い寒いないね!


 ふ、愚かな雌ガキめ。よく知らぬ男に身を任せるから、こういうことになるのだぜ!


「お客さーん。かゆいところないですかぁ」


 湯とボディソープを程よくからめ、マゼルの身体をソフトタッチで洗ってあげる。


 赤ちゃんの肌は繊細だし、他人様の娘さんだからなっ。結構気を使うぜ!


 そもそも、ベビー服を脱がせたところで、女児とはいえかなり衝撃的なものも見てしまったが、所詮は赤ん坊よ。俺の心を揺るがせることなぞはできないのさ。


 マゼルは「んー」と目をつむって愉悦の表情を浮かべている。女というものは生まれつき業の深い生き物よのう。


「と、まあ馬鹿いってないで洗浄終了。頭は、適当に洗えばいいか……」


 正直、赤ちゃんをお風呂に入れてやるなんて作業は生まれてはじめてだ。


 俺はひとりっ子だしな。


 さて洗髪にとりかかったところで問題が生じた。シャンプーで髪を泡立て綺麗にしたのはいいが、うちにはシャンプーハットなるものは存在しないので、泡を流すのが困難を極めた。


 ええい、藤太。男なら覚悟を決めろよ!


 意を決してほわんとした表情のマゼルの髪にシャワーを当てたら、うん、そうなんだよね。


 泡ごとお湯が彼女の顔にぶっかかって大号泣だ。


 まったくもって今まで泣かなかったので、俺は激しく狼狽した。


 え、あ、え、だってさ! 泡流さないんじゃお風呂から出せれないし。


 まさしく危急存亡の秋。五丈原に立つ諸葛孔明のように天を(正確には風呂場の天井を)仰いでいると、マゼル姫の泣き声に気づいた忠臣が扉をがちゃこと開いて顔を覗かせた。


「あー、トータさん。気にせず流しちゃってください。どってことありませんから」


「け、けどよ……」


「んーん、じゃあ、いいです。私、今からいっしょに入って続きを引き受けますから」


 え、え! ここでまさかのご褒美タイムですかっ。いやっほーう! 災い転じてボーナスステージ! ハットリくんならちくわ拾いまくりだぜっ。


 なんつーかさ、今日、俺ってばかなり苦労したからそういう神さまのご褒美的イベントがそろそろ起きてもいいんじゃね? って思ってたんだよなぁ。


 フランシスソワーズの、ツンと張った大きな胸に、形のよいお尻……。


 なんていうかさ。


 こういうときを待っていたんだっ……! 立ちあがるきっかけを……!


 俺は、妖怪子泣きジジィと化したマゼルを抱っこしながら、彼女が一糸纏わぬ姿で脱衣所から現れるのを今か今かと待ち望んだ。


 ――早くしろよ、オラぁ!


「あの、トータさん」

「はい」


「出てってください。そこにいられたのでは、私、入れないじゃないですか」


「はい」


 彼女は至極真っ当な意見を平坦な口調で述べた。


 どうせ、そんなこったろうと思ったよおぉおおっ!


 俺は泣きながらマゼルをパスすると濡れた裾からお湯が飛び散るのも構わず居間に逃げた。






 脳が目の前の事象を理解することを拒否している。


 俺は、ベッドの上でドライヤーを使い髪を乾かしている女の長い脚から目を逸らせず、石像のように固まっていた。


 絨毯の上に座りながらマゼルを抱きかかえ、物憂げな仕草で長い髪の手入れをしているフランシスソワーズの白いベビードールを見ながら思うのだ。


 なぜ、こんなことになっているのだろうか、と。


 そう、今朝も普通に起床し、旅行に出かける両親を見送って登校し、いつもどおりに授業を受け終え帰宅するまでは平凡極まりない人生を歩んでいたはずだった。


 それがどうだ。今は、出会ったばかりの女――なんかみょうちくりんな角が生えている――がいつも自分が寝起きしている寝具の上で眠る前準備をしている。


 鼻孔をひくひくと蠢かすと、なにやら自分の部屋とは思われないほど甘ったるいような匂いが漂っており、胸のなかを落ち着かさせなくするのである。


 これはもう、あれですかね。期待しちゃっていいんですかね?


 俺は平静を装って腕のなかでうつらうつらしているマゼルをゆらゆらと揺らしながら、彼女の長くセクシーなおみ足から、つつっと魅惑のトライアングル、そしてばるんっと自己主張をしているメロンさんに視線を上げてゆく。


「トータさん、そろそろ遅いから休みましょうか」

「はいいっ!」


 俺は食い気味で応えると、マゼルを床に置き立ち上がりかけると見せかけ、ベッドにルパンダイブを敢行しようとするが、飛び込む寸前に顔面をフランシスソワーズの長い脚の裏で押さえられた。


 なぜだ――!


「いや、なぜだ、じゃなくて。トータさんは、別の部屋で休んでくださいね」


「はいぃ……」


 ですよね。


 足の裏を通してフランシスソワーズが引いているのがわかったが、ここまで焚きつけといてそりゃないっすよぉ。


「私、そんなに軽い女じゃありませんから。失礼しちゃいますね」


 彼女はほっぺたを膨らませながら両腕を組むが、そのため余計にたわわなプリンちゃんがわよよんと震えて谷間を作った。吾輩の愚息も暴発寸前なり。


 うるせええっ! こんなシチュじゃ勘違いするのがあたりまえだろーがっ。高校生男子の性欲を甘く見てんじゃねえぞっ。


「うぬぬっ」

「だーかーら、ダメですってばぁ」


 俺は耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び、そっと部屋を出ようとしたところ、寝転がりながらぱっちりと目を開けたマゼルと視線が合った。


 おやすみ、マイドーター。パパはやっぱり男になれなかったよ……。


「ふゃ」

「ふゃ?」

「ふぎゃあああああっ!」


 うるせーっ! マゼルは俺が部屋を出るとわかると、身をよじって全力で泣き出した。


 ってか、うるっせ、うるさ過ぎですよお、これ?


「ちょっ、なんですかこの泣き声は? 怪獣? トータさん、マゼルを止めてくださいよおっ」


「ばっか、俺がそんなこと上手くできるわけないだろうが! おまえやれよっ、乳母なんだろ?」


「それはせって……げふげふっ。ああ、マゼル姫。泣き止んでっ。泣き止んでくださいよ。私、たっぷり寝ないと起き抜けに頭痛くなっちゃうんで、最低九時間は睡眠時間確保したいタイプなんですから。鎮まれ……! 鎮まれ……! ふえええん、鎮まってよおおっ!」


「おまえまで泣いてどうするよっ。あーよしよし」


 俺は素早くマゼルを抱きかかえると、左右に揺らしながら機嫌を取った。


 すると、彼女はぴたりと泣くのをやめ、ちっちゃな手で俺の腕を離さないようにぎゅっと掴んでくる。やっぱ、時代は年下系ヒロインだよなッ! 乳幼児だけど……。


 しばらくして、マゼルはようやく沈静化した。俺の巧みな淑女を扱う手腕に感謝だな。


 見れば、フランシスソワーズはベッドの四つん這いになって激しく肩を上下させていた。こう書くとなんかエロイな。


 ときどき、いろんなシークレットゾーンがチラホラ見えてるし、マゼルさんグッジョブとしかいいようがないです。ありがとう。


「どうやらお姫さまは俺と離れ難いようだ。ふっ、罪な男だぜ」


「なに浸ってるんですか? 正直、気持ち悪いです」


 気持ち悪いっていわれた……! 


 だが、そんなことくらいでは俺の鋼メンタルは微塵も揺るがない。


 揺るがないが、泊めてもらってる分際というものが人にはあろうものよ。


 俺は無防備な彼女の喉へと地獄突きをかますと、マゼルを抱き上げ高い高いした。


「――えっ、えげつない攻撃しますねッ。サキュバスもびっくりのド外道ぶりですっ」


「褒めるない褒めるない」


「褒めてませんよ。はあっ。仕方ありませんねぇ。今晩だけは特別に同室で寝ることを許可します」


「やったああっ! やさしくするからねえっ、サチ子ちゃあんっ!」


「誰がサチ子ちゃんですかっ、脱ぐな寄るな触るなあっ!」


 俺は真っ赤な顔をして距離を取ったフランシスソワーズに向かって唇を歪めた。


「――冗談だよ。子供だなぁ、君は」

「今度やったら警察呼びますからね」


 OH! もっともその場合は和姦で押し通すし、特に問題ないだろうが、嫌がる女に無理強いするのはよくないとばっちゃがいってたから今日のところは勘弁しておいてやろう。


 粛々と就寝する準備をすませてゆく。いつも俺が寝ているベッドにはワガママボディのサキュバス乳母さんが。すぐその下には、布団を敷き、姫ぎみと俺が同衾することとなった。


 恐悦至極に存じますよ。

 ふふふ。

 てか、ただの子守だけどね。


 この短時間でマゼルはもの凄く懐いちゃって、離そうとすると泣き喚くんだ。


 十八年間生きていてここまで女子に望まれたことはあっただろうか、いやない(反語)。


 とりあえず、乳臭くてションベン臭くてミニマムだが、女体を抱いて寝るということで満足しよう。すると決めた。


「はーい、みんな電気消しますからね。いい子で寝ましょうねー」


 お泊り保育かよ。俺はフランシスソワーズの夜着を目蓋の裏で反芻しながら、横抱きにしたマゼルのやらかいお腹をポンポンしつつ、意外とぐっすり寝入ってしまった。





 

 俺は、頬をたしたしと叩かれる小さな手のひらの感触で目覚めた。


 重たげな目蓋を開けると、涙目になっていたマゼルが四つん這いで「うだー」と呻いていた。


 昨日からずっと一緒にいるのである程度の意思疎通はとれた。


 どうやらお姫さまは緊急ご不浄のためご不快のご様子である。


 なにか、自分でも日本語の用法が間違っているようであるが、ここは即座に乳母であるフランシスソワーズに任せるべきであろう。


「おーい、サキュバスさんや。姫がお呼びでござるよー」


 ひょいと顔を上げてベッドの上を見ると、そこに彼女の姿は影も形もなかった。


 枕元に置いてあったスマホを取り上げて時間を見ると、すでに八時半を過ぎようとしていた。


「うわっ、なんかこいつ湿ってる」


 俺はハイハイをしていたマゼルを抱きかかえると、階下に向かって家のなかをひととおり回ってみたが、フランシスソワーズの姿は見当たらなかった。


 というか玄関の沓脱に彼女のものがない。


 ――コンビニかなにかで買い物でもしているのであろうか。


 とりあえず早急に行わなければならないことは、まず、マゼルの不快感を沈静化させることだ。


 素早く彼女のおむつを交換するとやかんをコンロにかけ、しばし黙考した。


 さて、どこかに出かけるのであれば、なにか書き置きくらいは残してあるのではないのかな。


 ふと、なんの気なしに食卓の上に視線を這わせると、そこには見覚えのある自分の財布が目につくようにとわざとらしく配置された。


 よもや――ありえるのか、そんなことが。ばっと財布に飛びつきなかをあらためる。


 そこには昨日ATMで補充した二万は消えうせ、代わりにレシートの裏に走り書きされたメモが残っていた。


 ――少しの間お借りします。私、ちょっとお出かけするんであとはよろしくね♪


「あの野郎やりやがったな!」


 俺は空になった財布を無理やり裏返すとがっくりと食卓に腰を下ろし項垂れた。


 マゼルは「うおー」と驚きの声を上げながらなにやら楽しそうだ。


 くそっ、小銭まですべて回収しやがって……!


 なにがサキュバスだよ、職種はシーフじゃねぇか。


 こうなってくると、最初からあいつのやっていたことは金目当てだったことがわかった。


「つーか、おい。おまえはこれからどうするんだ? 捨てられちゃったぞ、おい」


「うだー?」


 俺は食卓に乗っけたマゼルと見つめ合った。


 昨晩、お風呂に入れてやったことで随分と綺麗になっている。


 陽光に照り映えた蜂蜜色の髪はきらきらと輝き、そこだけは本当にお姫さまのように思えた。


 くりんくりんした髪から覗く長い耳が、常人ではないと主張している。エルフ耳だ。


「みみーっ」

「やうっ」


 マゼルの耳を両端から引っ張ると、彼女は口をへの字にして小さな手でいやいやをした。


 本当に、どうすんだよこれ。


 俺はマゼルを抱きかかえると、とりあえずほかに情報は残されていないかと一縷の望みを託して自室に戻った。


 部屋につくと扉を閉め、マゼルを離した。彼女は解き放たれた飼い犬のように四つん這いになるとそこらじゅうをもそもそもと動き回る。


 そういえば昨日は寝転がってもぞもぞしていただけだが、今日はしっかり休養を取れたせいかもの凄く動きがいいような気がする。いや、勘なんだけどね。かつてのマゼルを知らんし。


「まだ、あたたかい――!」


 俺はきちんとたたまれたベッドに手を突っ込むと、大石内蔵助のように呟いた。


 実際は、もう冷たかったんだが、そこは気分だ。


 なんというか、いつも自分が使っている寝具にまったく別種である若い女性の匂いが漂っていて、実に不思議な気持ちになる。


 ふと視線をベッドの片隅に落とす。


 そこには見慣れない小洒落たブランド物のバッグが転がっていた。


 確かこれ数十万するやつだぞ。俺は躊躇なくバッグを開けると、逆さにして中身を絨毯の上におん撒けた。


 化粧品、小物類、小さなメモ帳、使途不明の雑貨など。


 違う――俺が探しているものはそんなものじゃなくて――あった!


 バッグのポケットをくまなく探っていると、小さなパスケースが挟まっており、そのなかに探していた彼女の身元を示す身分証明書が見つかった。


「学生証――って、あいつ女子大生じゃないかっ」


 滝沢エロイーズ。


 正体不明のサキュバスの正体は、隣町にある大学の一回生であった。


「てか、本名もすげぇ名前だなッ!」


 学生証にはしゃっちょこばった表情をしたよく知るサキュバスの顔が写っていた。


 本名エロイーズさんか。


 年齢は俺よりひとつ年上で、どうやら今年入学したばかりのほやほや女子大生らしかった。


 つーか、なんでエロイーズって。


 親はなにを思ってこの名前にしたのであろうか。謎は尽きない。


「だが、これで身元は割れた。いざとなれば、マゼルもどうとでもなるだろうな」


「うゆ?」


 転がっていた口紅をしきりにいじくり倒していたマゼルは、自分の名を呼ばれたことがわかったのか、にぱっと微笑んで「あー」と叫びにじり寄ってきた。うん、馬鹿かわいいな。


 マゼルを抱っこすると彼女はよだれを垂らしながら胸元に顔をぐりぐり押しつけてきた。彼女なりの甘え方なのだろうか。シャツが汚れるのでほどほどにして欲しいのだが。


「にしても、そうだとすると、エロおねーさんとおまえさんの関係性が一段とよくわからなくなったのだが……」


 実の親子である、という線は完全に除外できる。なぜならば、実の母親が姿を消せばある程度動揺を見せるのが普通なのだが、マゼルの態度や仕草に不安の兆候は微塵もなかった。


 これは、フランシスソワーズと名乗っていたエロイーズが(ややこしいな)マゼルとそれほど深い関係性を構築していなかったと見るのが妥当であろう。


 誘拐、だろうか――?


 やたらと警察に行くことを拒んでいたのはその可能性が大いにある。


 そうでなくても、痛くもない腹を探られたくないという部分がエロイーズの態度に見え隠れしていた。


 が、彼女が犯罪にかかわっていると考えると、身元の確定に繋がるものを野放図に置き忘れる部分が上手く噛み合わない。


 本気で俺にマゼルを押しつけ、二度と戻ってこないと考えれば彼女の行動は粗雑過ぎた。


「滝沢エロイーズ、ねぇ……」


 身元を調べるのであれば、この学生証を持って大学に赴き、学生課で調べてもらうのが手っ取りばやいか――いや、待て。


 俺は、スマホを取り出すと、手早く彼女の名前を片っ端からSNSサイトにぶち込み、本名で登録しているエロイーズを発見した。


「つか、カギすらかけてないし」


 サイトのほうには、意味もなく自分が食したメシの写真や、際どいコスプレ写真をそれはもうゲップが出るくらい上げているが、おとといくらいからそれらがピッタリと止まっている。


 こういう自己顕示欲と承認欲求の強い馬鹿な女子学生が、自傷行為に似た作業を意味もなく止めるとは思えない。


「ん?」


 再び俺が思念の井戸に飛び込んで、今回の事件を考察しようとしたところ、くいくいと袖を引かれ、集中が途切れた。


「あぅー」


 マゼルだ。四つん這いになったエルフ姫が眉を八時二十分にして不愉快そうに唇を突き出している。


「まんま……」


 マゼルはぺたんと座り込むと、自分の腹をぽんぽん叩いて恨めしい顔をした。


 そういえば、エサをやるのを忘れていたな。これじゃ、仮親失格だぜ。


「ごめんなーマゼル。お腹ぺこりんだよなぁ。今、おご飯作ってあげるからねー」


 別に狙ったわけじゃないが、幼児と喋るときって、なんか猫撫で声になるよね。自分でもちょっとキモイと思うのだが、意識しないと毅然とした態度をとるのは難しいのだ。


「つか、今、普通に喋ってなかったか?」

「うゆ?」


 そういえば赤ん坊って何歳くらいから言葉を発するようになるのだろうか。


 俺は別に子育てのスペシャリストじゃないからよくわからないが、これって重要案件かも。


 グダグダ考えても出ていった女房……もといサキュバスが戻ってくるわけでもない。


 自分にできるのはお腹をすかせた憐れなこの子を存分に満たしてやることくらいだ。


 でも、ひとつ思ったんだが――このくらいの赤ちゃんっていったいなにを食べるんだろう。


 台所に移動して椅子の上にマゼルを据えた。ジッと見つめると、ほにゃっと天使のような顔で笑う。ひたすらなごんでしまうのは、もう本能的なものだろう。


「おいこら娘。おまえはなにを主食としておるか」

「らうー?」


 遊んでもらっていると思ったのか、マゼルは俺の頬を小さな手のひらでたしたしと叩いてくる。


 その仕草のあとげなさに俺はもうめろめろだ。

 じゃなくて。

 マジでなにを食わせればいいんだろうか。


「あーんしてみな、あーん」

「あうー」


 マゼルのちっちゃな口に指を突っ込んでなかを覗き込む。


 ふーむ。なんというか、上下ともぽちぽちとちっちゃな歯が生意気に生えているぞ。


「さすがに硬いものは無理だろうから、テキトーに作るか」


「だうっ」


 そもそも俺は料理など常日頃しない人間なのだ。そんな男によちよち歩きの赤ん坊に最適な朝食をお願いねといわれても、なにか特別なことができるはずもない。


 まず耐熱ボウルにミルクをそそぎ、弱めにあっためてから食パンを浸し、砂糖をまぶしてぐちゃぐちゃにした。


 昔飼ってた犬が赤ちゃんだった頃は、これをよろこんで食ってたから特に問題はないだろう。


「ほーら、まんままんまだぞう」


 ほどほどにぬるくなったそれをマゼルの口に押し込むと、特に不満はなかったのか「あうあう」いいながら残らず完食した。


 一方、俺はそこらにあった菓子パンをミルクで呑み込むと三十秒で朝食をすませた。切ないが仕方ないのだ。

 

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