第50話 唇歯輔車

 この子だけは……なんとかしてでも……助けなきゃダメ。私がこの世から居なくなれば助かるかも。


 そうね、きっとそう。

 ワタシは……守りたいの……


 人も、この美しい地のすべてを―――

 

 もう誰も傷つけないで、もうこれ以上、人が死ぬのはイヤなのよ―――


 淡い花が枯れていく。手をいくら差し伸べても届くことはなく、朽ちていくのを眺めるだけだと僕は知っていた。


 僕は知っていたんだ。



 *****



 時折、割れた窓からそっとミシェルが光を入れる。濁った重みを流すためにと。皆の心を休めるためにと。ミシェルのスカートの裾がふわりと揺れ、儚いフェアリーの様な天使がニアの目には眩しく映る。


 ウィリアムの大事な人。

 この子の代わりがボクなのかと否応にも考えた。良くない空気に混じり気持ちも変わりそうだった。ニアは目をおもむろにきつく閉じた。


 

 悪戯に吹く風で渇いた花は揺れる。

 左右にゆっくりと埃と種子を撒き散らしていく。子孫を残したいと必死なのだろうか、音もなく、あちらこちらに落としていく。



 ―――死んだ地に花は咲かずとも

 それでも、生き物は何かを残そうとするのだろう。



「なあ……」

「ん?」

 眼鏡のくもりを袖口で拭くニアに、ニールが気だるそうに声をかける。ニアもその言葉に輪をかけるように目線を移さずに面倒くさげに答えた。


「俺らはこれからどうすりゃいいんだよ?」

「ボクはシモンちゃんを助けたい! それだけをずっと……ううん、今もそう思ってるよ!」

 ニールのその言葉に我に返りニアが少し大きな声を出した。


「んなことは分かってるんだよ! 馬鹿か?

 それは俺だって同じ気持ちだよ…… 」

「なんだよ! バカって言うことないじゃない! これでもボクは必死なんだよ!」

「ほお……じゃ、なにか? 役立たズか?」

 ニールがいやらしくニヤつき煽るようにニアを見た。


「役たたズ……それはボク以外も含まれてる匂いがするね〜」

 ニヤはアダムを見下ろし口元を歪め皮肉げに笑った。


「……どうせ俺のことを言ってるんでしょ! ニールさんもニアくんも! それじゃまるで俺がお荷物みたいじゃないですか!」

 それに気がついたアダムが慌てて深く腰掛けていたソファーから立ち上がった。


「正解!」

「ご名答!」

「もう! 二人して声合わせて言わないでください!」

 ニアが手を叩き、ニールが白い歯を出して無邪気な笑みを浮かべた。すると、アダムが片目を大きく開けて諦めたような顔をした。


「ねえ、遊んでる場合? 人間ってヒマなのね……こんな時にも……」

「こんな時だからこそなんだよ!」

 テイルノダは覚めた声でわざとらしく三人に言うと、すかさずニアが笑った。


「何がよ、意味わかんないわよ……」

「わかんなくていいの……色欲オバサンには! 人間には情緒ってモノがあるの! どうせ説明したって分かりゃしないよ! そうでしょ?」

「……なんなのよ! ひどく嫌な言い回しをするじゃない……」

 二人が言い合いをする一歩手前で、空気が白けるように濁った。


「オマエらな……さっきから口を開けば……めんどくせえな」

「あああ〜! もう! ごちゃごちゃうるさい! もう意味のない言い合いをしたってしょうがないでしょ!」


 無駄な言葉が部屋のあちこちを飛び交う。

 場をわきまえろ。とは、まさにこの事を言うのだろう。堂々巡りの尻尾切り。


「ん……」

 ミシェル表情が歪み、小さな蚊のような苦痛の声が漏れる。


「どうしたミシェル?」

「ミシェルちゃん?」

「頭がすごく痛い……とっても嫌な感じする……何かここに来るよ、いっぱい来るよ……イヤだよ……怖いよ、怖いよ!」

 ミシェルは頭を抱えてうずくまり、ニールに寄りかかるとニールがすぐに抱きしめてやる。それを何も言わずに、ウィリアムが視線を外すような素振りで煙草に火をつけた。


「ああ〜やっぱり、こんだけうじゃうじゃ集まって居ちゃ見つかっちゃったかな〜……此処はね〜、昔はとても繁盛していたのよ。町も人も、みんな美しくて、誰も争うことをしなかった、ううん、出来なかったのよ……私もそこに居るミシェルも……みんなそうなのよ。そこのアンタは分かっているんでしょ?

 ……ウィリアム・ロズさん」

 テイルノダが独り言のように窓に寄りかかりウィリアムを見つめた。


「ええ、かつては私もここの住人でしたから。理解してますとも……」

 ウィリアムは漸く口を開け、落ち着いた音色を奏でるような声を出し、それにニアが小首をかしげた。


「ウィリアムさん……どういうこと?」

「此処は天使が集う町「スカイウォール」人も魔物も普通に住んでいました」

「ちょっと待ってくださいよ? 映画やドラマの話ではないですよね……」

 アダムが目を大きく見開くと、素っ頓狂な声を上げる。


「……ええ、違いますよ。ある日を境にこの町は壊れ、人は疎か、全てが死んだ町なのです。誰も寄りつかない廃墟と瓦礫の「ブラッドタウン」通称、血の町です」

「ウィリアムさん、血の町って……いったいこの町に何があったの?」

「さっきも言ったように私はこの町の住人でした。アメリアもこの町に降り立った天使でした。私は彼女と愛し合い、子を授かりました。その子は人間として育てようと誓い、すぐに友人に預けたのです。それが貴方の父ヴァイン・クインテットです」


「……ちょっと待って! それって、まさか……俺の事じゃないよな?」

「そうですね。ニールくんの事ではありません。……シモンくんのことです」

「ねえ、じゃあそれって……シモンちゃんとニールって本当の兄弟じゃないってこと?

 ウィリアムさん……話が見えてこないよ!」


「そんなことはどうでもいい……俺とシモンは兄弟だ!」

「でも、ニール……事実は……」

「うるさい……黙れよ!」

「ニール……それでいいの?」


「ねえ、もうそれでいいじゃない……彼がそうだって言うんでしょ!」

「テイルノダ……オマエはどっちの味方だよ」

「……どっちの味方でもないわよ。なんかね、もう馬鹿らしく思えてきちゃったワケ……いい加減、何もかもが面倒っていうの?」

「オマエ……兄様を裏切るのか?」

「裏切るとか裏切らないとか、そういうのがもう面倒なのよ? わかる?」

 テイルノダが悲しみの色を瞳に滲ませる。その言葉にニールが億劫そうにテイルノダを見て困却したと思うと、押し出すように足を伸ばした。


「いや、まったくわからない……」

「ちょっと……ニール、アンタが今そこを答える?」

「シモンは今何処にいるんだ……」

「それは、教えてあげてもいいんだけどね……流石にアタシ達も危ないのよ。だから……代償はもらうわよ?」

 重苦を背負って生きていけるほど甘くないと言いたげな表情がニアは気に入らないようでわざとらしく溜息を吐いた。


「で? ……代償って何? オバサン!」

「オバって……そこのガキは引っ込んでなさいよ!」

「うっさい! 年増の色欲ババア!」

「このガキっっっ!」

「黙れ……それから、もう無駄なことで揉めんな!」

 ニールが少しきつく声を上げるとニアが反省などまったくないように笑い頭を搔く。


「代償ってのはね……デイモンの器としてニールをこっち側にもらうって事なのよ……誰かをひとり助けるならば、誰かを差し出すってことよ……ミシェルがそのひとりだもの……」

「ごめんなさい……ウィリアムさん。あたしが居たから……あの時居たから。綺麗な蝶々一緒に見たかっただけなのに……失敗しちゃった」


「なんですか……この雰囲気? それって、あの……その代償ってのは、誰でもいいんですかね?」

「ああ? アダム……オマエ何言ってんだ?」

「いやね、俺にひとつ良い提案があるんですよ……それはね……」

 アダムのその声に皆が驚いた顔をし、壁紙がそれを察知するようにまた一枚剥がれ落ちた。



 *****


「もしかしなくても……キミは僕だよね?」

 シモンが小さなシモンに息をのみ、ゆっくりと尋ねた。


「あたり! やっと分かってくれたんだね! お兄ちゃん!」

 ホッとしたのか小さなシモンは、ふと力を抜くと笑ってみせた。


「ねえ、此処は何処なの?」

「良い質問だね! 此処は僕の世界で、でもお兄ちゃんの世界なの。あと、何年も住んでいた家だけど……分かる?」

「うん。なんとなくは……理解してる」

「おお! 物分りいいね、さすが僕! でね……えっとね、お兄ちゃんはね。夢の中でギリギリの精神状態に居るの。これを見せられて心が持つか持たないか……それを試してる途中かな? 要するに使えるか、使えないかの実験みたいなもの。難しい?」

「ああ、ううん。きっと大丈夫。ありがとう」

「それはいいのいいの。お兄ちゃんの僕は、ここにいる僕と同じだけど同じじゃないんだよ……って難しいよね。僕は僕でお兄ちゃんはお兄ちゃんなの。って説明が上手くできない……」

 小さなシモンは説明の途中で何度も首を傾げて、天井を見てはシモンの顔を見た。


「そっか……ありがとう」

「……ねえ、どうして?」

 優しく柔らかく微笑んだシモンに小さなシモンが不思議そうに目を床に一度落とすと小声で質問をしてきた。


「え?」

「どうしてお兄ちゃんはこんな時に笑うの? それから、どうしてお礼を言うの?」

「うん? 変かな? それとも、キミは僕に泣いてほしい? 困らせたいの?」

「そうじゃないけど……ううん、なんでもない! 要するに、僕が今ここに居る意味を知ってほしいんだ」

「……うん、それは理解しているよ。大丈夫」

「じゃ手を握って、まぶた閉じて……三つ数えたら行くよ?」

「うん……」

 シモンは大きな手を小さなシモンの手に重ね合わすと、ゆっくりとまぶたを閉じた。



 *****

 地鳴りのように下から突き上げるような音が部屋に響き渡り、窓が震えるように音を上げる。


「シモン様!」

「なに? 今の何? 声? まさか、シモンちゃん?」

「始まったみたいです。ティノ様、私が貴女をお守りします。建物が保てば良いのですが……少しでも時間を……とにかく早くこちらへ」

 小刻みに部屋が縦揺れする。地が揺れているというよりも空気が震えているのだろう。悲鳴のような地の鳴る音。そんな感じだった。

 フラワーベースに飾られた花が倒れ、テーブルの脚を伝って水がしたたり流れていく。窓の外の音が遮断されたように耳が痛い。

 

 ガブリエルはティノの背にそっと手を添えるようにして慌てずに誘導する。胸のポケットから古びた鍵を取り出すと静かな部屋に鍵を回す音が響く。ガブリエルは廊下の小さな扉の鍵を開けた。そこには、薄暗い石造りの壁と、古くひび割れた木製の階段がどこまで続くように暗闇が手招きをしているようだった。


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