二 吉田道場

 池田屋突入とその翌日の残党狩りという一連の騒動を、新撰組局長の近藤は、らくよう動乱と名づけた。

 新撰組は、市中を火の海にしようという長州藩のくわだてを阻んだとして、またたく間にその勇名を京の都にとどろかせた。

 騒動が落着した翌々日、斎藤と朝から屯所で鉢合わせた藤堂が、額の傷を誇らしげに晒しながら言った。

「幕府から報奨金が出るぞ。会津の殿様もえらく誉めてくださったらしいし、会津からもいくらか余分に頂戴できるかもしれねえ。これで新撰組は、ようやく借金から解き放たれるな」

 裕福な家柄の藤堂自身は、どこぞから仕送りを得ているようだ。が、新撰組の皆を養えるほどの金づるでもない。

 新撰組は、その名を得るよりずっと前、江戸を発つ前から金に困っていた。

 初めの頃は、武具の一切を借り物で間に合わせていた。脅しにも等しい勢いで商家に迫って金を借りるなど、ごろつきとみなされても仕方ない振る舞いもしてきた。会津藩からの給金があるとはいえ、それでもまだ足りていない。

 近藤が言うところの洛陽動乱を一件落着させたことで、新撰組の株は上がるだろうか。いや、この程度で悪評をくつがえすのは難しいだろうか。いかんせん、新撰組は京の嫌われ者である。

 東国の田舎者が治安維持などと称して暴れていると、京の都の民は新撰組を見下し、あるいは毛嫌いしている。新撰組が極端に厳しい法度を局内に課し、違反や脱走を犯す者をことごとく斬り捨てることにも、冷ややかな目が向けられている。

 斎藤もむろん、壬生の狼は共食いをしはるんやで、とわらわれているのを耳にしたことがある。

 ――やつらは侍の誇りなんちゅうもんを欠片かけらも持ってはらへん。ただの飢えた狼の群れや。敵をほふるよりぎょうさんの味方を斬った者もおるんやて。ほんま、恐ろしい連中や。くわばらくわばら。

 そのときの斎藤は、間者として市中に紛れていたところで、腰に刀を差していなかった。丸めた背中に背負子しょいこを担ぎ、おとなしい薬売りのふりをしながら、皮肉な気持ちになった。

 共食いをする狼、敵を食らう以上に多くの味方を食らった狼とは、俺のことだ。あんたら、目の前に狼がいるってこと、知りたいか? 知らずにいたいか?

 斎藤はまさに脱走した隊士の行方を追っているところだった。居所を突き止めれば、近藤や土方に報告する。追手として改めて差し向けられるのは、斎藤か沖田が多い。脱走者の多くは、侍としての死に方である切腹を選ばせてもらえず、追手に斬られて終わるのだ。

 今年に入って幾人が脱走しただろうか。斎藤はもう数えるのも面倒になっている。

 池田屋に突入するはずだったづめしんじゅうろうりゅうろうの父子も、直前になって姿を消した。斎藤は、追えと土方に命じられた。だから探し出して、命乞いも聞かずに、黙って斬った。

 今朝の藤堂は、もとより白い肌をいっそう白くしている。失った血の量が馬鹿にならないようだ。しばらくは剣術稽古もお預けだろう。熱の引かぬ沖田も部屋にこもっているという。

「斎藤は、これから出掛けるのかい」

「ああ」

「またぞろ懇意の吉田道場に顔を出しに行くのか? なあ、そこにおまえの女がいるってわけだろう? そろそろ白状しろよ。どんな娘なんだ?」

「違う。父の縁故なんだ。俺が江戸にいられなくなったとき、かばってもらった。借りは、返せるうちに返しておきたい」

「口が堅えな。まあ、そういうことにしといてやるけどな。悩みがあれば相談しろ。贈り物でも口説き文句でも、女がどういうもんを喜ぶか、俺が教えてやる」

「いらん。違うと言っているだろう」

 斎藤は、けらけら笑う藤堂から逃げ出し、壬生の屯所を後にした。


 吉田道場は、四角い形をした京の町の、壬生から見て対角の外れにある。

 南北に走る東大路と東西に走る今出川通の辻を、東へ越える。慈照寺銀閣へ向かう道すがらにある吉田山の足下、うっそうとした雑木林の中へ分け入っていく。

 こぢんまりとした道場と、いおりのような家がそこにある。吉田道場と、あの人が呼ぶ場所だ。

 斎藤は、人通りの多い道を選んで歩いた。人混みは嫌いだが、目立ちたくはない。

 月代さかやきを剃らず地味な格好をし、猫背気味にうつむいて、刀を左に差している。どこにでもいる脱藩浪士のような風体を装えば、余所者をいとみやこびとから嫌悪の目を向けられることはあっても、新撰組三番隊組長の斎藤であると見破られることはない。

 市中警護の任に就くとき、斎藤はわざと、目立つ段だら模様の羽織を着る。刀は必ず右に差すから、左利きを隠さぬ風変わりで非礼な剣士と、周囲には認められているはずだ。羽織と右差しの刀の印象が強いため、案外、誰も斎藤の顔そのものを覚えていない。

 晩夏の日差しに照らされて大汗をかきつつ、吉田山のふもとにたどり着いた。

 道場へ続く雑木林に足を踏み入れるや、涼気が斎藤の肌を刺した。冷たい地下水が小川になって湧き出ているらしい。まとわりつくような暑気が、ここにはない。冬は水の量が減って小川が涸れる。おかげでさほど冷たくない。

 つい半刻前には人の声しか聞こえぬ町中にいたのに、今はせみの声ばかりが、立ち並ぶ古木から降ってくる。浮世を離れた、と斎藤は感じた。この場所は特別だ。

 吉田山の中腹から山頂にかけては、一千年の歴史を持つ神社が鎮座して、四周をへいげいしている。節分の頃、吉田の山には鬼が出る、と子供らが歌うのを、斎藤は耳にした。子供らは鬼が怖いのだろうか。鬼より怖いのは人だと、斎藤は知っている。

 道場は閑散としていた。むしろ稽古など行われていることのほうがまれだ。斎藤が身を寄せていた頃は一応、弟子が通ってきていたが、斎藤の体裁を整えるためのものに過ぎなかった。吉田道場は、秘密を持つものを匿う場所なのだ。

 庵を訪ねると、いつものとおり、後家のような格好の若い娘がいた。娘は口元ばかりを微笑ませ、冷たい目で斎藤を見上げた。

「今日、先生はいはりまへんえ。ことてやったら、うちが承りますけれども、よろしおますか?」

 先生と娘が呼ぶのは、あの人のことだ。

 あの人に会えるなどと、斎藤は思っていなかった。会いたいとも思っていなかった。

 吉田道場にいないときのあの人が、政敵がひしめいているはずの京のどこに隠れているのか、斎藤は知らない。あの人が江戸を離れて京に潜んでいることを知る者とて、多くはあるまい。

「池田屋の騒動と、その翌日の残党狩りについて」

 訥々と話し出す斎藤を、娘はやんわりと制した。

「お茶、いかがどす? 暑い日には、かえって熱いお茶が体を涼しゅうしますよって」

 娘の名は、という。少なくとも、ここではそう呼ばれている。

 斎藤は、志乃が得意ではない。志乃の話す言葉や物の考え方はいかにも京風である。まるで公家のようなのだ。志乃の言葉を額面どおりに受け取ると、大抵は見当違いな応えを返してしまう。そして、しとやかな笑顔に侮蔑の色が交じるのを目にすることになる。

 茶など勧めるとは、どういうことだろうか。斎藤は勘繰った。前に来たとき、志乃は平然として、主の帰宅まで斎藤を玄関に立たせ続けた。その前のときは、道場で汗でも流してきたらと言われ、玄関先から追い払われた。上がってよいと言われたのは初めてだ。

 志乃は、知恵の回らぬ子供か聞かん気の飼い犬にでも聞かせるような口調で、重ねて言った。

「先生のお客様を庭先で立ちん坊させたままやなんて、うちが叱られます。どうぞお上がりやす。奥の部屋へ」

 なるほど、他人に聞かれる不安がある場所で話をするな、という意味だろうか。あまり話を聞かれたくない者に、この場所のことが漏れたのか。

 平屋建てに見える手狭な庵には、奥の部屋と呼ばれる中二階の茶室がある。つまるところ、隠し部屋だ。

 京の市中には、外から見えぬ部屋や階段を備えた町屋が多い。花街の料理茶屋などは、玄関を二つ設けた見世もある。どこに何者が潜んでいても不思議はないと、はなから疑ってかかるほうがよい。

 志乃は言葉のとおり、斎藤に茶を供した。

「粗末なものやけど、お口に合いますやろか?」

 渋色の茶器も、涼やかな香りのする茶も、おそらく上等なものだろう。屯所ではついぞ味わうことのできない、品のよい茶だ。

 屯所の内証を思えば、高い茶を買うくらいなら、塩や醤油を買わねばならない。見回りだ稽古だと汗を流してばかりの斎藤たちの舌と体には、薄味に過ぎるかみがたの料理より、塩気の効いた江戸風の味つけが好ましいのだ。

 茶で口を湿した斎藤は、正直な言葉を告げた。

「この茶はうまいと思う。粗末だとしても」

 ほほ、と志乃は小さく笑った。

「それはよろしゅうございました」

 居心地の悪さを覚えた斎藤は、淡々と、新撰組三番隊組長として洛陽動乱において見聞きしたことを語った。

 志乃は、飛び抜けて物覚えがよい。聞いた言葉をすべて覚え、諳んじられるという。そして口が堅い。そんな女であればこそ、主に吉田道場を任されている。志乃は、主にとってただのめかけではない。

 一連の話を終えて、斎藤は少し黙った。お茶をもう一杯、と勧める志乃に、何とはなしに問い掛けてみる。

「話すだけでいいのか?」

 新撰組が、まだその名を持たぬうちから、斎藤に課せられた役目はそれだけだった。近藤勇と土方歳三を中心とする佐幕派の一団に属し、その内側から見聞きしたこと、その内側で見聞きしたことを、正直に話す。

「お話のほかに、斎藤さまには何がお出来にならはるのどす?」

「……刀が使える」

「あら、刀一本でどうこうできるご時勢やと、斎藤さまは思うてはりますの? まあ、お勇ましいわぁ」

 志乃は、ころころと笑ってみせた。

 斎藤はじっと志乃を見ていた。

 色白な丸顔で、美人と呼んでいい。愛敬のある垂れがちの目は、決して笑わない。ぽってりとした唇には、どんな毒が仕込まれているのやら。

 唐突に、志乃は声を立てて笑うのをやめた。唇の両端を持ち上げたまま、まろやかな響きの声で言った。それは、あの人がかつて斎藤に向けて放った言葉だ。

「火種には巻き込まれておけ。ただし、自分は燃えるな、熱くなるな。見聞きせよ。新撰組という手札は、切れるときまで残しておく。おそらく、しまいまで生かしておくさ。そう案ずるな――斎藤さまも、もちろん覚えてはりますでしょう?」

 斎藤はうなずいた。自分がどれほど小さな存在であるか、了解している。

 あの人は、幕府だの朝廷だのと論じている場合でも、藩だの派閥だのと争っている場合でもないと言った。日本という国全体をひと括りにしたってちっぽけなんだ、とも言った。

「斎藤さまは、生き証人にならはるだけでええのどす。死なんといておくれやす。死なはったら、うちの大事な先生がお困りになりますさかい」

 志乃が先生と呼ぶあの人は、名をかつりんろうといい、号をかいしゅうとしている。日本という国の内憂外患の時局を、世界で最もよく理解している男だ。

 あの人の思い描く絵図のままに、この混迷の時代はいずれ切り開かれていくのだろうかと、斎藤は思う。国、というものの形を、わけもわからぬ斎藤に説いて得々としていた顔を思い出した。

 斎藤は、勝海舟ほど途方もない存在をほかに知らない。位の高い幕臣でありながら、幕府の力は弱いと言い放つ男は、古今東西を見渡しても、勝しかいるまい。

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