(3)

 少女は患っていた。


 真っ当に生きることすらままならない境遇で、人格と呼べるものはとうに壊れ果てていて、ただ漠然と波に揺蕩たゆたうようにして、脆弱な自由意志のみが、彼女を人として保っていた。


 ▼


 七瀬は味の濃いチョコレートケーキを食べ終えて、きっと錯覚でしかない坂崎の残り香のようなものを、拾い集めていた。


 手を伸ばしても、大声を出しても、彼は此処には来ない。此処には、誰もいない。


 どのように振り切ろうとしても、想起してしまう。

帰る家を失ってしまった今、かつて、帰る家を捨てて飛び出したことを。


 七瀬に後悔は無かった。

しかしちらとでも、今とは違う自分の生き方を夢想してしまえば、分岐点での自分の選択を思い返さずにはいられないのだ。


 目を瞑った七瀬は、波に身をまかせるように、ベッドに横たわった。

窓を開け、風を浴びたかったが、今はそれよりも此処ではないどこか、思考の彼方へ、流されてしまいたかった。


 やがて、静寂の部屋の中、七瀬の静かな寝息が聞こえてきた。

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