(2)


 坂崎が一角に事務所を構える街、"樹楽街じゅらくがい"は、眠らない街という異名で有名だ。

帝都より電車で一時間ほどという位置は、この街が繁栄することを約束する要素の一つであったし、事実その通りに、樹楽街は帝国でも有数の繁華街として名を馳せた。


 日中は昔ながらのアーケード商店街が賑わいを見せ、日夜飲み明かす無法者が、酔いを覚ますために青果店で買ったトマトを、その場で丸かじりする光景がしばしば見受けられる。

そこから一本、通りを抜けると、気難しい職人気質の爺達が切り盛りする飲食店が建ち並ぶ。


 夜になれば、街は歓楽街となり、毒々しく染まる。

数多の賭場とばが盆を敷き、その中でも、樹楽街最大の賭場"九郎くろう"は、毎夜おどろおどろしい熱気を撒き散らすのだ。


 九郎を中心に街を取り巻く人々の、一夜の夢。転落の絶望。酒に呑まれ、茹だるような心地。悦楽の呻き。

それらは、放蕩の末この地に辿り着いた余所者の七瀬にとって、異様な光景だった。


「暑いわね」


 七瀬は、夜には人でごった返す光景を夢想しつつ、まだ静けさすらある通りを歩いていた。

隣で、同じ歩幅で歩く坂崎は暑苦しいダークスーツを着込んでいながら、汗ひとつかいていない。

きっと身体がおかしくなって、発汗機能が損なわれてしまったのだと、七瀬は思った。


「これくらいの暑さでぶうぶう言うんじゃねぇ。しゃんと歩け」


「歩いてるわ。顔が暑苦しいからこっち向かないでよ」


 これが事務所内でのやり取りならば、七瀬も涼しい顔をして聞き流すことが出来ただろう。

だが、この炎天下、蝕むように降り注ぐ陽射しの熱は、彼女の口から生意気な皮肉を引きずり出す。


 坂崎の目を盗みつつ、七瀬はブラウスのボタンを上から二番目まで外した。

後になって気付かれて、爺むさい叱言を受けたところで、知ったことかと無視を決め込む腹を括っていた。

七瀬が睨みつけるように坂崎の胸元を見る。

彼も、藍色のネクタイを少しばかり緩めていた。


 二人の間に会話らしい会話が無くなって、一時間ほど経っただろうか。七瀬はもう我慢の限界だった。

少しでも成果が上がるのならば、この照りつける陽射しの責め苦も甘んじて受けよう。

しかし実際は、このとめどなく流れ出る汗には一切の価値がなく、強いて言うならば坂崎の自尊心がほんの少し満たされるだけで、それを思うと、七瀬の苛立ちはより一層際立っていった。


「おい七瀬、どこに行こうってんだ」


「どうせ目的地なんか無いんでしょう。甘いものでも食べて少し休みたいわ」


 勝手に脇道に逸れる七瀬を呼び止める声は、弱々しい。

腕を組んで顎をしゃくり、偉ぶった態度でたしなめたかったが、坂崎も同様にこの暑さを相手にして、限界を感じていた。


「仕方ないやつだな。今回だけだぞ」


 坂崎の上から目線な態度がかんに触ったが、張り合う気力など七瀬には無い。

人一倍自己主張が強く、我が強い二人だが、引き際をわきまえているのは大抵七瀬の方だ。


 蝉時雨せみしぐれが、建ち並ぶ長屋ながやに降り注ぐ。

幾百、幾千もの夏の声が調和したその音は、雨というよりも潮騒のようで、暑さに茹だる七瀬の意識は、夏の波に手を引かれてどこかに消えてしまいそうだった。


 ▼


 甘味処を切り盛りするカズミは齢六十の好々爺こうこうやで、八つ時になれば、老いを微塵も感じさせない威勢の良い彼の呼び込みの声が、樹楽街の一角に響く。

七瀬はそこで提供される季節の果物を使った日替わりの甘味が好きだ。

だが立地条件が災いしているのか、七瀬はここで自分以外の客が来ているのを見たことがない。

七瀬はよその店の財政状態に興味すら無かったが、威勢の良いカズミの声が、自分以外の誰の耳にも届かず虚しく反響するのが、時折気の毒に思えた。


「おっおっおっ。七瀬ちゃんじゃないか。半月ぶりだね、元気にしてたかい?」


 店主のカズミは、癖のある仰々しい笑い声を立てながら破顔はがんした。


「変わりないわ。おじさまも元気にしてた?」


「それはもう! おいちゃんは元気だけが取り柄だからね。まぁ……半月前まではほぼ毎日贔屓にしてくれていた七瀬ちゃんが来ないから、少しさみしかったねぇ」


「ごめんなさいね。仕事が忙しかったのよ」


「おっおっおっ。それはしかたないね。うんうん、しかたない。今日はえらくかっちりとした格好をしてるんだね。美人さんがいつもよりきりっとして見えるねぇ」


「やだわおじさま。からかわないでよ」


 そこまで言ったところで、七瀬は背後から自分を射抜くような視線に気付いた。

やってしまったと後悔するも既に遅く、七瀬が振り返ると、攻撃的な三白眼さんぱくがんが彼女を捉えていた。


「夕飯の買い出しがえらく遅かった理由はそういうことか……野菜が値上がりしたんだろうと気にも留めてなかったが……てめぇ、釣りをちょろまかしてやがったな」


「……い、言いがかりよ! 油を売ってたのは認めるけど、ちゃんと自分のお給金から出してたわ!」


 身も蓋もない嘘だ。

拝金主義である彼女は、そもそも外出の際に自分の財布を持ち歩くこと自体が稀だ。

当然、身銭を切ってまで道草を食うという発想などあるはずもなく、カズミの店に足繁あししげく通って浪費した金は、坂崎のものである。

それどころか、彼女は事務所に転がり込んで以来、殆ど自分の給料に手をつけていない。

有事に備えていると言えば聞こえはいいが、具体的にそういった状況を想定することすら放棄している以上、そういう意味では、七瀬は自身の貯蓄欲を満たす為に働いているとも言える。


「……今度から買い出しに行った時はレシートを持ってこい。うっかり捨てたなんて言ってみろ。全額お前の給料から差し引いてやる」


「そんな! そんなのってない! あんまりだわ!」


「やっぱりちょろまかしてたんじゃねぇかこのクソガキ!」


 七瀬は膝から崩れ落ちそうになった。

住み込みで、諸生活費は全て賄われているとはいえ、彼女の手元に入る給料はあまりに少ない。

一応出来高に応じて支払われる額も変わるのだが、仕事自体が無いのだ。


 しかし彼女とて齢十五の少女。甘味も人並みに好むし、洒落た服も欲しい。坂崎の気まぐれで休みを言い渡された時には、守銭奴しゅせんどなりのささやかな贅沢もしたい。出費は出来る限り抑えたいのだ。

楽しみの一つをあっさり奪われてしまった七瀬の目は、うっすらと潤んでいた。


 坂崎は、この忌々しいがきを懲らしめるまたとない機会だと言わんばかりに、頭の中で罵倒の台詞をまとめ上げていたが、おっおっおっ、と、カズミ老人の仰々しい笑い声が、彼の毒気を吸い取ってしまった。

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