6.そんな七瀬のむかし話〜中編〜

(1)


 自由だということ。自分の足で歩くということ。

自分なりに考えてはみるけれど最初から答えなど見つけられないと、私が決めつけているのだから、きっと何の足しにもならない思案なのだと思う。


 ▼


 四日目の朝だ。

先日の剣舞では気前の良い客がいたので、ぼろぼろのサンダルを眺めながら、新しい履き物を買う決意を固めた。


 一度雨宿りに利用した喫茶店で朝食をとる。

あの時の女給は今日も出勤していて、私を含めるたった三人の客を、レジカウンターから退屈そうに眺めていた。

レジはちょうど、私から見て真正面の位置にあり、時折あくびを漏らす彼女の気だるさまで、はっきりと観察することが出来た。


 レーズン入りのスコーンにたっぷりと蜂蜜をかけて、かぶりつく。

二種類の甘みはあまり調和出来ていないような気がしたけれど、不味いというほどではなかった。

私の味覚は、甘味に対してはとても寛容的なので、むしろ満足ですらある。

角砂糖二つ分の甘みが溶け込んだコーヒーで、口の中に残った蜂蜜を流し込む。

寝起きでこびりついた頭痛が、少しずつ和らいでゆくような気がした。


 今日の空はどうにも機嫌が悪いらしくて、分厚い薄墨色の雲は、今にも弾けてたっぷりと雨を降らせてきそうだ。


 午前中に買い物を済ませて、銭湯で身体を流すのも一緒に済ませてしまおう。

素泊まりの安宿でもあれば、今日はもう、午後からは何もせずに過ごすのもいいだろう。


 窓から覗く道を行き交う人々の表情も、心なしか、空模様と同じように翳っているような気がした。


 一つ目のスコーンを食べ終え、もう一つをどのように食べようか悩んでいると、来客を知らせるベルが鳴った。

興味が無かったので、視線をスコーンに落としたままでいると、一人分の足音は近づいてきて、止まった。


「美人の芸者さんじゃないか」


 顔を上げる。見覚えのない男が私を見下ろしていた。

口ぶりから察するに、昨日の舞を眺めていた客なのだろうけれど、全然思い出せない。


「どうも」愛想がなさすぎるかもしれないが、それ以外に返す言葉が見当たらなかった。


 私のぶっきらぼうな態度も特に気にしてないらしく、スーツをかっちりと着込んだ初老の男は、柔らかい笑みを浮かべている。


「この席、いいかな?」


「ええ」


 四人掛けのテーブルだ。今更一人増えたところで困ることなんてない。

どうせ気を遣う必要も無いのだから、自分が食べ終われば早々に去ればいい。


「コーヒーとホットサンドを」女給を呼びつけて、彼は手短かに注文を済ませる。「君も好きなのを頼みなさい」


「チョコレートワッフルとクラシックパンケーキと自家製コーヒーゼリー、それとクリームあんみつとチョコレートパフェを。あ、それとコーヒーのお代わりをいただけるかしら」


 話が変わった。

男の顔は引きつっていたけれど、私は見ないふりをする。

人にものを奢るなんて、滅多に口にしてはいけないのだ。


「……よく食べるんだね」


「ずっと稼げる商売じゃないから、食べられる時に食べておかないと」


 ただし、甘いものに限る。

幼い頃からそうだった。

特に外食の、味が濃い料理は少し手をつけただけでうんざりするのに、甘いものならばいくらでも食べられる。

実家では、私の食事だけは別メニューだった。


 男はホットサンドに手をつけず、ちびちびコーヒーを飲んでいる。

私はというと、目の前に並んだデザートに満悦気分だ。

ワッフルとパンケーキを食べ終えるまで、会話は無かった。

そしてコーヒーゼリーに手をつけた時、彼はやっと口を開いた。


「今までずっと剣舞で稼いでたのかい?」


「そう、ね。他の仕事はしたことないわ」


 少し悩んだけれど、高校を出てすぐに旅に出たという体で話すならば、この方が都合がいい。

実際には実家の仕事を手伝ったことがあったが、あれを仕事と呼ぶのは、一般人の感覚とはあまりにかけ離れているだろう。


「旅の芸者、かぁ。いいねえ、昔はたくさんいたんだよ」


「そんなにいいものじゃないわ。これでも一応女の子なのよ? 自分が野宿に慣れちゃうなんて思わなかったわよ。うちのボスが気まぐれで腕を磨いてこいだなんて言うから……」


 半分は本当。半分は嘘だ。

上司の存在を仄めかした瞬間、男の眉が一瞬動いた気がする。

突飛すぎて、逆に怪しまれただろうか。


「野宿!? そりゃあ酷いや。やめたければやめればいいのに。君くらい美人ならどこも放っておかないだろう」


「どうかしらね。住み込みで働けるようなところがあれば、それもいいんだけど……」


 本来ならば親の庇護のもとにあるべき年齢。

あと三年間、こうして剣舞で路銀を稼ぐ生活を続けられるか。

そう考えると、気が重くなった。


 十八になったら飲み屋で働いてお金を貯め、手頃な賃貸アパートの一室を借り、目立たないけれど必要な、ちょうどあの花屋のような仕慎ましい仕事に就いて、細々と生きていこう。

そんな風に考えるのは、世の大人からすればあくびがでるくらい甘い思考なのだろう。


「君にその気があるなら、知り合いに紹介しようか?」


 私は思わず男の目を二度見してしまった。

男は、変わらず微笑みを貼り付けたままだった。


 ▼


 紳士に連れられて辿り着いた場所は、思ってもみなかったけれど、私の胸を踊らせるには適当なところだった。


 カトレア、と書かれた、控えめで小粋な木看板。

来客を迎え入れるように、あるいは惹きつけるようにして表に飾られた色とりどりの花。

こじんまりとした造りだけれど、決してみすぼらしくは感じない建物。

そこは、私が先日髪飾りを貰った花屋だった。


「おじさま、ここなの?」


「うん。経営者が古くからの知り合いでね。よく働きそうな女の子がいたら、ここに回すようにしてる」


 あの日見た時は、店主しかいなかったと思う。

紳士の言い方からして、定期的とまでは言わずとも、それなりの頻度で人を紹介しているように思うけれど、つまり、ということは慎ましい雰囲気に反して、実状は大変な激務が積み重なっているのだろうか。


 それでも、構わない。

あの家で何も変わらずに生き続けるよりは。


「嬉しそうだね。何か縁でもあるのかい?」


「ええ。ここに着いたばかりの時に、店主さんにこれを貰ったの」


 この街に着いてから二度目のワンピースに、この髪飾りはよく似合うような気がしたけれど、やはり普段使い用にするには目立ち過ぎる。

せめてこうして持ち歩いていると、髪飾りを、認識していると、旅に出たことが間違っていなかったと思える。


「それは、前の……」


「前?」


「いや、なんでもない」


 紳士は言いかけて口を閉ざした。

それよりもなによりも、私はここで働けるかもしれないということで頭がいっぱいで、人の顔色から何かを察することが出来ない程度には、浮き足立っている。


 客を迎える花達を両脇に、店内へ。


「エル! エルはいるか!」


 紳士が大声で、何かを呼んでいる。

普段ならば耳障りに思う調子の声だけれど、店内に充満した色とりどりの・・・・・・香りに、頭がふわついているような心地だ。


「そんなデカい声出さなくても聞こえますよ旦那。花たちが怯えるからもう少し抑えてください」


 奥の方で、あの店主が頭を掻きながら上体だけをこちらに覗かせた。

寝ていたのだろう。瞼は垂れていて、気怠そうだ。


「どうせろくに世話なんてしていないんだろう? 売り物なんだからいたずらに劣化させるなよ」


 紳士の語気は、喫茶店にいた時よりも遥かに強かった。

仕事になると切り替わるタイプなのだろう。

なるほどたしかに、これはよく働く人じゃなければ長く続きそうにない。


 厳粛と言えば聞こえはいいが、エルと呼ばれた店主が少しだけ気の毒に思えた。

素人目に見ても、店内に飾られた花は綺麗で、きっと客が見ても購買意欲を削がれるようなことは無いだろうに。


「そこのお嬢さんは……と、んん? こないだの」


 顎に手を当て、店主は覗き込むように腰を曲げて目線を向けてきた。


「日帰りの旅行だとか言ってなかったっけか」


 突かれるだろうと思ってはいたが、案の定だった。

一応言い訳は色々と考えたが、これから世話になるのだから、余計なわだかまりは作りたくない。


「ごめんなさい。実は……」


「旅の芸者さん、だそうだ。身を落ち着けたいらしい。つい最近一人抜けたばかりだろう? お前のところに置けるか?」


 私がまごついているのを気遣ってか、紳士が説明ついでに早速本題へと切り込んでいった。

私は内心ほっとしていた。

やはり場数をこなした大人からすれば、この程度の事情をまとめ上げることなど造作も無いのだろうか。

私には、彼が大きく見えた。


「そりゃあ……うちとしては何人でもありがたい限りですよ。見た限り、かなり稼いでくれそうだし……」


「決まりだな。じゃあ、ええっと……」


「七瀬です」


「七瀬ちゃん。うん、いい名前だ。ここに草の根を下ろすかどうかは別として、試しに働いてみるといい。気に入らなければまた芸者を続ければいいさ」


 二段飛ばしで階段を駆け上がるように、あっさりと私の採用が決まってしまった。


 経験は無いけれど一生懸命頑張ります、だとか、売り込みの常套句はいくつか考えていたけれど、結局どれも使うことは無かった。


「こんな美人さん、辞めると言われても離しゃしないよ」


 店主は目尻を下げて笑いながら、そんな冗談を言った。

いやらしさが微塵もないので、私も、愛想笑いではない自然な笑みが、不意に漏れていた。

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