グリーン・アイズ ~終世に現れしヒト~

白昭

プロローグ

予言

 どこまでも突き抜ける深い青が天に広がる。空気の薄い高地ゆえの特徴だ。その群青の空に白亜と赤褐色の宮殿が浮かびあがる。天に向かって手を伸ばすその姿は神仏崇拝の極致ともいえた。ここ数年、雷雲に包まれていた天候が嘘のようだ。世界遺産として観光客で賑わっていた数十年前を彷彿させる光景であった。


 ここは標高三千六百メートルの山頂に聳える、ポタラ宮。世界最大の宮殿でありチベット仏教の大本山でもあった。部屋の総数は一万を超す。かつて最高権力者たるダライ・ラマでさえ、その正確な数は把握できていなかったと言い伝えられている。


 そんな数多ある部屋の一室。そこに極一部の高位僧侶にのみ口伝される礼拝堂があった。決して広いとはいえない。しかし、荘厳な装飾と金色に輝く本尊が他の部屋とは異なる神々しさを醸し出していた。

 一見すると、室内には誰もいないように思える。だが、床の上で僅かに揺れ動く何か。エンジ色と木簡色の袈裟が整然と並んでいた。まさに、五体投地による最上位の礼拝中であった。


 僧侶達は、もう長いこと、ここから一歩も外にでていない。短い僧侶でも十年、長い僧侶では数十年にも及ぶ。一心不乱に仏に祈りを捧げ、自らを高める勤行に励んでいた。礼拝堂に出入りするのも限られた僧にしか許されていない。


 僧侶も人である。生きていくには最低限の食料と水が必要だ。月に一回、これらは宮殿外へと通じる隠し地下道から秘密裏に運ばれていた。といっても、本当に必要最低限だ。日々の糧はエナジードロップと呼ばれる白い錠剤。それを一日に二回、水で喉に流し込むだけ。当然、味などしない。生命維持に不必要な物は一切含まれない。全ての栄養素は体内で吸収される。このため排泄の必要はほとんどない。


 その日も、礼拝堂で数十年間変わらない五体投地の祈りを捧げる僧侶たち。

 額から垂れ落ちる雫が床の窪みに溜まっていく。よく見ると床石の所々が足型にへこんでいる。靴ではなく素足を象ったものだ。それは、まさに長い年月に渡る礼拝の賜物だった。


 室内に小さな呻き声が漏れる。礼拝中の僧侶たちは苦しそうに顔を歪めていた。皆、丸めた頭に黒いニット帽のような物を被っていた。


 世界のあらゆる情報は電子網に溢れていた。その帽子は電脳世界と繋がるインターフェースであった。いままさに世界中で起きている事象。それが、この帽子を介して頭の中に垂れ流されているのだ。悟りの境地に達するための新たな修行の一環だった。


 しかし、あまりに膨大な情報量。当然のことながら常人では脳が耐えられない。このため受け取る情報量に大きく制限をかけている。それですら、かなりの苦行だった。


 そんななか、一人平然とした顔で礼拝を続ける僧侶がいた。礼拝堂の中で最も位の高い僧侶だ。

 幼少の頃から異彩を放ち、神童と敬われてきた。あらゆる知識を瞬く間に吸収。成人の歳を迎えた頃には、世の理を全て理解しているかのように達観していた。

 齢三十でこの礼拝堂に篭り、今年で二十年になる。高僧は、いまやインターフェースのリミットを全て解除していた。世界中の事象が脳に流れ込んでいるのだ。高僧はその情報の奔流を自然体で受け入れていた。まさに彼は、異質だった。


 室内で黙々と礼拝を繰り返す僧侶たち。その日もこれまでの数十年と変わらない平穏な一日で終わるはずだった。


 しかし、終わりはいつも突然訪れる。

 甲高い絶叫が響き渡り、礼拝堂の静謐が打ち破られた。頭を両手で抱え込み床に蹲る僧侶。被っていた帽子を引き千切るようにして脱ぎ捨てる。そして、剃髪された頭を手で鷲掴むと、苦悶の嗚咽を漏らして床を転がった。

 周りの僧侶たちはあまりの異様な光景に暫く唖然としていた。一人の僧侶が五体投地の姿勢から立ち上がり、その僧へと駆け寄る。他の僧侶も我に返り後に続いた。床に這いつくばり苦しむ僧侶。それは最も位の高い高僧だった。


 高僧は三日三晩、発狂したように苦しみ続けた。床に立てた両手の爪は全て剥がれ落ちた。口から吐き出された血が床石を赤黒く染めた。


 三日後の早朝。礼拝堂は普段と変わらない静謐に戻っていた。

 他の僧侶が気づいた時、その高僧は部屋の中央で座禅を組み瞑想していた。身動き一つしなかった。心配した一人の僧侶が高僧へと歩み寄る。

 高僧がゆっくりと瞼を開いた。声をかけようとした僧侶は口を開けたまま固まった。言葉を紡ぐことができなかった。高僧の瞳の色が変わっていたことに驚愕したのだ。


 澄みわたった瞳には、他の僧侶の姿も礼拝堂の光景も映っていなかった。見つめる先は遥か遠い未来。


『業火の双眸、世に顕在しとき、いにしえからのことわりを断罪し、新世創造の種とならん』


 周囲の僧侶たちに、そう言い残すと高僧は遥か遠くへと旅立った。

 ――西暦二〇四八年、十二月。

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