第6話 謀略

 教室に死のような静寂が訪れた。冬の風が何度も乱暴に窓を叩く。幽かな残光は、いましも夜の闇にとって替わられようとしていた。すべての血の惨劇を、覆い隠そうとするように。

「ほんっと、刑事からあの話を聞いたときゃ、目の前が真っ暗になっちまったよ」

 ふっふふ、と三助は嗤った。悠然と、盲学生を見下ろしながら。

「真っ暗。目の前が、真っ暗」

 乾いた嗤い声がなお響く。その悪趣味な冗談は、よほど三助の気に入ったらしい。

土方ひじかた

 薄闇のなか、忍足は泣き叫ぶ盲学生に詰め寄り、かれの口に銃口を突っこんだ。

ふごふごと惨めったらしく、長髪の盲学生は呻きを上げる。

えてないんだろ盲人野郎、この銃がよ。だから、舌で味わわせてやろうってんだ。わかるか? いまこいつに装弾されているのは散弾じゃあない――スラッグ弾だ。威力は散弾の比じゃあない。弾丸の摘出なんて考える必要すらないぜ、内臓ごとごっそり抉って貫通するからな。こいつを喰らえば猪だって一撃であの世逝きってわけだ」

 盲人は、ただひたすらに無力だった。目が視えなければ、銃弾を避けることもできない。逃げることも、戦うことも、抵抗することも、なにもできないのだ。

乱れる長髪の隙間から覗く、にきびだらけのその顔から、みるみる血の気が引いていく。

「訊くぞ、土方」

 忍足は銃口を土方の口から離し、いった。

「おまえが札つきの不良だってことは知っている。県警のOBだっていう爺さんの権力で、いろんな罪をもみ消してきたって話もな。どんな罪をかさねてきたかは知らねえが、被害者たちの気持ちはわかる。みんな悔しい思いを噛み殺してきたんだろうな。でもな、ものは考えようさ。ほんとは簡単な話なんだ、警察が動かないのなら、じぶんが動けばいいだけなんだよ。おまえの後ろ盾がだれかなんて、いまこの場でどれだけの意味があるってんだ? 訊くぜ。香織を狙ったのはおまえだな? なんで香織を狙った? 知ってることをなにもかも喋れ。その間だけ、待ってやる。そのにきび面を粉々にふっ飛ばすのをな」

 苦痛に顔を歪め、土方は食いしばる歯の隙間から狂犬のように涎を垂らしていた。乱れる息遣いのなか、かれは力なく言葉をふり絞った。

「…………」

「は? それ、なんの話?」

 三助が不機嫌そうに吐き捨てる。

「アメリカでの調査結果……だってよ。盲人が性暴力被害に遭うリスクは、晴眼者の、四倍から七倍……」

 意図が掴めなかった。忍足と三助は訝しげに、ひざまずく土方に冷ややかな視線を向けつづける。

「盲学校は閉鎖的だからよ……梅倉うちじゃ、いまだに教師から、生徒への暴力が絶えやしない。盲学生は抵抗できないからな、体育教師なんかは特にやりたい放題さ」

 忍足の脳裏を新聞やテレビでの報道がかすめる――二〇一三年、旭川でも盲学校での虐待が露見して女性教師が免職となった。あんなものは氷山の一画だろう。視覚障害者に限定しなければ、施設での職員からの虐待など枚挙にいとまがない。

「……でもな、殴られたり蹴られたりする程度なら、堪えてたのさ、おれたちはな……。しかたねえ、しかたねえ――そう思いながら、ずっと堪えていたんだ」

 土方の額には脂汗が滲み、長い髪がそれに貼りついていく。

その隙間に覗く灰色のうつろな眼差しは、じっと忍足の背後を睨みつけている。

千条ちすじ――さっきあんたらが殺した女生徒の名だがね――、そいつがある日さ、教室の隅で、泣いていたんだあ。また教師に殴られでもしたのかい、そう訊ねたらさあ――、体育教師に犯された……、っつーんだよ。そのときまだ千条は処女だった……。それを聞いたときさ……。おれらのボスは、ついに怒り狂ったんだ」

「ボス――?」

「あんたたちの中学や高校にも、ボスはいただろ……? スポーツマンの生徒会長だとか、荒くれ者の不良だとか、その類さ……。盲学校にだって、その手合いはいる。指導者になりたがるやつが。みんなを従わせたがるやつが……」

 忍足はなにもいわなかった。障害者も健常者もおなじ欲望を抱えおなじ悪事を犯す――南部なんぶという刑事も、そんなことをいっていた。

 銃口を下に向け、ただ耳を傾ける。

「よそじゃどうかは知らないが」土方は溜息にも似た呻きを上げた。「梅倉うちじゃ代々、全盲じゃあない、比較的視力のあるやつがボスの座を掴んできた。そりゃそうさ、少しでも目の視える人間相手に、まったく視えない人間が勝てるわけがないんだから。支配される以外、道はない……」

「視えるやつがいるのか――おまえたちの仲間に?」

 こくり――と土方は力なく頷く。

馬喰ばくろ――それがおれたちのボスさ。やつには、だれも逆らえねえ。品川先生に手を出したのは、あいつだけ。誓って、ほかには、だれも手を出してねえ……」

「何者だ、その馬喰ってのは? 何処にいる?」三助が問い詰める。

 へへ、と土方は笑みを溢した。情報を提供する者特有の、卑屈な優越感にみちた表情で。

「品川先生は、陽性の人間だ。出会ったすべての人びとに、感謝しながら生きてきた人間だ。だったら、その逆だって、いたっておかしかないだろう……?

 馬喰は怨んでいる。世界じゅう、すべての人間を憎んでいるんだ。それが晴眼者なら、なおさらさ。馬喰は、幼いころからじつの父親にずっと虐待されて生きてきた。煮えたぎる熱湯で満たした鍋に手を突っこまれて百秒数えさせられたり――背中にライターオイルをかけられ点火されたり、寝ているところに鉄アレイを腹に落とされたり、肋骨が折れるまで殴られたり――思いつく限りの、ありとあらゆる虐待を、その小さな躰に受けてきたんだ。

 そんな馬喰の転機は、五歳の誕生日のときさ――その日の虐待は、いつにも増してひどかったね。金属バットで殴られて馬喰の頬骨は陥没、目の上は何倍にも腫れ上がった。幼いながらに、こりゃ死んじまうな、って思ったとき――ドアをノックする音が響いた。通報を受けた警察が、ようやく救助にやって来たのさ――でも、馬喰はその頼もしい制服姿を見ることは、もうできなかった。鉛筆を二本、眼窩に突っこまれて、両眼ともすでに抉られていたからね……」

 忍足は眉間に皺を寄せた。吐き気がする。なんて話だ。まるでそれ自体が呪詛の言葉のように。

「おっと、話はここからなんだぜ」

 土方は口の端を吊り上げて嗤った。

「七年後……、馬喰の父親は、刑期を終えて出所した。そしてその日のうちに――出所したことを後悔したんだ。刑務所にずっといたほうがましだった、そう思い知らされた。監獄のほうが、いくらか安全だっただろう。十二歳になっていた馬喰が、復讐にやって来たのさ。

 馬喰は、それまでされてきたことを、そっくりそのまま父親にやり返した。煮えたぎる熱湯で満たした鍋に手を突っこんで百秒数えさせた。背中にライターオイルをかけて点火した。寝かせたところに鉄アレイを腹に落として大笑いした。肋骨が折れ、血へどを吐くまで殴り続けた。金属バットで頬骨を陥没させた。瞼を何倍にも腫れ上がらせた。そして。そして――」

 そのとき、仄暗い教室に仔猫の啼き声が響き渡った――土方にすり寄っていた仔猫は、ゆっくりと、忍足たちのほうをふり返った。

 忍足と三助は、その異様な姿に息を呑んだ。

 。両眼を抉るように、深々と。

 

 悲鳴とも怒声ともつかぬ雄叫びが響く。

 銃声が鳴った。怒りにみちた銃声だった。

 三助が、息を乱しながら、土方の胸を撃ち抜いたのだ。

 夥しい血を撒き散らす土方は、その場でさも嬉しげに嗤った。

「一歩遅かったな……! おまえたちはもう、お終いだ……おれがなにも考えずにべらべらとくっちゃべっていたと思うのか? 時間を稼いでいたんだよ、まぬけめ、そのことに気がつかなかったのか……?」

 長い髪を幽鬼のように振り乱し、呪いをかけるように血に濡れた手をかざし、震わせながら、土方はその場に仆れこんでいった。その死に顔には、なお不気味な嗤いが刻みつけられている。

 時間を稼ぐ――なんのことだ?

 忍足は携帯電話の時計を見た。時刻は午後四時五十九分。

 七分間というゲームの制限時間は、とうに過ぎている。

 しかし、それがなんだというのだ? パトカーのサイレンも聞こえていない。それならいまからでも、逃げ切ることは難しいことじゃない。

 簡単すぎる。なにもかもが、うまくいきすぎている。こんなものは、ゲームですらない。

 忍足がそう思った瞬間だった。

 暗転するように教室からすべての明かりが消えた。

 窓の外には、星ひとつない。

 教室は夜の闇に完全に飲み込まれてしまった。

 チェッ……!

 チェッ……!

 不気味な舌打ちの音が、闇の中に鳴り響いた。

 忍足はごくりと息を呑んだ。視界は、完全に、黒く塗り潰されている。忍足の胸に、いやな予感が渦を巻いた。

「三助、蛍光灯だ! 早く、蛍光灯をつけるんだ!」

 いわれるより早く、三助はおぼつかない足取りでゆっくり壁に向かって歩いていた。

 カチッ。カチッ。

 壁に手を這わせ、スイッチを入れる音が響く。しかし、蛍光灯が明かりを灯す気配はない。

「つかねえ……つかねえよ、忍足さん。故障してんのかよ、畜生ッ!」

 闇のなか、焦る三助を嘲笑う声が響いた。瞬間、何者かの跫音が、忍足の近くを獣じみた速さで駆け抜けた。

 理解できない速さだった。暗闇のなかでこれほど速く走るなんて、どんな人間にもできないはずだった。

 ただ、わかることはひとつだけ。

 なにかがやばいということだけ。

「三助、気をつけろ!」

 忍足の声もむなしく、三助の叫びが夜の闇に響く。その悲鳴は忍足の心臓を突き動かした。鼓動がみるみる速まって、警告音を高く響かせていく。

「お、忍足さん」三助が泣き叫んだ。「速い。動きが速すぎる。なんで。こいつ、視えないはずなのに!」

 揉み合い、争う音が響く。

 しかしすべては闇のなか。

 視覚を封じられ、自然、敏感になっていくその耳で、忍足はたしかにきいた。三助の悲鳴に混じり、耳障りな舌打ちが、闇のなかで歌っていた。

 チェ……ッ!

 チェ……ッ!

 この舌打ちは――

 こいつは、まさか。

 すべての明かりが失われる瞬間を、虎視眈々と狙っていたのか。血を流し、痛みに堪えながら、夜の訪れをただ、じっと。

 夜の闇に乗ずれば、視界が塞がれるのは盲人も晴眼者も同じ条件。

 その好機を、こいつはずっと、待っていたというのか。

 なにも視えない――ただ、忌々しい舌打ちの音を頼りに、おぼつかない手つきで銃口を目標に向ける。

 焦りを殺し――引き金を引いた。

 凄まじい音が耳をつんざき、悲鳴が溶けて消える。

 忍足の乱れる息遣いだけが、暗闇のなかに響いていた。

 冷静ではなかった。顔が蒼ざめていくのがわかった。汗が目のなかに入り、いまではまったく用を為さないそれを一瞬、瞑らせた。

 瞬間、机とともになにかが仆れるけたたましい音が鳴った。

 大量の血の温もりが床を染めていくのがわかる。

 チェ……ッ!

 チェ……ッ!

 その不気味な舌打ちが、ふたたび教室に響きはじめる。

 生きているぞ――と勝ち誇るように。

 仆れたのは三助だ――強力無比のスラッグ弾を受けて、躰に大きな風穴を開けたのは三助のほうだ。

 忍足は、ぞっと背すじを震わせた。

 狙いまちがえたのでは、断じてない。闇のなかとて、それはない。

 まちがいない――こいつは、スラッグ弾の軌道を読んで、三助を盾にしたのだ。

やつには、すべてが、視えている。

 あの片腕の学生は、たしかに盲人だった。両眼ともに義眼、全盲の盲人だった筈なのに!

 忍足は引き金を引いた――しかし、頼みの綱のレミントンM870は、むなしく不発音を響かせる。

「ちゃんと数えていたんだ……」

 闇のなかから、歌うような声が聞こえた。

! 日本で流通する散弾銃は薬室に一発、弾倉に二発の計三発までしか装弾できない……そうだろ? あんたはもう、三発撃った。それで打ち止めだ。弾切れだよ――

 うわあああああああああああッ!

 恐怖を殺す雄叫びとともに、忍足は銃を投げ捨てた。

 瞬時に身構え格闘戦に移行、まっ暗闇のなか果敢に踏みこみ、素早い動作で連突きを放つ。

 拳はむなしく空を切った。しかし元より牽制のつもりである。盲学生を、特定の方向へ追いこむための。

 標的の位置はほぼ捕捉――そうなれば視えなくとも同じこと――盲学生の姿も視えないままに、渾身の力を込めて回し蹴りを放つ。

 闇を切り裂く音ののちに、竹が割れるような異様な音が高く響いた。

 ――一瞬、忍足の口もとが緩んだ――しかし、それはほんの一瞬のことだった。

 脛に痺れるような激痛が走る――忍足はそれだけで理解した。

 壁だ。蹴りつけたのは、コンクリートの壁。

 小さな嗤い声が洩れた。

 計算ずく――なのか。忍足はごくりと唾を呑み込んだ。

 こいつは敢えて、自爆させる狙いで、壁際に誘いこんだというのか。

 正確に、蹴撃の軌道が読まれている。

 

 チェ……ッ!

 チェ……ッ!

 忍足の呼吸がしだいに乱れていく。

 激しい息遣いと速まる鼓動が、教室じゅうにこだまする。

 ――そうか、か。

 この盲人は、舌打ちを鳴らし、その放射音と反射音の時間差、あるいは音色や音圧の変化を聞き分けることで世界を「視て」いる。対象の位置、大きさ、距離、そしてそれが固いものか柔らかいものかなどの物質的特性までもを瞬時に正確に把握している。

 蝙蝠のように。イルカのように。視覚による「映像」に頼ることなく、聴覚による「音像」を捉え、三六〇度死角のない完全なる空間認識を行っている。

 だから光の射さない闇のなかでも、目で視るより素早くパワフルな動きができる。

 反響定位エコーロケーション

 香織から聞いたことがある。そんな超人的な芸当をこなす盲人が、ごくごく稀ながらこの世には存在するということを。

 つまり、この無明の闇のなかで。

 盲目なのはおれのほうだ。

 盲人は、おれのほうだ。

 

 

 チェ……ッ!

 チェ……ッ!

 チェ……ッ!

 舌打ちの音がなおも鳴る。闇に躰じゅうを撫でまわされているような錯覚を覚え、ゾッ、と全身が総毛立つ。

 やつには、おれが視えている。手に把るように視えている。

 この暗闇に支配された教室は――やつの胃袋のなかも同然だ。おれは、もう、そこに呑まれているのだ。

 鍛え上げた忍足の足とて、コンクリートの壁を蹴りつけてただで済むはずがない。

 絶望と激痛に、悲鳴が闇のなかに響く。

 そのせつな、躰が宙に浮いた――暗夜のなか、盲人は一瞬で間合いを詰め、忍足の襟首を掴み、素早く腰を落としたのである。

 背負い投げ――か?

 完全なる闇のなかでは、天地の感覚が失われる。まるで永遠の闇に引きずりこまれるような感覚、続いて背中に衝撃が走り、呼吸が止まった。

「――!」

 視えていないにも関わらず、その動きはあまりにも正確、あまりにも俊敏。何度も何度も訓練に訓練を重ねてきた動きだ。

 柔道――か?

 組み合っての投げ技や寝技を競う柔道は、盲人と晴眼者でのハンデが少ない。両者の間で交流試合が行われることさえ、珍しいことではないという。

 盲学生は間髪入れず、仆れた忍足の上に覆い被さろうとした。

 柔道家の寝技に捕まったら、忍足の不利は動かない。

 しかし仆れたら寝技を仕掛けにくるだろうことを、忍足はすでに読んでいた。

 動きが読めれば、相手の姿が視えなくても、対処は難しいことではない。

 忍足の手には、ダイバーズ・ナイフが握られていた。

 そして渾身の力を込めて、闇のなかに突き立てる。

 猛獣の断末魔のような悲鳴が、無明の闇に響き渡った。

 咆哮に闇が震えるなか、忍足は必死に起ち上がり、右足と背中の痛みを引きずりながら、教室の外に逃れ出た――。

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