第二話 あたえられし者

 夏が暑さの盛りを迎えた頃、河内国に船を停泊させた月読つくよみ達の一行は、邪馬台国を目指して山道を進んでいた。

 二年半前の深夜、少数の兵と共に身を隠すように歩いた川沿いの道は、当時と何も変わっていなかった。

 だが今は、みかどとして堂々と黒い馬に跨り、大軍を率いる月読の姿がそこにあった。

 途中立ち寄った出雲国からは、神祇伯じんぎはくとなった覇夜斗はやとも合流していた。


 町への入り口付近にさしかかると、帝の帰還の噂を聞きつけた邪馬台の民が、沿道で彼らを出迎えていた。

 難升米なしめの言葉に惑わされ、月読を追放した彼らは、皆赦しを乞うように額を地面に擦り付けていた。

 そんな人々の群れに気が付いた月読は、馬の歩みを止めて地上に降り立った。

 しばらくひれ伏する人々を静かに見つめていた彼は、ふっと大きなため息をついた。


「長らく留守にしてすまなかった」


 予想に反して穏やかな月読の声色に、数人が様子をうかがうように視線を持ち上げた。

 そこには大陸風の衣装をまとい、以前と比較にならぬほど威厳に満ちた月読の姿があった。


「卑弥呼を偽り、この国を後にした私を許して欲しい」


 そう言って月読は、その場で深く頭を下げた。


「月読様!」


 隣で牛利ぎゅうりが馬から飛び降り、叫ぶような声を上げた。

 彼は君主である月読が民に向かって頭を下げるなど、あってはならないことと慌てたのだ。

 そんなことをすれば帝の尊厳が損なわれ、統治に支障をきたすのではないかと危惧したのだ。

 だが牛利に肩を揺さぶられても、月読はまっすぐ地面を見つめるように頭を下げたまま、微動だにしなかった。

 なおも月読の姿勢を正そうとする牛利の肩を、覇夜斗が引き止め、黙って首を振った。


「……月読様。私どもこそお許しください」


 沈黙を破って一人の男が震える声を上げた。

 しかし月読はなおも黙って頭を下げ続けていた。

 すると人々は次々と顔を上げ、月読に向かって手を合わせて涙を流し始めた。

 黙ってうつむき続ける月読の姿に、彼らは自分達の罪深さと、神の怒りに触れているに違いないとの不安を感じ始めていたのだ。


「神の子であるあなた様に向かって、あのような非礼な行動をいたしましたこと、どうか、どうか……!」


 いつしか沿道は、手を合わせてすすり泣く人々の声に包まれた。


「お許しを……」


「お許しを……」


 涙を流す人々の声が大きなうねりとなった頃、ようやく月読はゆっくりと頭を上げた。

 その顔を見た民は、誰もが息を呑んだ。

 彼らの不安を包み込むように、そこには慈愛に満ちた微笑みがあったのだ。


「この地を追われることがなければ、私は日々のまつりごとに忙殺され、狗奴国くなこくへ戦の旅に出ることもなかっただろう。朝廷を開き、帝として今こうして再びこの地に立つことができているのも、あの日があったからこそ。きっとすべては、神の導きであったのだろう」


 月読の言葉に、人々は黙って手を合わせたまま再び頭を下げた。


「今はまだ呉に統治されていた名残で、筑紫島つくしのしまの諸国は混乱している。それが落ち着けば、私は都をここへうつすつもりだ。天子の住む都の民として、お前達には誇りを持ち続けて欲しい」


「……」


「私はいずれ、必ずこの地に帰って来る。私の故郷である邪馬台国に」


 表情を引き締め、月読は力強く宣言した。

 それを聞いた人々の顔には、先ほどまでの暗さはもうなかった。

 彼らは彼が遠い地で朝廷を開いたと聞き、自分達がひどい仕打ちをしたことで、この国は見捨てられたのではないかと悲観していたのだ。

 しかし、いずれこの地に遷都せんとするとの月読の言葉に、誰もが救われたのだ。

 何もなかったかのように笑顔を見せる月読と、そんな彼を崇める民の姿に、牛利はしばらく呆気にとられていた。

 そんな大男の肩を、覇夜斗は軽く叩き苦笑した。


「民衆に頭を下げるなど、我々には真似できぬな」


「……」


「ま、そのような見栄にこだわることこそ、我々が凡人たる所以ゆえんかもしれぬがな」


 覇夜斗の言葉に大きくうなずき、牛利は人々に囲まれる月読の姿を眩しそうに見つめた。




 壹与いよは宮廷の門の前で、月読達の到着をそわそわしながら待っていた。

 町へと続く一本道を見つめていると、遠くからにぎやかな様子の人だかりが近付いて来た。

 目を凝らすと、それは馬上で微笑む月読と、彼を取り囲む邪馬台の民の群れだった。

 人々は踊るような足取りで歩みを進めながら、笑顔を帝に向けていた。

 そんな様子を見て、壹与はほっと胸を撫で下ろして笑みを浮かべた。

 彼女は月読がどのような表情をしてこの地に戻り、そして民が彼をどう迎えるのか不安を抱いていたのだ。

 だがそれも不要であったことを知り、心から安堵した。


「おかえりなさい」


 月読と目が合った壹与は、そう言って腰を落とし、微笑んだ。


「ただいま」


 馬上から壹与を見下ろし、月読も優しく笑った。





 月読の希望により、謁見は祈祷の間で行われた。

 松明たいまつすすによって飴色に艶めく白木の柱に指先で触れ、月読はしばらく目を閉じて遠い日へ思いを馳せているようだった。


「懐かしいな……」


 少年の日から姉卑弥呼の神託を聞き、その姉を目の前で失ったその場所は、昔と何一つ変わらぬままそこにあった。

 ただ、姉の亡き後、神託を求めた少女だけは、昔よりずいぶん大人になって彼の前にいた。

 そこに時の流れを感じ、月読はため息混じりに小さく微笑んだ。

 月読が上座に腰を下ろすと、彼に向き合うように覇夜斗が座り、壹与もその隣に並んだ。

 邪馬台も朝廷の配下の国となり、その女王である壹与は諸国の王と同等の身分になったのだ。


「出雲国王様、御結婚おめでとうございます」


 壹与はそう言って同列に並んだ覇夜斗に向かい、軽く頭を下げた。


「ありがとう。妃もあなた様に一度お目にかかりたいと申しておりました。いずれぜひ」


 鼻の頭を掻きながら、覇夜斗は珍しく照れたような表情を見せた。

 見慣れない彼のそんな顔を見て、壹与は覇夜斗の妻へ対する愛情を感じ、思わず笑みをこぼした。


「新婚の覇夜斗を、旅に連れ出して悪かったがな」


 月読もからかうようにそう言って笑った。

 すると覇夜斗は矛先を変えるかのように、赤い顔をして牛利を指差した。


「それを言うなら、こやつもであろう」


「そうなの?」


 壹与の問いかけに、牛利も「……はい」と小さく答え、赤い顔をして首の後ろを掻いた。


「おめでとう。男鹿おがもきっと喜ぶわね」


 笑顔を浮かべてさらりと壹与が口にした青年の名に、一同は思わず表情を失った。

 そんな男達に気付き、壹与は慌てて少し大袈裟気味に笑った。

 彼らよりずっと若い少女に逆に気をつかわせたことで、男達は気まずそうに顔を見合わせた。


「わざわざ覇夜斗に、ここまで来てもらった理由はわかるね」


 場の空気をかえるように、月読は真剣な表情を壹与に向けて問いかけた。


「……はい」


 壹与も、神妙な面持ちで月読を見つめ返した。

 神事を司る神祇官じんぎかんの最高位である覇夜斗には、各国を代表する巫女の任命権が委ねられていた。

 月読が彼をここへ連れて来た理由には、邪馬台の民に神祇伯として認識させるのと同時に、新しいこの地の巫女を任命するためではないかと壹与も薄々感じていた。


「朝廷において、政と信仰は切り分けねばならぬ。この国の女王であるお前が巫女であり続けることは、矛盾を生み出すんだ。覇夜斗の妃となった夕月ゆづき殿にも、巫女を引退してもらった」


「わかっています」


 月読の言葉に、壹与は目を伏せて小さく笑った。

 新しい巫女が任命されるということは、現在巫女である自分が解任されるということなのだ。

 時にはそのあまりの重責に、逃げ出したいとさえ思った職務であったが、いざ解放されると思うと、彼女の胸の内には意外にも空虚感が漂った。

 巫女でなくなり、いずれ月読がこの地に帝として還ってくれば、女王の任も解かれるだろう。

 その先いったい自分は何者として生きていけばいいのか、彼女には想像すらできなかった。


「巫女として、お前に最後に務めて欲しいことがある」


 うつむいて考え込んだ壹与に、月読は表情を緩めて語りかけた。


「男鹿の実家跡にやしろを建てるんだ。その地鎮祭とこしずめのまつりでお前に舞って欲しい」


「男鹿の……?」


「あの者の両親と姉が命を落とした場所だ。お前が彼らの魂を慰めてやってくれないか」


 戸惑う壹与の斜め向かいで、牛利が深く頭を下げた。





 数日後、壹与は地鎮祭で舞うために男鹿の生家跡を訪れていた。

 邪馬台国の南に位置するこの土地は、山並みが近くに迫り、青い空を見上げれば、深緑の山々の間にとんびが気持ち良さそうに旋回するのが見えた。

 少し開けた場所に立つと、社の建築に向けて最近草が刈られたらしく、青臭い匂いが鼻をついた。

 短く刈られた草の合間には、屋敷の基礎に使われていたと思われる石や、朽ちかけた木材が処々に見え隠れしていた。


 ふと足元に目をやると、器の破片らしきものがあった。

 身を屈めてそれを手に取った壹与は、胸に手を当ててきつく目を閉じた。

 確かに、この場所で人の営みがあったのだ。

 そしてそこには、幼い日の男鹿がいた。

 そう思うと、無性にこの場所が愛しく思えた。


 顔を上げた壹与が屋敷跡のその奥を見ると、ひざまずく牛利の後ろ姿があった。

 背後から静かに近付くと、彼は一心に三つ並んだ石に向かい、左手を顔の前に立てて祈りを捧げていた。

 壹与も大男の隣に腰を下ろすと、静かに手を合わせて目を閉じた。

 彼女の存在に気が付いた牛利は、驚いたように目を見開いた。


「男鹿の家族は、どんな人達だったの?」


 自然石を並べただけの粗末なものであったが、それらが男鹿の家族の墓であると確信し、壹与は牛利に問いかけた。

 男鹿の姉である弥鈴みすずがこの男の許嫁いいなずけであったことは、先日月読から聞いた。

 そして彼女がここで命を落とした理由と、牛利が男鹿を我が子のように育てるようになったいきさつも、そのとき同時に知ったのだ。


「このあたりの集落をおさめる豪族で、情に厚く、民からも慕われておりました」


「……そう」


 壹与は微かに笑い、再び目を閉じると、死者に祈りを捧げた。 



 その後、壹与は屋敷跡の周辺の案内を牛利に頼んだ。

 幼い日の男鹿が見たものや感じたことを、少しでも共有できればと思ったのだ。

 そんな彼女の想いに、牛利は快く応じてくれた。


 牛利に手を引かれ、草木に覆われた緩やかな土手を下ると、岩の間を縫うように流れる小川があった。


(ここで、沢蟹をとって遊んだりしたのかしら)


 苔むした岩場に腰を下ろした壹与は、冷たい水に手を浸し、幼い日の男鹿の姿を思い浮かべて小さく微笑んだ。

 きっと彼は、ここで優しい両親と姉に見守られ、無邪気に暮らしていたに違いない。

 それがある日突然、すべてを目の前で無惨に奪われ、身分を隠し、仇である難升米に仕えて生きていくことになったのだ。

 当時わずか八つであった彼の心中は、どんなものであっただろう。

 それを思うと、壹与の瞳に涙が滲んだ。

 彼の表情がいつもどこか寂し気だったのは、そんな哀しい過去のせいだったのかもしれない。


「……会いたい……」


 木々に覆われた空を見上げ、思わずそうつぶやいた瞬間、彼女の瞳から涙がこぼれ落ちた。


「あいつは、幼い頃からずっと、あなた様の存在に救われていたのですよ」


 そんな壹与の様子を見て、牛利が噛み締めるように言った。

 その言葉に驚いた壹与は、潤んだ瞳で大男を見上げた。

 男鹿がこの男に連れられ、幼い頃から宮殿に出入りしていたことも、彼女はあとから知った。

 難升米の屋敷から助け出されたあの日まで、彼女は彼の存在すら知らなかったのだ。

 そんな自分が彼を救うことなどできるはずがないと、壹与は首を傾げた。


「難升米の屋敷へ連れ帰った当初、奴はひと言も発せず、ずっと心を閉ざしておりました」


「……」


「しかしある日突然、あいつの方から、私に尋ねてきたのです」




「ねえ牛利、あの人はなぜ、いつもあの女の子のそばにいてあげないのかな」


 宮廷の庭を男鹿と歩いていた牛利は、初めて耳にした少年の声に思わず振り返った。

 少年の視線は、少し離れた場所で向かい合う美しい少年と、幼い少女に向けられていた。


「あの方は邪馬台国の皇子、月読様だ。女大王様の審神者さにわとして、重要な任務を担っておられるのだ。おそばにいて差し上げたくても、かなわぬのだ」


 男鹿が初めて口を開いたことで、ほっとした表情の牛利とは対照的に、少年は眉間に皺を寄せて少女を見つめていた。

 そんな彼の視線の先で、何か説得するように壹与に二、三言告げた月読は、慌ただしくその場を去って行った。

 後には、遠目にも寂しそうに佇む少女だけが残されていた。


「あの子は、あんなにあの人がいなくなると寂しそうなのに。可哀想だよ」


「……」


「私なら、ずっとそばにいて欲しいって言われたら、そうしてあげるのに」





 牛利の話を聞いて、壹与は両手を口元にあてて嗚咽おえつを漏らした。


「以来、奴は自分の身に起こった不幸を嘆くより、あなた様の幸せを願うようになりました。結果的に、それによって奴の傷ついた心は救われたのです」


 前のめりに崩れそうな壹与の体を支え、牛利は優しく語りかけた。


「しかし大人になって、そばにいてやりたくてもそれがかなわない現実があることを、奴自身、誰よりも身に染みて思い知ったでしょう」


 牛利の左腕に寄りかかりながら、壹与は声を上げて泣いた。

 だがその声は、彼らを覆うように繁る緑のざわめきと、小川のせせらぎにかき消されていった。





 数時間後、おごそかに始まった地鎮祭で、壹与は巫女として最後の舞を神と男鹿の家族に捧げた。

 白い衣装を纏い、さかきを手にした壹与は、身を反らせて回転しながら天を仰いだ。

 社を建てるため月読が狗奴国から連れて来た職人達は、倭国の巫女の舞いを初めて目にし、その美しさと神聖さに言葉を失い、終始見入っていた。


 壹与の瞳は舞っている間中、ずっと涙で濡れていた。

 祭事のために集まり、彼女を取り囲む人々の姿は、その目にはいっさい映っていなかった。

 彼女は舞いながら、この地にまだ存在を感じる男鹿の家族の魂に向かって一心に語りかけていた。


(私、男鹿を愛しています。あの人をこの世に授けてくれて、ありがとう)


 月読は何かに取り憑かれたように舞う壹与の姿に、目を奪われていた。

 こんなに切ないほどに美しく、はかな気な巫女の舞を彼は見たことがなかった。





 地鎮祭を滞りなく終え、夕刻神殿へ戻った月読と壹与は、回廊から町並みの向こうに横たわる卑弥呼の墓を見つめていた。


「呉出身の専門家も驚いていたよ。倭国の技術力であれほどのものを築造するとは……と」


 月読の言葉に、壹与は改めて小振りの山のように見える墓を見つめた。

 男鹿が張政ちょうせいと共に心血をそそいだ卑弥呼の墓は、現在は野猪のいが指揮を引き継ぎ、作業が進められていた。


「男鹿はお前を守るため、必死だったんだろうな」


 地形を変えるような大掛かりな事業は、幼い女王の権威を誇示する目的で始まった。

 事実、この墓の建造が始まってから、民の結束力は高まったように思われた。


「お前のために、ただ一途に。そんな迷いのない心が羨ましいな」


 ため息混じりにつぶやく月読の顔を、壹与は不思議そうに見上げた。


「迷い? あなたが?」


 驚く壹与の顔を見て、月読は苦笑した。


「時々不安になるんだ。私のしていることは、本当に正しいのであろうかと」


「……」 


「国力を強めるために、新しいものを受け入れることは必要だ。だが、そのために古き良きものまで失うことにならないだろうか……とね」


 壹与は言葉を失った。

 普段の月読の言動には、迷いなど感じられなかった。

 だが心の中ではいつも、こうやって人知れず悩んでいたのであろうか。


「これからこの国は役人によって動いていく。ともすれば君主など一見不要かもしれない。だがおそらく倭国の本来の姿を見失わないために、私とその子孫は存在していくのだろう」


 どこかはかな気な月読の背を見て、壹与は思わず背後から彼を抱きしめて瞳を閉じた。

 民に愛され、仲間や家族に愛されている彼が、この時、誰とも分かち合えない深い孤独を抱えていることに初めて気付いたのだ。


「……ありがとう」


 月読は背を向けたまま、小さくつぶやいた。


「連日で悪いが、明日は宇多子うたこの墓まで付き合ってくれないか」


 相変わらず前を向いたまま月読が口にした言葉に、壹与は目を見開いた。


「難升米の娘として父親に加担したのだ。表立ったことはしてやれないが、せめて小さなほこらくらいは建ててやりたいんだ」


 壹与が背中から回していた腕をほどくと、月読は彼女と向き合い、切な気に笑った。


「そうね。きっと喜んでくれるわ」


 言いながら壹与は、自分を裏切り、死んでいった女にまで、できる限りを尽くそうとする月読に驚いていた。

 しかし、だからこそ彼は迷うのだろうと思った。

 誰もが幸せに過ごせる世の中などあり得ない。

 だが彼は、常にその理想を追い求めているのだ。

 しかも家族や親しい仲間を優先するわけでもなく、皆に等しくそうであって欲しいと心から思っている。


「いずれにせよ、私にはあなたの妻はつとまらなかったわ」


「え?」


 思わず壹与の口から出た言葉に、月読は驚いたように小さく叫んだ。

 自分の発した言葉に、壹与は顔を赤らめて口元を手で押さえた。

 だがこの日の彼女の心は、自分でも不思議なほど素直で澄んでいた。

 それは今日、牛利の話から、自分へ対する男鹿の深い想いを改めて感じられたからかもしれなかった。


「私、男鹿と出会うまで、あなたのことが好きだった。でも、愛する人には私だけを見ていて欲しいって思ってしまうもの」


「……」


「誰のものでもあって、誰のものでもない。それこそが神であるあなたなのにね」


 壹与の話を聞いた月読は、しばらく眉を寄せて考え込んだ。


「……言葉ことのはもそう思っているのかな」


 見たことのない不安気な月読の表情に、壹与の胸は締め付けられた。

 ずっと自分より大人だと思っていた彼が、この時初めて幼い少年のように愛しい存在に見えたのだ。


「お姉様は、あなたにとって特別ではないの?」


「特別だよ」


 壹与の問いかけに、月読は即答した。


「彼女は、私に安らぎをくれるんだ」


 それを聞いて、壹与は「ああ」と納得した。

 誰に対してもあたえるばかりの彼にとって、姉は唯一、彼にあたえることができる存在なのだ。


「狗奴国に戻ったら、今の言葉をそのまま聞かせてあげて。きっと安心するわ」


 微笑んでそう言う壹与に、月読はほっと息をついた。


「ああ。そうする」


 そう言って茜色の空を見上げた横顔は、すでに帝としての威厳を取り戻していた。

 そして彼は、いつもの大人の表情を壹与に向けた。


「待っててくれ。必ずお前のもとにも、幸せを連れてくるから」


 壹与はくすくすと笑って目を伏せた。


(ほらね。私も、昔からあたえられる者だもの)


 壹与はこの時、本当の意味で最初の恋が終わったと思った。

 そして並んで欄干にもたれた二人は、しばらく別々の空を見上げていた。

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