第五話 二度目の恋

 壹与いよは祈祷の間から出ると、回廊の欄干に手をかけ、眼下に広がる邪馬台の町並みを見下ろしてため息をついた。

 四方を山に囲まれたこの広大な国の大王が自分であるという実感は、一年が過ぎても未だなかった。

 先日、腹違いの姉である河内国の言葉媛ことのはひめが、月読つくよみ皇女ひめみこを生んだと張政ちょうせいから報告を受けた。

 子ができたことを先に知らされていたからか、動揺するよりも、むしろ無事に生まれたと聞き、胸を撫で下ろした。

 娘の誕生を待たず旅立った月読は、同盟国を巡り、結束を確認しながら、陸続きの西端にある大国出雲国を目指しているらしい。

 その後も、月読が妻を得たとの報告を受けたが、言葉媛の時ほど心が乱れることはなかった。

 それでも祈りを捧げるために祭壇に向かっても、相変わらず神の声は聞こえず、自ずと祈祷の間で過ごす時間も少なくなり、日々時間を持て余して過ごしていたのだった。


 一方の男鹿おがはこの一年、張政のそばを片時も離れず、彼の知識を貪欲に吸収しようとしているように見えた。

 雲の動きや風の吹く方向等、これまでは神の気まぐれで移り変わるものと思われていたものに理由があることを知り、少年の好奇心は留まらない様子であった。

 さらに卑弥呼の墓を造る場所が決まった最近では、張政と共に連日現場に張り付き、山のような墓を造るという壮大な計画を実現することに夢中のようで、壹与と顔を合わせるのも挨拶を交わす時程度になっていた。


(いっそ、男鹿が大王だったらよかったのに……)


 近頃壹与は、巫女とは名ばかりの、神託も聞けない自分が存在する意味に疑問を感じていた。

 王家の血が流れているというだけで、なんの取り柄もない自分が、大王の立場にいることが不思議で仕方なかった。

 聡明で実行力もあり、人々から審神者さにわとして信頼を集めつつある男鹿の方が、よっぽどその立場にふさわしいと思わずにはいられなかった。

 勿論、彼が自分のために巫女に頼らないまつりごとを形作ろうとしてくれていることはわかっていた。

 だが、同時に彼の行動によって、巫女としての自分の存在が否定されているようにも感じてしまうのだった。




「今年の御田植祭おたうえさいは、いつにいたしましょう」


 久々に腰を据えて祈祷の間を訪れた男鹿は、壹与の顔を見つめて儀式の日取りを相談してきた。

 これまでその年の五穀豊穣を祈る田植え前の大切な行事である御田植祭の日取りは、巫女である壹与の占いによって決められていたからだ。

 改めて壹与の前に座した男鹿は、連日現場で過ごしているためか肌は日焼けし、一年前から比べると一層背が伸びて、顔つきも精悍さが増したように見えた。

 そんな彼の姿を見ていると、壹与の中でまた自分だけが成長できていないような、焦りに似た感情が渦巻き始めた。


「あなたが決めてくれればいいわ」


 壹与は、拗ねたような口調で言い捨てた。

 霊能力を失い、形式だけになった占いなど、行う気分にはとてもなれなかったのだ。


「いつ頃が日和がいいか、あなたの方がわかるでしょ」


 憮然とした壹与の様子に気が付いた男鹿は、眉間を軽く寄せて首を傾げた。


「……どうかされましたか?」


 そう尋ねる男鹿に、壹与は子供染みた自分に気付き、自己嫌悪から黙り込んでうつむいた。

 そんな壹与の顔を、男鹿は心配そうに見つめていた。


「体調でも……?」


「私にはいつがいいのかわからないから、あなたが決めてって言ってるの!」


 男鹿の気遣いに、腹の底からわき上がった恥ずかしさと苛立ちを抑えられず、壹与は目を逸らしたまま思わず大きな声を上げた。

 男鹿は驚いた表情で言葉を失っていたが、しばらくして頭を深く下げた。


「わかりました。後ほど日取りが決まりましたら、報告させていただきに参ります」




 男鹿が去ってから、壹与は目に涙を溜めて膝に置いた拳を堅く握りしめた。

 どうして男鹿にこんな態度を取ってしまうのか、自分でもわからなかった。

 神に背いてでもこの国を護ろうと決めたあの日、同士として寄り添い合っていたはずの二人の心が、今は遠くに感じられた。

 どんどん前に進んでいく男鹿に対して、霊能力を失い飾り物の大王に成り下がった自分がひどく無意味なものに見えて仕方なかったのだ。

 そんな壹与の様子を、戸口の陰で張政が黙って見守っていた。



 数日後、張政が壹与のもとを訪れた。


「卑弥呼様の墓の工事の進行具合を、見に行かれませぬか」


 思いがけない提案に壹与は一瞬戸惑ったが、大掛かりな事業がどのような状態で行われているのか彼女も興味があった。

 また、大王になってから気軽に宮殿の外に出ることもできなくなり、久々に町の様子を見たいとの思いもあって、彼女は張政に同行することにしたのだった。



 壹与が墓の築造現場を訪れると、大勢の男達が木を切り倒して更地を造成していた。

 張政の説明では、斧を使って樹木の幹の半分ほどまで切れ込みを入れ、その後、縄を掛けて大勢で反対方向に引き倒すのだという。

 そうして更地にした地面の上に土を盛っていくのだ。

 逞しい体つきをした男達は互いに声をかけ合いながら、縄を引いたり切り出された丸太を運んだりして皆精力的に動いていた。

 既に更地化した土地の広大さと、働く男達の圧倒的な数に、壹与は自分達が行おうとしている事業の大きさを改めて実感し、身震いを覚えた。


 ふと、遠くに役夫えきふと話す男鹿の姿が見えた。

 彼は大木に片手で触れ、もう一方の手で前方を指差して何か話していた。


「今男鹿は、あの木をどの方向に倒せばよいか、あの男に指示を出しているのです。闇雲に倒すと他の者達に危険が及びますのでな」


 張政の説明を聞きながら、壹与は自分と向かい合う時とは異なる男鹿の表情に目を奪われていた。

 いつも自分に対しては、穏やかで優しい表情の彼が、ここでは厳しく妥協を許さない視線を役夫に向けていた。

 少年の別の顔を見て、壹与の心臓は小さく胸を打った。


「おい! 手を貸してくれ!」


 にわかに現場がざわめき、男達が作業の手を停めて一方向に集まり始めた。


「下敷きになった奴がいるぞ!」


 吸い寄せられるように、壹与も張政と共に遠巻きに人だかりに近付いて行った。


「おい、道を開けよ」


 張政が男達をかき分けて前に進み、その後を壹与も追った。

 場違いな少女の姿に驚く者もあったが、殆どの者の視線は輪の中心に向けられていた。


「なぜ、勝手に倒した!」


 人だかりの中心では、倒れた大木の傍らに片膝を立てて腰を下ろした男鹿が、数人の男達に向かって声を荒げていた。

 大木の下には人の手が見え、その周りには血だまりができていた。どうやら指示を待たず伐採した木が、人を下敷きにしたようだった。

 数人の男達が大木を持ち上げて移動させると、そこには血だらけで仰向けに倒れる男の姿があった。

 男の額は肉が裂け、どくどくと血が溢れ出していた。

 その様子から、一目見ただけで誰もが命が助かりそうにないことを悟った。


「おい! しっかりしろ!」


 それでも男鹿は男の耳元に顔を寄せ、必死に声をかけ続けた。

 男は血まみれの顔を苦し気に歪め、絞り出すような声で訴えていた。


「……死にたくねえ……」


 そのあまりに悲惨な様子に陰で震えていた壹与は、男の言葉を耳にした瞬間、無意識に張政を押しのけて前に進み出ていた。

 彼女は男鹿の隣に腰を下ろすと、土と血で汚れた男の手を両手でそっと包み込んだ。周りの男達は突然現れた美しい少女に驚き、目を見張った。


「……壹与様……?」


 男鹿もこの場に壹与がいる状況が理解できず、目を丸くして少女の横顔を見つめていた。


(この男の心が救われますように……)


 壹与は男の手を握りしめ、目を閉じて一心に祈りを捧げた。

 ただこの男の苦しみを少しでも軽くしてやりたかった。

 しばらくはその姿を見守っていた男鹿も、思い直して男の耳元へ再び声をかけた。


「おい、このお方は女大王ひめのおおきみ壹与様だ。大王がお前のために祈りを捧げてくださっているのだぞ」


 男鹿の言葉に周りの男達はざわめいた。

 こんな所に女王が現れるとは誰も想像していなかったのだ。

 間近で壹与の姿を見たことが無い男達は、このまだあどけない少女が女大王だとはにわかには信じられない様子だった。

 そんな中、瀕死の男はうっすらと目を開けて少女の顔を見つめた。

 手に力を込め、穏やかに微笑みながら、壹与は男に何度もうなずいて見せた。

 そんな少女の顔を見て、男の表情から死への恐怖が徐々に消えていった。


「……ありがてえ……」


 男は微笑みを浮かべて息を引き取った。

 それを見届けると、壹与は再びまぶたを閉じて男の魂に祈りを捧げ始めた。

 するとそれに呼応するように、その場にいる者達も皆、誰からともなく手を合わせてひざまずき、静かな時間が流れ始めた。


 いつしか他の者達と同じく、無意識のうちに手を合わせていた男鹿は、その後の光景を目にして驚いた。

 これまでも同様の事故はあった。

 通常であれば、そのたびに役夫達は明日は我が身ではないかと恐れ、しばらく動揺が続いて作業に遅れが生じるのだ。

 ところが今回彼らは男の死を静かに受け止め、ひとしきり祈りを捧げると、それぞれの持ち場に戻り、再び黙々と作業を始めた。

 そんな男達の表情は一様に落ち着き、仕事へ対する意欲が感じられた。

 もしもの時も、神の血をひく巫女が祈りを捧げ、自分達の魂を救ってくれるという思いが、彼らの心を穏やかにさせたのだ。

 男鹿はこの時初めて、霊能力とは異なる壹与の持つ不思議な力を目の当たりにしたのだった。




「壹与様、今日はありがとうございました。私ではあの者の心は救ってやれませんでした」


 張政と共に現場を去る壹与に向かい、男鹿は深く頭を下げた。

 壹与はそんな男鹿を見つめながら、霧が晴れるように素直になっていく自分の心を感じていた。


「私にもできることが残されていたのね」


 壹与は祈ることで救えるものがあることを知り、自分の役割を見つけた気がしていた。

 神の声が聞こえないとしても、祈りを捧げることならできるはずだと思えたのだ。


「御田植祭も、心を込めて豊作を祈らせてもらうわ。民達のために」


 久しぶりに見る穏やかな壹与の表情に、男鹿はほっと息をついた。


「男鹿、ありがとう。こんな大変な仕事を引き受けてくれて」


 壹与は今日仕事をする男鹿の姿を見て、彼が単なる好奇心だけで学問に夢中になっているのではないことにも気が付いていた。

 安全に工事を進めるために不可欠な知識だからこそ、彼は必死にものにしようとしているのだ。

 同様に豊作によって民の幸せを導くため、天災から人々を守るため、あらゆる知識を得ようとしているのだと。

 そして、それらを習得することによって、彼が大王である自分の立場を守ろうとしてくれていることも。


 思いがけない女王からの感謝の言葉に赤くなって黙り込んでしまった少年を、彼女は心から愛しいと思った。

 月読への想いでいっぱいだったはずの心は、いつしか男鹿への想いで埋め尽くされていた。

 それに気付かず、自信の無さや焦りが彼への苛立ちとなって自分自身を苦しめていたのだ。

 しかし二度目の恋は、気付いてしまえばその想いはより鮮明だった。


「近々、この工事の安全と成功を祈願して祭事を行ってもいいかしら。私には祈ることしかできないから」


「ぜひとも。みな喜びます」


 男鹿にしては珍しく、少年らしい弾んだ声で答えた。

 単純に壹与の穏やかな表情を見ることができて嬉しかった。

 幼い頃から少女の泣き顔ばかり見てきていたが、微笑みながらはにかむ彼女の姿に、彼はこれまでになかった感情を抱き始めていた。

 これからは泣き顔を黙って見守るのではなく、この穏やかな笑顔がいつまでも続くために、自分にできることを探していこうと思ったのだ。






 その夜、寝所で魏の書物を読む男鹿を、張政が訪ねて来た。


「相変わらず熱心じゃのう」


 男鹿は照れ笑いしながら書物を閉じ、異国の老人と向かい合った。

 松明の灯りが、ゆらゆらと揺れながら二人の顔を紅緋色に照らし出していた。

 張政は深刻気な表情をして、しばらく黙り込んでいた。

 ただならぬ様子に、男鹿も緊張気味に座り直し、姿勢を正した。


「……壹与様じゃがな……」


 言いかけて再び張政は口をつぐんだ。

 壹与の名が出て、男鹿は少し身を乗り出した。


「……おぬしを愛しておられる」


 男鹿は目を見開き、一瞬言葉を失ったが、ふっと息をつくと苦笑して首を振った。


「……まさか」


 壹与の月読への一途な想いは、誰よりも知っているつもりだった。

 月読のために流す涙を、幾度となくこの目で見守ってきたのだ。

 その想いに、何人たりとも踏み入る余地はなかったはずだ。


「こうなることも予想できた上で、おぬしを壹与様のそばにおいたのじゃが……」


 張政はあご髭に触れながら苦渋に満ちた表情を見せた。

 その様子を見ている内に、男鹿の中でまさかという思いがもしかしてという疑念に変わり、徐々に胸が大きく波打ち始めた。


「おぬしが勝手に想いを寄せるだけであれば、問題なかったが……」


 そう言って一旦伏せた目を見開き、張政は鋭い視線を男鹿に向けた。


「わかっておるな。あの方は巫女であり大王じゃ。愛し合っても一緒にはなれぬ」


 男鹿は思わず肩を落としてうつむいた。

 これまでは壹与の心が月読のものだと思うからこそ、涙を流す壹与に胸も貸せたが、それが自分に向けられていると思うと冷静でいられる自信がなかった。

 普通であれば長年の想いが報われて嬉しいはずであるのに、男鹿にとっては苦しみの始まりとなってしまったのだ。

 堅く目を閉じ、膝で衣を握りしめる手が震えた。

 そんな少年の姿を見て、張政は念を押すように言った。


「わかったな。あの方のお気持ちを、決して受け入れるな」




 張政が去ったあと、男鹿は仰向けに倒れ、しばらく暗い天井を見上げていた。

 やがてきつく目を閉じた彼は、目元を手の甲で覆った。

 今日ようやく、あの笑顔を守っていこうと心に決めたばかりであったのに、明日からどんな顔をして壹与に会えばいいのかさえわからなくなっていた。





 御田植祭を明日に控えた夕暮れ時、壹与と男鹿は祈祷の間で儀式の段取りを確認し合っていた。

 目を合わせることも、笑顔を見せることも無く、淡々と行程を説明する男鹿に違和感を持ちながらも、大切な行事を滞り無く行うために、壹与は真剣に耳を傾けていた。


「では、明日、よろしくお願い致します」


「……待って」


 用件が済むと早々に腰を上げ、戸口へ向かおうとする男鹿を壹与が呼び止めた。

 最近一層墓の築造現場で過ごす時間が増え、顔を合わせることさえ殆どなくなった彼と、この機会にもう少し一緒にいたいと思ったのだ。


「明日は……日和はどうかしら」


「そうですね……」


 男鹿は背を向けたまま回廊の端まで歩みを進め、西の空を見上げた。

 そこには雲ひとつない、見事な茜色の夕焼けが広がっていた。


「明日は晴れそうですね」


 あとを追うように回廊に出て来た壹与も、彼の隣で欄干に手をかけ、燃えるような空を仰いだ。


「風も東に向かっています。きっといい天気になりますよ」


 男鹿は夕餉ゆうげ支度で立ち昇る町の煙を指差し、夕日色に染まる横顔でそう言った。

 空の色や風の向きから天気を読む男鹿の様子に、壹与は目を輝かせた。


「私も魏の学問を学ぼうかしら。少しずつでいいから教えてくれる?」


 はにかみながらそう言う壹与の顔を、男鹿は一瞬だけ見たが、すぐに夕空に視線を戻した。


「そういうことは張政様に。私は工事に立ち合わねばなりませんので」


 壹与にとっては意外な返答だった。

 今までの男鹿であれば壹与の要望に対し、「喜んで」と優しく笑って無理にでも時間を作ってくれていたはずだった。

 考えてみても、彼の態度が変わった理由に心当たりはなかった。

 少年の心を見失った不安から、欄干を握る手に力が入った。


「……ねえ、男鹿」


 足元に広がる邪馬台の町に目をやりながら、壹与はつぶやくように語りかけた。


「私……。あなたが好き」


 潤んだ瞳が少年の顔を見上げたが、彼はうつむいて目を閉じ、決して少女の方を見ようとはしなかった。

 そしてそのまま、無言の時間がしばらく過ぎた。



「私は、幼い頃からずっとあなた様をお慕いしておりました。あなた様が知らないずっと昔から……」


 うつむいたまま、絞り出すように男鹿は語り始めた。

 壹与は少年の自分へ対する積年の想いを初めて知り、腹の底から込み上げるうずくような幸福感に酔った。


「しかし、あなた様は違う。ずっと月読様だけを見てらした」


 壹与もそれは否定できなかった。

 幼いなりに、月読へ対する思いも彼女にとっては真剣だった。


「あなた様は月読様のいらっしゃらない寂しさを、私で埋めようとされているだけなのですよ」


 男鹿はこの日初めて壹与と向き合うと、切な気に笑って見せた。


「……違う。月読への思いと、あなたへのそれとは全然違う」


 男鹿を見つめ、小さく首を左右に振る壹与の瞳から涙がこぼれ落ちた。

 大好きな兄を誰のものにもしたくないという、妹の独占欲のような恋だった月読への思いと違い、男鹿への思いは心も体ももっと近付き、分かり合いたいというものだった。

 壹与は、男鹿の胸元の衣を掴み、額を彼の胸に押し当てた。


「おたわむれはおやめください」


 壹与の手を引き離しながら男鹿は顔を逸らし、唇を噛み締めた。

 痛いほど伝わってくる壹与の想いに、少年の心は今にもくじけそうだった。

 このまま目の前の少女を強く抱きしめたいという衝動が彼の中で暴れ、細い手首を掴む手が震えた。


「月読様が大王になられ、あなた様が巫女である必要がなくなった時、あなた方なら夫婦にもなれるでしょう。しかし、私のような身分の卑しい者が、あなた様と共に歩むことは今生ではあり得ないのです」


 男鹿はそう言って少女の手首から静かに手を離すと、背を向けて回廊を急ぎ足で歩き始めた。

 背後で壹与が泣き崩れる様子が感じられた。

 その笑顔を守りたいと思っていたのに、結局泣かせることしかできなかった。

 そんな悔しさと切なさが胸の中で渦巻き、彼の瞳を濡らしていた。






 翌日、御田植祭に姿を現した壹与は、これまでになく美しく見えた。

 額に巻いた白い帯に青々とした苗を挿し、まぶたに赤い筋を引いた姿は、近寄りがたいほど美しかった。

 男鹿の予想通り快晴となった空のもと、豊作を祈り、神へ奉納するため舞う少女の姿を、少年は少し離れた場所から夢の情景のように感じながら見ていた。

 水田風景を背に純白の衣装を身に着け、蝶のように軽やかに舞う女王の姿を見ていると、昨日、彼女が自分のために涙を流したことも、夢であったのではないかと思われた。

 卑弥呼の死後、月読が女王を偽っている間中断されていた公の場での巫女の舞に民は喜び、祭りの後の田植え作業にも皆精を出した。

 そんな様子を目の当たりにすると、神の血をひく者の持つ不思議な力を改めて感じ、自分には手の届かない存在であると思わずにはいられなかった。

 それゆえに尚更、近くにいることで、いつか手が届くのではないかと錯覚していた自分の愚かさを思い知ったのだった。





 数日後の夜、国をあげての田植えが無事終わり、そのねぎらいと豊作を祈るための宴が催された。

 広場で火を囲み、老若男女が思い思いに舞踊る姿を、壹与と男鹿は神殿の回廊から見下ろしていた。

 宴が始まり、随分時間が経っていたが、二人の間に会話はなかった。


「あなたと私が共に歩むことはあり得ないと言ったわね」


 視線を広場に向けたまま、不意に壹与が沈黙を破った。

 男鹿は言葉が出ないまま、女王の横顔を見つめた。

 無表情に踊りの輪を見つめる彼女の瞳は、松明たいまつの灯りに照らされて琥珀こはくのように透き通り、美しかった。


「でも、この国を治めるための同士としてなら、共に歩めるはずよね」


 男鹿は、その言葉に思わずこぼれそうになった涙を抑えるため、星空を見上げた。

 男と女として共に歩めないなら、同士として生きる道を壹与は選んだのだ。

 彼女は今後女としての感情を封印して、男鹿と生きていくつもりなのだ。

 自分より幼く、こんなにか細い少女が悲しい決意を表しているのに、自分が逃げて応えない訳にはいかなかった。


「はい。この命のある限り、共に参ります」


 その言葉を聞いて、壹与は目を閉じてはかな気に微笑んだ。

 そんな顔を見て、男鹿も広場に視線を移し、穏やかな表情を浮かべた。

 言葉も無く心を寄せ合う二人とは対照的に、祭りはますます盛り上がりを見せ、騒がしく華やかに、夜は更けていった。

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