紅き眼と追憶の獣

南かりょう

PROLOGUE:〈紅い眼の、人でなし〉

 目の前には、ドブネズミの死骸があった。

 腐乱した肉からは蛆が湧き始め、皮膚がグズグズに食い破れている。

 鼻を突く異臭。腐乱臭。

 ――私も、やがてこうなる。

 物置小屋で横たわる少女は、未来の自分の姿をただただ凝視した。

 泥で汚れ、所々が解れているワンピース。砂埃でくすんだブロンドの髪。すべて、輝きを失っている。

 つい十日前まで少女は、暖かい部屋の中で自分の好きな本を読み、好きな服を着て、おいしい料理に舌鼓をし、何不自由のない生活を送っていた。

 しかし会食の帰りに、見知らぬ男たちに襲われ、全てが一変した。

 隙間風が吹く小屋に放り込まれ、腐りかけの果実と味のないパンで飢えを抑えつけられた。

 男たちに帰りたいと叫んでも、こちらの意志が通ることは一度もない。

 ふと、少女は父から聞かされた話を思い出した。

 男たちの正体。

 自分と同じような姿をしているが、ここにいる彼らは人ではない。

 ドブネズミだ。

 汚らわしく、卑しく、醜い生き物。

 自分とは異なる生き物だから、こちらの言葉が通じない。

 このままドブネズミに殺されてしまうのだろう。

 不慣れな環境に、体と心が疲弊していく。

 唯一少女の心を支えていたのは、亡き母が聞かせてくれたお伽噺だけだった。

 昔々の物語、悪者に捕らえられたお姫様を、勇敢な騎士が助けに来てくれる。それを自分と重ねて、心の奥底に小さな希望を抱かせていた。

 きっと、この堅く閉ざされた扉を騎士がこじ開けてくれる。

 少女の願いを、神様が聞き入れたのだろうか。

 扉は、開いた。

「……!」

 だが、そこに少女の望む騎士の姿はない。

 六匹のドブネズミだ。

「連れていくぞ。あいつらが時間稼ぎをしてる間に、別の場所に移すんだ」

 リーダー格のドブネズミが命令を下す。すると、一匹のドブネズミが少女の手を引っ張り上げた。

「……いやぁ!」

 わずかな力を振り絞り、腕を掴んできたドブネズミに抵抗する。

「っ! 暴れるんじゃねぇ!」

 掴まれた手が離れる。

 抵抗に効果があったかと思った瞬間、少女の右頬に衝撃が走った。

「おい、何をしてる!? エルスラの妹から、手荒なことは控えるように言われたはずだぞ!?」

「うっせぇ! あのクソ獣人のいうことなんざ聞けるかってんだよ! こんなガキ、さっさとぶっ殺して、クソ貴族の家の前に捨てちまえばいいじゃねぇか!」

「子供に罪はない! 本当だったら、こんな子供を取引材料なんかにすることさえ忌避すべきことなんだぞ!?」

「あぁ!? オレの妹は、ガキだろうが関係なく殺されてんだよ!! クソ貴族の兵士に足首を切り落とされて、弄ばれたあげく、スラム街のゴミ溜めに……! まだ10才になったばかりだってのによ……っ!」

 声が遠くに聞こえる。

 少女は酷く痛む頬を押さえた。すると、彼女の口元からポタリと赤い滴が垂れる。

 他人に傷つけられるなんて初めての経験だった。

 理不尽な痛み。理不尽な暴力。理不尽な待遇。

 何も悪いことなんてしていない。父に反抗なんてしたことがないし、教育係の課題はいつも完璧に果たしてきた。恥じることのない人生のはずだった。

 なのに、なのになのに。なぜ、このような見知らぬ男に、ぶたれなければならないのか。

 涙をボロボロと流しながら、少女はドブネズミを睨みつける。

 ――こんな醜いドブネズミなんて、死んでしまえばいい。

 生を受けてから少女は、初めて人を憎んだ。

「すまなかった。大丈夫かい?」

 リーダー格のドブネズミが手を差し伸べる。

 だが、少女はその手に縋ろうとはせず、力なくその場に座り込む。

「っ!! ちんたらしてんじゃねぇぞ!」

「乱暴はよせ! おまえの気持ちも分かる! だが、ここで殺してしまったら、すべてが台無しになる!」

「チッ……! 何度このガキの首を絞め殺してやろうと思ったか……! おら、行くぞ! 殴られたくなきゃ、走れ!」

 少女は己の足で立ち、ドブネズミに手を引かれて、物置小屋から外に出る。

 久しぶりの外の風景に少女は、軽くめまいがした。

 今は、二つの月さえも顔を沈ませた夜。あたりは濃密な夜霧に包まれていた。

 自分が監禁されていたのは、どこかの家の敷地だったようだ。周囲は石造りの塀に囲まれ、物置小屋の隣には、小さく古びた一軒家が建っている。

 素足で土を踏む感触が、新鮮に感じた。いつのまにか、靴を落としてしまっている。

「さっさと行くぞ! 兵士どもが来る!」

 辿々しい足取りで、ドブネズミの走りについて行く。

 だが長時間閉じこめられた少女の肉体は、走ることさえままならずに何度も転倒した。

 街の道に出ると、地面は柔らかい土から、煉瓦の敷き詰められた道に変わっている。

 道は、少女を受け止めるには固すぎた。膝を擦りむき、鼻を地面に強打する。

「ぁ……うぁ……」

 鼻孔から、今まで経験したことのないほどの血が流れる。

「チッ!」

 ドブネズミが痺れを切らして、少女を担ぎ上げようとした瞬間。

 深い霧の奥で、犬が吠えた。

 その遠吠えが合図だったかのように、剣呑な空気が周囲に漂う。

「……っ!?」

 ドブネズミたちは、同じ方向に顔を向けた。

 正面、霧に閉ざされた闇の奥から、乾いた足音が聞こえてくる。

 仄暗い水の底から浮かび上がるように、一人の少年が姿を現す。

 少女と同い年くらいの、少年だった。

 黒に染まった髪に、快晴の空のように澄み切った綺麗な碧い瞳。細い身でありながらも、何度も打ち込まれて鍛えられた剣のような風格。

 彼は、まるで――ひと振りの剣のようだった。

「その子を放せ」

 少年は、少女を指さして言い放つ。

 だがドブネズミたちは、各々が剣を引き抜くことで拒絶の意志を示した。

「……なるほどね。じゃあ、ボクも本気でやるよ」

 ドブネズミの挙動を観察していた少年は、一つのアクションを起こした。

 自分の掌を切る。当然のように少年の掌から赤い血が滴り、煉瓦に赤い花を咲かせた。

 少年の奇行は続く。

 滴り落ちる血を、少年は目薬を差すように点眼した。

「――――――」

 苦悶の声を漏らし、身を縮こまらせる少年。

 ドブネズミたちが少年の不可解な行動に戸惑った――が、それは狼狽へと変わった。

 少年の体に変化が起きている。

 純粋な黒色だった髪が、まるで燃え尽きるように白色に染まった。

「こいつ、まさか……!」

 ドブネズミの一匹が驚きの声を上げる。

 少年の掌から落ちる血が止まった。

 真っ白に塗り変わった髪を掻き上げ、少年は閉じられていた双眸を開く。

 宝玉のような碧い瞳が、鮮血のような紅い瞳へと変貌していた。

「染血の瞳(ブラッドアイ)! ロード家だと!?」

「武貴族序列最高位の、あの化け物一族……!」

「クソ貴族め、死神を寄越して来やがった!! 始めから、オレたちを殺すつもりだったのかよ!!」

 畏怖の象徴の名を上げるドブネズミたち。

 唯一、少女だけは少年の驚異を明確に感じ取ることは出来なかった。

 ただ、ロードという名は聞いたことがある。

 ――その名を冠する者に敗北はない。

 少年が鞘から剣を解き放つ。

 その剣は、まるで彼自身の生き様を映す鏡のように、逞しく、そして美しく見えた。

「安心してよ、痛みは感じさせない」

 告げると同時、少年が地を蹴る。

 そこから少女が認識できた光景は、結果だけだった。

 先頭に立つ男の首が飛んだ。

 続けざまにもう一人の首が刈られる。

 それは、一方的な虐殺だった。

 つい先ほどまで息をし、瞬きをし、言葉を発していたドブネズミが、まるで刈り取られる雑草のように、あっさりと亡骸と化す。

 少年にとって、五人の男を殺すことなど、庭の掃除と大差がなかった。

「おっと……そう来るか」

 少年の動きが止まる。

「動くな!! それ以上、動いたらこの子供を殺す!」

 少女は、自分の身に起きたことを遅れて気づいた。

 リーダー格のドブネズミが少女の背後に回り、細い首に刃を押しつけている。

 肌が軽く刃に裂かれ、小さな血の球が膨れ出てきた。

「ひっ……」

 自分の置かれた状況を理解し、少女は短い悲鳴を上げる。

「無駄なことを……」

 少女を盾にしているのにも関わらず、少年の反応には余裕があった。

「剣を遠くに捨てろ!」

 ドブネズミが要求すると、少年は何の躊躇いもなく、血に染まった剣を放り捨てる。

「それで、次は何をすればいいの?」

 不利な状況に陥りながらも少年の様子に変化はない。

 ドブネズミが少女の背を押しながら、少年との間合いを詰め――次の瞬間、少女を突き飛ばして、少年に斬りかかった。

「悪いが、死んでもらう!」

 ドブネズミの長剣が少年の頭部を捉え、振り下ろされる。

 斬撃が少年の頭部を叩き割る――そのはずだった。

「――え?」

 甲高い音がした。

「残念。その程度の力じゃあ、ボクに傷一つ付けられないよ」

 刃は確かに少年の頭部に当たっているが、白髪は血に染まっていない。

 まるで岩に剣を叩き込んだように、刃は止まっていたのだ。

 そんな異様な光景を目の当たりにして、少女は断片的にロード家の噂を思い出した。

 武貴族――武勲で地位を確執する蛮族上がりの貴族――の頂に、ロード家は位置する。

 人の姿をしながら人とは大きく異なる化け物。彼らが化け物呼ばわりされる理由の一つとして、皮膚が竜の鱗と同等の硬度を持っていることだった。

「なっ……!?」

 ドブネズミは思わず長剣を落とし、腰を抜かした。

 少年は長剣を拾い上げ、切っ先を向ける。

「こ、殺さないでくれ……」

 全身を小刻みに振るわせ、ドブネズミが声を絞り出す。

「ボクを殺そうとしてたくせに、自分は殺さないでくれって? それっておかしいと思うけど」

「わっ、悪かった!! 本当に、すまなかった! お願いだ!! 命だけは……命だけはどうか……!」

「そういうのさ……みっともないよ」

 風が断つ音がして、鮮血が飛び散る。

 少女の前に『何か』が転がってきた。

 その『何か』と目が合ってしまった。

 ドブネズミの首。

 目尻から涙を流し、顔は悲痛で染まっている。

 ドブネズミが死んだ。

 憎き相手が殺されたというのに、少女の心中には清涼感は生まれてこない。

 ただただ、漠然と。悲しみの表情で亡くなったリーダー格の男の顔を見つめた。

 自分の口元から流れる血と、彼の首の切断面から流れる血。自分の目尻から落ちる涙と、彼が流した涙。

 それらは、自分と何も変わらない――同じものだった。

 少女が気づいた途端、麻痺した心に血が通う。

 目の前に広がる無惨な光景に、吐き気がせり上がった。

 口元を押さえるが、それは徒労で終わる。

 地面に広がる血溜まりと、胃酸まみれの吐瀉物が混じり合う。

「君、大丈夫?」

 少年に手を添えられ――

「いやぁ!」

 少女は手を払いのけた。

 まさか拒絶されるとは思っていなかったのか、少年は眼を丸めている。

「近寄らないで……!」

 涙で膜が張った目で、少年を見つめた。

 一目見たときから、少年には人間らしさが欠如している。

 言葉は無機質で。

 表情は作り物のようで。

 仕草は人の真似事のようで。

 ――人間じゃない。

 人によく似た化け物だ。

「人殺し!」

 少年は怒るどころか、眉一つさえ動かさない。

「そうだ。ボクは人殺しだ」

 淡々と少年は言い放つ。

「でも、これは君のお父さんから頼まれたことなんだ」

 そう言い、彼は斬り落とした生首を一つ掴み上げる。

「娘を誘拐した奴らを皆殺しにしろってさ」

 嫌がらせをするように、生首を突き出してきた。

 生首の大きく顎が開き、舌が延びる。粘性のある唾液と鮮血が細い柱を作り、地面に流れ落ちていた。

「ひっ!」

 目を強く瞑り、咄嗟に情報を遮断するも、少女の網膜には生首の表情が焼き付いてしまった。

「しっかりと見なよ。こんな風にしたのは、ボクじゃなくて君のお父さんだ」

「違います……。お父様は、こんなこと……」

「何も違わない。君のお父さんも人殺しだよ」

 少女は否定の言葉を口にするも、少年には届かなかった。

 胸が圧迫されるように呼吸が不自由になる。

 疲労がついにピークに達し、少女は過呼吸を起こしてしまった。

 意識が朦朧とする中、少年に焦点を合わせる。

 絶対的な力を持つ化け物。

 人の命を軽々しく狩り取る、この少年の方こそ人と呼ぶにふさわしくない。

 彼は――

「人でなし」

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