立ち去る背中が見ていたもの

 美月は、ふと夜空を見上げた。周囲は未だ暗闇に支配されつつも、たくさんの星が瞬いている。いつの間にか、頬に涙が流れていた。


「……ねえ、思い出さない?あの日も、ちょうどこのくらいの時間で、海が目の前で」


 陽も空を見上げた。三人が出会ったあの日。まるで、昨日のことのように思い出す。


「ああ……。あの日もたしか、星がきれいだったな。美月は、俺たちのことを警戒していたよな」


「当たり前だよ。急に男の人たちに声を掛けられたんだよ。本当に驚いた」


 大郷は、二人がいつの話をしているのか理解したようだった。


「驚いたのはこっちだよ。あの日は、気分転換でもしようかと、たまたま散歩に出たんだ。そうしたら、美月があんなところに立っていて……。俺は助けるだけのつもりだったんだけど、上総がね、あの人を組織に入れるって言い出して」


 一滴、また一滴と静かに涙が流れる。あの日にはもう戻れない。上総はもういない。もう逢えない。声すら聴くことも出来ない。


「……これで陽までいなくなったら、私はなにを支えにして生きていけばいいの。あの日があったから今の私がいる。大郷、あなたもそう。あなたがいつも助けてくれていたから、私はここまで来ることが出来た。二人とも、私にとって必要な存在なんだよ。……もう、ひとりにはなりたくないよ」


 その言葉に、大郷は拳銃を降ろした。


「死ぬより辛いことはないって言ってたよね。本当にそう。だって、残された方もこんなに辛いもの。佐伯も和泉も上総も、皆私の知らないところで知らないうちにいなくなってしまった」


「……これから、どうすればいいんですか。私にはなにもないんです。いったい、なにに向かって進んで行けばいいのか」


「それは、自分自身で見つけなさい。ここを辞めても構わない。まずは、大郷が今決めたことが最初の一歩になる」


 うな垂れる大郷を、美月はじっと見つめていた。その眼はすでに、第三部隊隊長の眼差しに変わっている。そして、次に陽へ視線を移した。


「陽、私は組織に残るけど、残る以上このまま戦い続ける。次に会うときは、お互い敵として戦う覚悟」


「それ、前にあいつにも似たようなこと言われたな。お互い敵ってことか、わかった。俺は一切容赦しないからな」


 陽の顔には、いつもの優しい笑みが浮かんでいた。


「おい、お前はこの上官をひとりにさせておくのか」


 大郷はしばし黙っていたが、決意したのか背筋を伸ばし口を開く。


「いえ、私のこの命尽きるまで、桐谷三佐に尽くす所存です。あなたが容赦しないと言うならば、私も容赦いたしません。全力で倒しにかかります」


「……それでいい」


 そして、陽は深く息を吐いて、背中を向けて歩き出した。


「ありがとう」


 その一言で、美月はすべてを理解した。説明なんていらない、とにかく様々な想いが詰まっている。


「こちらこそ……」


 もう、彼女とは会うこともないだろうな。結局想いを伝えることは叶わなかったが、いい別れだったと……。


「あ、陽!ひとつだけ聞いてもいいかな。本来なら存在することのなかった第三部隊に、小隊長として佐伯が入ったのはさ……」


 その問いに、陽の顔が歪む。なんだって……?まさか、そんなことを聞かれるとは。どうして今なんだ。


「嘘だろ……」


 これだけは、なんとしても口に出さないと決めていた。佐伯にすら話していない。自分の独断でやってしまったこと。真実を話すべきか。陽は、覚悟を決め兼ねていた。


「陽、なにか知ってる?」


 最短ルートで新部隊を作らせるためには、いくつか障害があった。それらを取り除くために、邪魔な存在を消す必要があった。


「……第三部隊が発足したから入ったんじゃない。佐伯を入れるために、第三部隊を発足させたんだ。恩田の動向を見ていればわかる。条件が合えば、必ず久瀬将官の下に新しく作ると」


 そうなんだ。条件に合った人物が見つかったんだ。海を見つめながら、ひとり座り込んでいた見ず知らずの女性。かつての上総の同僚であり、上総の部下を殺した瀬野という男に、突如両親を奪われた可哀想な女性。


 喉まで出かかっている。言うべきか、言わなければいけないのか。最後の最後に、彼女を哀しませてしまっていいのか。


 呼吸が荒くなる。鼓動が荒くなる。話せば楽になるのか?いや、違う。これだけは、絶対に隠しておきたい。


「陽……?」


「その、すべてを……」


 俺が、仕組んだ。


 今にも折れそうなほどに歯を食いしばり、爪が食い込むほどに握った拳に力が入る。


 無理だ、言えないよ。だって俺のせいなんだから。美月の人生を大きく狂わせてしまったのは、紛れもなく俺自身なんだから。


 なんとしても、佐伯を小隊長としてどこかの部隊に潜入させたかった。だが、当時はどの部隊も人数が埋まっており、入れたとしても下っ端も下っ端。


 そこで目を付けたのが、以前から組織の隣にある港に訪れていた女性。少なからず、上総もその存在を目にしている。

 内務調査の結果、彼女の両親は組織の取引先の社員であることが判明した。それからすぐにシナリオを立て、即実行に移した。


 上総の恨みを買え。恩田が目を付けている取引先の社員を殺せ。それだけでいい。そうすれば、少し時間はかかるが必ず本部は崩壊する。

 これは、上総に対して憎しみや嫉妬を感じている人間じゃないと成立しない。だから、正体を隠して瀬野に接触し、"恩田に殺しを提案しろ"、そう助言した。


 はじめから知っていたんだ。美月と出逢ったのは偶然でもなんでもない。すべて、自分が作り出した必然。


 自分のせいで両親を失い哀しみに満ちている彼女に、俺はなんて言った?「とにかく生きるんだ」などと、なんて愚かなことを……。


「……そのすべてを、政府は知っていたみたいで。俺は後から聞いたんだけど、ちょっと詳しくはわからない」


 言えるわけがない。美月を哀しませたくない。それ以上に、美月に嫌われたくない。美月を想うこの気持ちに嘘はないから。私利私欲が勝ってしまうなんて、俺は諜報員失格だ。


「そっか、わかった。ありがとうね」


 そして、美月と大郷も歩き出した。辺りには再び静寂が戻り、波の音だけが響き渡る。

 これで終わったのだろうか。この先、自分たちはどうなるのだろうか。いや、今考えても仕方がない。どうなろうとやるしかない。まだ仲間はいるんだ。


「……ん」


 ふと、大郷が後ろを振り向いた。


「どうかした?」


 冷たい空気。打ち寄せる波の音。足下は砂浜。視界は暗闇に支配され、現状得ることの出来る情報は極わずか。


「いえ、なにかが落ちたような、ような音がしまして」


 美月らの目線の先に、先ほどまで存在していた姿は見当たらない。だけれども、それはまだ近くに存在する。その高さではない、もっと低い所に。


 砂を握り締める雑音は波音に掻き消され、この想いと共に届くことはないだろう。


 "さよなら"


 声なき声が、そう唱えたような。その儚き想いは、波音と共に遥か彼方へ。


「……気のせいですね」

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