地に足をつけて

 美月は五十二階の休憩室に移動した。海が見渡せる椅子に腰掛け、藤堂と結城の言葉を思い返していた。


 今まで、上総とはかなり近い位置にいたがそれはとんでもないことで、上総の仕事は自分や陽が行うものとはまったく違う。

 組織の隊員たちは、皆が皆本当の仲間ではないのかもしれない。むしろ、裏がある人間の方が多いのかもしれない。もしかしたら、上総や陽だって。あまり深く考えていなかった。仕事のこと、組織のこと、周りの人間のこと。


 いつまでも新人気分ではいられない。自分も内心を見透かされないようにしなくては。ここでは、仕事の技量の他に高いコミュニケーション能力が試される。時には、どんなに親しい相手だって疑って騙さないといけない。高度な頭脳戦だ。自分の身は自分で護れということか。


「桐谷さん」


 背後から穏やかな声色が響いた。美月の呼吸が止まる。ゆっくりと振り返ると、そこには微かな笑みを浮かべた久瀬の姿があった。いつからそこにいた……?まるで気配を感じなかった。一瞬思考が止まったが、思い出したように久瀬へ敬礼を掲げる。


「将官、なにかご用でしょうか」


 久瀬の笑っていない眼から刺さる冷ややかな視線が痛い。


「君は今朝、なにか見ましたか?」


「なにか、と申しますと」


「……いや、いいんです。気にしないでください」


 久瀬は軽く微笑むと、すぐにこの場を後にした。


「久瀬将官、あの……」


 美月は、思わず久瀬を呼び止めた。頭よりも行動の方が先に出てしまった。


「あの、都築一佐ですが……。その、ここ何日も体調が優れないようで、私なんかが口出しすることではないのは重々承知しております。ですが、やはり心配でして。第一部隊は、少々仕事量が多いのでは……」


 組織に入ったばかりの人間が意見したところで、なんの意味も持たないことくらいよくわかっている。それでも、上総を見ているとなにもせずにはいられなかった。


「そうですね。彼や彼の部隊は大変優秀ですので、つい仕事を依頼してしまいます。少し反省しないといけませんね。桐谷さん、あなたの部隊が発足されれば、柏樹部隊と共に協力してもらうこともあるでしょう。そのときは、都築のことを支えてあげてください」


 久瀬の表情は穏やかだが、やはり冷たい眼をしている。まだ本格的に始まってもいないのに、上官である久瀬に楯突いてしまった。だが、なんでも言うことを聞くような駒にだけはなりたくない。正々堂々とぶつかっていく覚悟だった。


 ***


 部屋に戻り、まだたくさん残っている段ボールの荷解きを始めた。カナダへ行く前に荷物はすべて送ってあったが、今日までそのままの状態だった。

 部屋の隅に置かれた小さな段ボールには、両親の遺影や形見が入っている。本当は真っ先に出してあげたいのだが、組織の人間となった自分をなんとなく見て欲しくなかった。きっと、とても心配してしまうだろうから。


「ごめんね……」


 ふと、ドアをノックする音が耳に届いた。


「美月、今平気かな」


 それは上総の声だった。今までの自分ならばすぐに扉を開けただろうが、足が一歩出ない。

 上総は階級で言えば二つ上。これだけでもかなり立場は違うのだが、さらに将官補佐ともなると立場が違いすぎて、どう接していいのかわからない。


「……あの、どうしたの?」


 恐る恐る扉を開けると、上総は一歩下がった位置でこちらを見て微笑んでいた。


「荷物、まだ片付いてないだろうと思って。手伝いに来たよ」


 そういえば、今日は休日だというのに上総は隊服を着用している。


「ああ、これ。実はまだ仕事が片付いていなくてね。いつ呼ばれてもいいように着てるだけ。でも、急な仕事はないから気にしないで」


 今朝よりは幾分顔色が良く見える。少しは仕事が落ち着いたのだろうか。それとも、薬で安定させているだけなのかもしれない。


「食事はどうだった?好みのものがあったかな」


「美味しかったよ。いつでも行けるって凄いね。またお昼も行ってみる」


「なら良かった。俺は滅多に行かないから、なにが美味しいとかわからなくて」


 いつもの優しい笑みを浮かべながら、上総は重い段ボールをどんどん運んでくれている。


「昼も夜も行かないの?」


「そうだね。外出することが多いからだいたいは外で済ますし、本部にいても仕事が片付かなくて、食事をすること自体忘れてたりするかな」


「……そっか。あ、さっき久瀬将官と少し話したんだ。上総はすごい優秀だから、つい仕事を頼んじゃうって」


「はあ。本当、あの人は無茶な命令しかしないから。別に、言われれば仕事はするけどさ。なんかもう大変で……」


 一息つくと、上総の表情が変わった。


「だから、俺は陽が羨ましいんだ。あいつは相手が誰だろうと間違っていると思えば間違っていると指摘出来る。将官にも普通に意見するし、部下からの信頼も厚いしね」


 美月ははっとした。陽は上総を目標としている。上総に追い付きたくて上総に認められたくて、必死にもがいている。そんな陽を上総は羨ましいと言う。

 結局は、お互い競い合ってその中でお互いを尊敬し必要としている。美月はなんだか安心した。


「……美月、将官と話したのってそれだけ?」


 思い出したように、上総は少し険しい顔を見せた。


「あ、うん、そう。あと、今朝なにか見た?とか言われたけど、なんのことなのかはわからない」


 上総は、少し考えて深い溜息をついた。


「そうか……。わかった」


 そう言うと、再び段ボールを運び始めた。客観的に見ると、上総はとても遠い人に見える。自分とは住む世界が違う人。考えることが違う人。でも、こうやって近くにいて以前のように話していると、やっぱりいつもの優しい上総だと感じられる。


「ねえ、仕事忙しいと思うけど、こうやって手伝ってくれる時間があるなら少しは寝た方がいいんじゃないのかな」


 そうだ。なんで手伝いなんて受け入れてしまったんだろう。上総に今必要なのは身体を休めることなのに。


「それに、ごめんね。なんか私、未だに上総と陽を友達だと思い込んじゃってた。組織に入った以上、二人は上の人で接し方だって気を付けないといけなかった」


「いや、そんなことは……」


 上総は手を止めて、心配そうな表情で美月を見つめていた。


「……私は以前の私とは違う。もちろん、ここの隊員たちにはまだ遠く及ばないけど、それでも、私にしか出来ないことがあると思う。だから、大丈夫」


 私の役目は上総を助ける、いや補佐すること。それは部下として、組織の人間として。決して友人だからではない。


「美月……」


「さあ、もう戻って。時間があるなら少しでも休んだ方がいい」


 半ば強引に上総を部屋から追い出し、美月は急いで扉を閉めた。


「……本当にありがとうね」


「あ……」


 伸ばした手は美月には届かず、上総はしばらくの間ドアの前で立ち尽くしていた。


 上総にとって、こういった経験は初めてではない。同い年で比較的仲の良かった同僚も、自分の地位が上がるにつれ、途端に人が変わったかのように態度を変えた。それは、年下の先輩も然り。

 だが、上総にとってそんなことはどうでもよかった。人が離れて行こうとも、自分は自分の仕事をこなすだけ。たとえひとりになろうと、なんとかここまでやって来た。


 だけど、今回は違う。美月が自分から離れて行く……。いや、自分が美月から離された。それは上総にとって表現出来ない、心の奥底が疼いたような、一言で表すならば"痛み"だった。


 仕方なく自室へ戻ろうとすると、向こう側から陽が姿を見せた。陽はこちらの表情を読み取り、瞬時になにがあったのかを察したようだった。


「おい」


 陽は顎を部屋の方へ向け、部屋へ入れと促す。


「……そうか。仕方ないっちゃあ仕方ないけど、今回のは俺に責任があるな。どうせ美月に入れ知恵したのはあいつらだろうし、俺が美月に言っておくからお前は気にするな」


 腕を組み、陽は明るい口調で話していたが、上総は下を向いて立ち尽くしていた。


「上総……?」


「なんで俺なんかに期待するんだ。なんで腫れ物に触るような目で俺を見るんだ。なん……」


 上総は目を見開き、口を抑えてそのまま洗面所へ駆け込んだ。


「おい、大丈夫か!?」


 扉の向こうで陽が必死に声を掛けてくれているが、上総の耳にはほとんど入っては来ない。

 昨日からあまり食べていないため、嗚咽だけが込み上げてくる。だんだんと意識が朦朧とし始め、呼吸が荒くなり、視界が白く霞みだす。

 やっぱり自分は弱い人間じゃないか。良いように使われているだけなんだ。そんなことが頭をよぎったとき、ぷつんと意識が途切れた。


 ***


 目が覚めたときには、窓の外はもう真っ赤に染まっていた。どうやら医務室に寝かされているらしい。腕には点滴が繋がれていた。情けない。この一言に尽きた。


「……目、覚めたか」


 ベッドの反対側の机で、書類を作成していた陽が立ち上がった。


「栄養失調、睡眠不足、おまけに軽い胃潰瘍。過度の疲労とストレスによるものだろうって。あと、念の為頭のCTも撮りたいって言ってたけど」


「……別に、撮らなくていい。なにもない」


 まだ軽く吐き気はするが、点滴のおかげでかなり楽になっていた。


「美月がさ、ものすごい取り乱しちゃって。とにかく落ち着かせてから少し話してみた。そしたら、今度は自分のせいだって落ち込んじゃったよ。今は部屋に戻してる。そうそう、横見てみろよ」


 陽の指差す方へ顔を向けると、そこには三つの見事な千羽鶴が飾ってあった。


「まったく大袈裟だよね。お前が倒れたって知った途端これだもの。本当、慕われてるよね」


 上総は千羽鶴から目が離せなかった。ひとつひとつがとても丁寧に折られており、部下たちの思いがひしひしと伝わって来る。


「これでわかっただろ。皆お前を大切に想って、お前のことを心から尊敬しているんだ。近寄り難いんじゃない、憧れてるんだよ。お前だからその地位にいて、お前だからついて行きたくなるんだ」


 上総は陽の顔を見つめ、眼で気持ちを伝えた。陽もそれに応える。


「じゃあ俺は行くから。お前が目を覚ましたって皆に伝えてこないと。それと、とりあえず今日の分の仕事は平気だから。将官に話して、相馬と和泉に頼んである。今日ぐらい早く寝ろ」


 陽が出て行った後、しばらく夕陽を眺めてから横になった。

 

***


 夜も更け、もうじき日付が変わろうとしている。結局眠ることもなく、あれから上総はずっとデスクに向かっていた。医師や部下には散々止められたが、休んでいる時間など一切ない。

 相変わらず目眩はするが、それでもキーボードを打つ手は止めない。すると、一通のメールが届いた。美月からだった。


「たぶん上総のことだから、まだ起きてるかな。体調はどう?今日は本当にごめん。上総のこと全然わかってなかった。私、組織の人間になった以上、気を引き締めてここの一員になろうって思ったんだ。明日から改めてよろしくね。三佐として私も変わるよ」


 時刻は、午前零時ちょうどを指した。今日からまた新しい日々が始まる。


 ***


 この時点で、やはり記憶を消していれば良かったのかもしれない。この先、彼女を待ち受ける哀しみはとてつもなく酷いものだった。


 この時、ちゃんと話を聞いてみれば良かったのかもしれない。これまでの間、彼が受けた哀しみはとてつもなく辛いものだった。


 ……ただ、ひとつ思い出して欲しい。

 この出会いは必然だった。こうなる運命だった。誰がなんと言おうと。


 今君は、今自分は、これまでのことを思い出しては激しく後悔を繰り返し、それでも立派に生きて誇りを胸に人生を終わろうとしている。


 それまでの道のりはまだ長いけれど、まちがいなくその一歩をたった今踏み出した。

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