第29話 江戸大過

 人が消えた江戸の町で、麟太郎がようやく出会ったのは、人のものとは思えない叫声だった。

 び付いた戸を開くときのような甲高い音が上がり、一拍遅れて、それが女の金切り声だと気づく。


 麟太郎は声のした方に駆けだした。ほとんど反射的だった。心のどこかで人がいたことにほっとしていた。適当に当たりをつけて道を曲がったところで、足がぴたりと止まる。


 麟太郎は息を飲んだ。

 目の前の光景が一瞬信じられなくて、白昼夢を見ているような錯覚を起こした。

 そこにはいままさに妖かしに襲われる直前の女がいた。そしてその周りにはすでに息絶えている人の死体がごろごろと散乱している。まるで野犬にでも食い荒らされたように人体の一部があちこちにちぎれ落ち、血だまりがいたるところに広がっている。


「な、んだ……」


 麟太郎が言葉を発した瞬間に、女が妖かしの爪によって胸を引き裂かれ、絶叫を上げた。女の体から血が噴き出し、妖かしを真っ赤に染めていく。

 返り血を浴びた妖かしがにやりと笑ったように見えて、恐怖を超えた戦慄せんりつが走る。


 とても現実の出来事だとは思えなかった。

 女の体を存分に引き裂いた妖かしの目が、次なる獲物を探して左右に彷徨さまよう。

 麟太郎が刀を抜くのと、妖かしの目が、ひたと麟太郎の姿を捉えたのは同時だった。


 妖かしが咆哮ほうこうを上げて突っ込んでくる。咄嗟に横に跳んで妖かしの突進をかわしつつ、刀を両手で握り込んだ。くるりと向き直った妖かしの脳天目がけて、刀を振り下ろす。まるで頭蓋骨に当たったような固い感触が返ってきた。構わず真っ直ぐ斬り下ろすと、眉間の間をばっさり断たれた妖かしが、仰け反るようにして後ろに倒れ込んでいった。


 ぴくぴくと痙攣していた妖かしが完全に動かなくなったのを確認し、肩で大きく息を吐いた。

 刀は軽く振って血を払い、抜身のまま持った。一匹だけで済むはずがない。これだけの人間が殺されているとすれば、数十匹、下手したらもっと多くの妖かしがいる。

 理由はまるで見当もつかないが、事態だけは理解できた。

 町中に妖かしが現れたのだ、それも尋常ではない数が。吉原に連絡が来ていなかったところをみると、それほど急だったか、誰も吉原までたどり着かなかったのだろう。


 と、そこまで考え、冷静に状況を判断していることに思わず苦笑が漏れた。人間、許容できる以上の出来事に遭遇すると、感情が擦り切れてしまうものらしい。

 どこか開き直ったような気分で、道を曲がると、先ほどの通りよりよっぽど酷い光景が広がっていた。そこはまさに地獄絵図だった。思わず目を背けたくなる凄惨を極めた死体が、ごろごろと転がっている。どの顔も恐怖と怨念にまみれ、カッと見開かれた目が、まだ生きている麟太郎を恨めしそうに睨んでいた。


 凄まじい血臭に顔をしかめながら、ゆっくりと歩を進める。

 死ねば霧のように霧散する妖かしのむくろと違って、殺されたときの生々しいままで人間の死体が転がっている光景は、どう見ても非現実的で悪夢を見ているとしか思えない。


 誰かが隠れているかもしれないと細い路地を覗き込んで、麟太郎は咄嗟に口元を覆った。

 強烈な吐き気を催した。袖を口に押し込んで吐きそうになるのを何とか堪える。

 路地には十数人の女子供が折り重なるようにして死んでいた。正確にはその胴体だけが。

 頭だけがごろりと転がっているかと思えば、誰のともつかぬ腕や足がバラバラと散らばっている。とても正視できたものではなかった。


 日頃から妖かしにやられた死体を見ることは多かったが、これまでの死体は爪でやられてはいても、四肢ししがちぎれるほど執拗しつように痛めつけられていたことはなかった。

 これではまるでいたぶって楽しんでいるようだ。


 麟太郎が己の推測に総毛立ったとき、四方から叫び声が響いた。化け猫の奇声のような悲鳴が上がり、後を追うように耳を塞ぎたくなる断末魔の声が続く。人間が妖かしに襲われているのだ。それもおそらくは江戸中で――。


 と、先ほどの細い路地の向こうで悲鳴が上がった。

 見ると、一人の男がバラバラになった死体を踏みつけ、何度も転びながら、こちらへ逃げてこようとしていた。


「た、助け……助けてくれえ!」


 男の後ろから妖かしが追いかけてきているのが見える。


「こっちだ! 早くこい!」


 手を伸ばして男を路地から引きずり出してやる。

 男が路地から飛び出すと同時に、妖かしの鋭い爪が麟太郎の眼前に迫った。咄嗟に刀で爪を受け止め、渾身の力を込めて弾き返す。妖かしがわずかによろめいたところをすかさず斬りつけた。妖かしが死体の上に倒れ込んでいくのを見届け、麟太郎は背後を振り返った。

 男は腰が抜けたように座り込んでいたが、怪我はしていないようだった。


「どうなってるんだ、いったい」


 無駄と思いつつも訊くと、男はすごい勢いで首を横に振った。


「わ、わからん! い、いきなりとんでもねえ数の妖かしが現れて……。ほんといきなりだったんだ。どこに逃げても妖かしだらけで、あいつら蛆みたいにどこからともなくわき出してきやがる」


「いつからだ」


「け、今朝だ! 日本橋の方はもっとひでえことになってるって、それでこっちに逃げて来たんだ」


「こっちも変わらないさ」


「だが吉原に行きゃ、花魁たちがいるだろ。花魁が浄化してくれれば」


「この数をか? 無理だ」


 いくら吉原の花魁たちでも江戸中の妖かしを浄化しきれるわけがない。第一、花魁を妖かしの爪から守る花魁護衛が足りないだろう。


「そんなのわからねえじゃねえか! 花魁が浄化してくれなきゃ、江戸は終わりだ!」


「武士がいるだろ」


 麟太郎が言うと、男は目をいて大げさに驚いて見せた。


「武士ぃ? あいつらが役に立つもんか。奉行所だって真っ先に妖かしにやられちまったって言うじゃねえか」


「奉行所が?!」


「ああ。生き残った奴もてんでに逃げちまったさ。あちこちの藩邸もてめえらだけを守ろうとして、門を閉じちまいやがった」


 忌々しそうに吐き捨てる男の声を聞きながら、やりきれない怒りがこみ上げて来た。


 江戸を守るのは花魁ではなく武士の役目――。


 源平派の武士が常々口にし、吉原を目の敵にする理由の言葉は、しょせん建前でしかなかったということか。麟太郎が焦がれ、望んだ武士の姿は幻で、現実は武士であることをとっくに放棄していながら、身分だけを振りかざす者がいまの武士なのだろうか。


 そうではないと否定したい思いがある一方、麟太郎は心のどこかでそのことに薄々勘付いてもいた。吉原の側に立ち、花魁護衛となったことで知った武士の姿。武士の身分を守ろうとするが故に、本来の武士からどんどん遠ざかっていく、麟太郎の合わせ鏡のような武士たち。


 虚しさがこみ上げた。

 すべてがうすら寒くなっていく感覚。胸の内側がかさかさと乾いて、擦り切れたボロ布のようになっていく。虚無感があふれ、麟太郎をおぼれさせていく。

 だが、麟太郎が虚無の海で溺れ死ぬより先に、辺りが混乱に包まれた。


「きゃあああ!」


「誰か! 誰か助けて!」


 叫び声と共に、逃げ惑う人々と、それを追ってくる妖かしがなだれこんできた。

 どこかに隠れていた者たちが見つかったのだろう。まとまって逃げようとする集団に、無数の妖かしが四方から襲い掛かる。次々に逃げ遅れた者を餌食にした妖かしがさらなる獲物を求め、麟太郎の元へも殺到してくる。隣にいたはずの男はいつの間にか姿を消していた。


 人間の気配に誘われたのか、前方の道からも、脇の道からも妖かしが姿を現し、血で濡れた爪を振り上げて走ってくる。その姿は血に酔って狂乱しているようにしか見えない。


 麟太郎は小さく舌打ちをすると、ひとまず脇道から飛び出してきた妖かしの胴部分の思いっきり刺し貫いた。ずぶりと刺した感触はひどく気持ち悪くて、思わず刀を握る手に鳥肌が立つ。

 不気味な感触から逃げるように刀を引き抜き、返り血を避けて後ろに跳び、すぐさま前方に迫る妖かしに向かって跳躍した。跳んだ勢いのまま頭上から真っ直ぐ斬り下ろす。


 妖かしはあっけなく斬られ、血を噴き上げながら真後ろへと倒れ込んでいった。数こそは多いが、腕があるわけではない。かつて緋里と浄化に行ったときのような、ばかでかい奴さえ現れなければ、麟太郎一人が江戸から逃げ出すのはおそらく造作もない。


 逃げる。武士の身分を持つ者たちがしたように――。


 思考がそちらに傾こうとしたとき、一際甲高い悲鳴が聞こえた。反射的に声のした方を見ると、一人の子供が泣き叫びながら走っていた。そのすぐ後ろには妖かし。麟太郎が走る距離より、妖かしの爪が子供を裂く距離の方が近い。


「くそっ、間に合わねえ!」


 それでも走り出した麟太郎の目に、妖かしが爪を振り上げる瞬間が飛び込んでくる。

 だめだ。そう思った瞬間、一枚の紙が視界を横切った。

 紙は矢のようにものすごい速さで妖かしに向かって飛んでいき、ビタッと貼り付いた。紙がついた部分から、血が噴き上がる。


「あ、あれは……」


 見慣れた光景。花魁の起請文による浄化。

 麟太郎は緩慢かんまんな動作で、紙が飛んできた方へと視線を向けた。


 そこにはきらびやかな衣装に身を包んだ花魁たちが、ずらりと並んでいた。

 豪華絢爛ごうかけんらん。まさにその一言に尽きた。これから盛大な酒宴でも開かれるのかと思うほど華やかさに満ちあふれた姿は、いままさに生死に迫られた者ですら息を飲まずにはいられない。


 目が眩むような彼女たちの姿は、それでいて厳かさを失ってはいなかった。威風堂々とした佇まいはそれだけで辺りをはらうような清浄な気配に満ちている。

 そんな彼女たちの先頭、見る者を圧倒する美しさを放つ花魁が、起請文を投げた手をゆるりと下ろした。


「緋里……」


 その名を口にした途端、胸の辺りに鋭い痛みが走った。

 花魁たちを先導するように立った緋里に、花落ちのかげりはない。凛とした眼差しで江戸の町を見つめ、すっと手を上げる。


「加賀屋は江戸の西側を。黒田屋は南、大文字屋は北。残りは私と一緒に行動を」


 歯切れよく指示を出し、花魁たちの担当区域を振り分けていく。

 緋里の言葉を受けて、花魁たちがそれぞれ数名ごとに江戸の町に散っていく。その後ろを各妓楼の花魁護衛たちが黒子のように、しっかりとついていく。

 吉原中の花魁を緋里がまとめ、率いてきたのだ。吉原の総力を挙げて、緋里は江戸を浄化しようとしている。


 そんな緋里の背後を守るように捨助が刀を構えて、鋭い視線を周囲に配っていた。

 かつて麟太郎がいた場所。自らの手で壊した居場所。

 ずきり、と再び胸に痛みを感じる。感じる資格などない痛みに、麟太郎は歯を食いしばった。


 と、ふいに緋里の視線が、麟太郎へと向けられた。まったくの偶然だったらしく、麟太郎の姿を捉えた緋里の目が大きく見開かれる。


 ――どうして、ここに。


 緋里の唇が言葉を呟く。


 緋里の視線の先を追った捨助が驚きに目を瞠ったかと思うと、何かに迷うように複雑な顔をした。


 ――麟太郎を。


 緋里の唇がそう動いたのを見るなり、麟太郎の足は弾かれたように走り出していた。

 緋里たちのいる方とは逆方向に。

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