第三章 生き様

第27話 露見

 茶屋で輝貞と会った日から、数日が経っていた。

 輝貞に浴びせられた呪詛じゅそが嘘のように、麟太郎の周りは静かであった。

 もしやあのとき輝貞は逃げ損ねたのではないか。そう思い、後日、茶屋を訪ねてみたが、茶屋があばら家になっていただけで、何もわからなかった。


 だが、あの輝貞が簡単に諦めるとは思えない。静けさがかえって気味が悪かった。

 障子戸がカタカタと鳴り、反射的に刀を手入れする手が止まる。すり足で窓辺に寄り、細く障子戸を開ける。外の様子を窺うが、閑散とした吉原に異常はない。


 安堵とも自嘲とも知れぬ、ため息が漏れた。

 日に何度も外を見るのが、すっかり習慣になってしまっていた。


 空を見上げれば、分厚い雲がどんよりとたれこめている。半月ほど前に過ぎた正月はあまりに慌ただしくて、正月らしさを感じる間もなかったが、寒さだけはしっかり厳しさを増した。

 北風が容赦なく部屋へと吹き込み、麟太郎は首をすくめて障子戸を閉めた。


 隣の緋里の部屋からは、頻繁に苦しそうに咳き込む声が聞こえる。

 死に突き進んでいく緋里を見ているのは怖かった。悲しいでも、悔しいでもなく、ただただ怖かった。

 麟太郎は刀も放り出して大の字に寝転んだ。

 遅い。もうすべてが遅い。

 麟太郎が追い込んだ吉原も、緋里の命も、風前の灯である。もう取り返しはつかない。

 諦念と絶望が頭を支配して、他の感情を根こそぎ奪っていく。


 倦怠感に身を任せて惰眠だみんむさぼろうとしていた麟太郎の耳が、聞き慣れた乱暴な足音を拾う。

 足音は一直線に麟太郎の部屋の前まで来る。襖が壊さんばかりの勢いで開け放たれた。


「あん、なんだよ」


 目だけでそちらを見ると、憤怒の表情で仁王立におうだちになった捨助が逆さまに映った。


「立て」


「だからなんだよ」


「いいから立て!」


 捨助はずかずかと部屋に入ってくるなり、寝転がったままの麟太郎の襟を乱暴に掴み上げた。


「くそ、離せよっ」


 捨助の手を振り払いながら立ち上がる。

 その瞬間。左から拳が飛んできた。避ける間もなかった。まともに拳が頬に入り、たたらを踏んだ。遅れて痛みが弾け、口の中に血の味が広がった。


「この野郎、何しやがるっ」


 怒鳴りつければ、煮えたぎるような怒りをたたえた捨助の双眸と視線がぶつかった。


「――俺たちを売りやがったな」


 ドクンッと心臓が跳ねた。息が詰まる。否定の言葉を探す余裕もなく、捨助の顔をひたと見たまま、目が逸らせない。どんどん口が乾いていく。体から急速に熱が奪われ、芯から冷えていく。


「な、んで――。どうして俺がそんなこと」


「この期に及んで言い逃れようってか? 心底腐ってんな」


 軽蔑しきった目で見られ、今度こそ完全に言葉を失う。


「おまえの……おまえのせいで、俺たちがどんな目に遭ったと思ってんだ!」


 ぐいっと左右の襟を掴み上げられた。


「おら、なんとか言ってみろよ! ええ、何か言えってんだ!」


 捨助の顔が苦痛に歪む。

 どうしておまえがそんな顔をしてるんだ。麻痺しかけた頭に、ぽっかりとそんな疑問が浮かんだ。


「俺は……」


 声がかすれた。

 白状するか、シラをきるか。まだ迷っていた自分に気づいた。

 頭は物凄い早さで回っているのに、何一つ答えが出ない。白状して楽になりたい気もしたが、密偵だったことだけは知られたくない気もした。


「なに、ぼーっとしてやがる!」


 堪えきれなくなったというように捨助が叫ぶ。掴まれていた襟が自由になったかと思えば、再び頬を殴られた。

 今度のは最初の一撃よりも重く、たたらを踏むだけでは済まず、数歩よろけて尻もちをついた。無様な格好で見上げると、捨助が肩で荒い息をつきながら、麟太郎を見下ろしていた。


「このくそったれが! おまえが密偵じゃない証拠をかき集めようとすればするほど、おまえが密偵だって証拠が出てきちまう。俺がどれだけ駆け回ったと思ってやがる。吉原中だ。吉原中を駆けずり回った挙句、おまえが会ってた船宿の男を捕まえちまったんだよ!」


 叫ぶ捨助の声を聞きながら、山谷堀の船宿の男と会っているところを、捨助に見られていたことに驚いた。

 いつだって船宿の男と会うときは細心の注意を払っていた。唯一油断したとすれば、密偵をやめると告げに行った日ぐらいだが、もしそのときに捨助に尾けられていたのだとしても、それ以前の麟太郎の行動に不審な点があればこそである。

 麟太郎は口の端を腕で拭いながら、のろのろと立ち上がった。


「……もし俺が密偵だって言ったら、どうする気だ?」


 捨助の目が黒く濁る。手が腰に差しているものへと伸びる。


「――斬る」


「そうか……」


「緋里の命を返せねえなら、おまえの命で払ってもらうしかねえ。俺は花魁護衛だ!」


 捨助が刀の柄を握った。


「俺は武士でも花魁護衛でもねえが、それでもここでおまえに斬られるわけにはいかない」


 麟太郎も刀の鯉口を切った。

 捨助が荒んだ笑いを漏らした。


「へっ、間違いだってわかっていながら、馬鹿みてえに貫こうとするところは武士らしいさ」


 思わず捨助の顔を見た。奇妙な嬉しさがこみ上げた。

 初めて武士として認められた気がした。まさか麟太郎を武士として見た最初の一人が、武士を心底嫌っている花魁護衛の捨助とは。なんとも皮肉な話だった。


 同時に抜刀した。お互いに譲るわけにはいかなった。

 狭い部屋の中で捨助が刀を横なぎに払う。麟太郎は後ろに跳ぶ形で避け、刀を斜め下から斬り上げた。脇の下から腕を飛ばされる寸前で、捨助が刀を盾にして防ぐ。再び距離が生まれた。


 間合いを取った状態で二人はにらみ合う。狭い室内にあっという間に濃い殺気が充満した。

 麟太郎が動けば、捨助も動く。捨助の剣術の腕は麟太郎にはるか及ばない。斬り合えば十中八九、捨助がやられる。それはお互いにわかりきっていることだった。

 捨助を斬って逃げる。それしか道はない。それなのに、なぜか麟太郎は動けなかった。


 階下では騒ぎを聞きつけたのか、ざわざわとした気配が立ち上ってきていた。人が来るのも時間の問題だろう。そうなれば麟太郎の負けである。麟太郎が慎重に間合いを測りながら、ざりざりと畳の上をすり足で動けば、捨助も合わせたように重心を移動させていく。


「遠慮なんてしやがったら、ぶっ殺すぞ」


 捨助が静かに怒気を吐いた。


 ――やるしかない。


 麟太郎が本気で覚悟を決めたときだった。

 音もなく、すーっと襖が引かれた。

 視界の端に映った姿に、背筋が凍り付く。ぴくりとも動けなかった。全身から汗が吹き出し、心の臓の音がうるさいぐらいに響く。


「やめなんし」


 牡丹雪ぼたんゆきのようにふわりと儚げな声。

 その声につられるように、気づけば麟太郎は首を捻っていた。

 そこには真っ白な顔に、能面さながらの無表情を張り付けた緋里が立っていた。

 ひくり、と喉が引きつった。


「緋里……」


 来ないはずがなかった。

 隣の部屋に緋里がいるということが、すっかり頭から抜け落ちていた。否。無意識のうちに考えないようにしていた。


「密偵だというのは本当でありんすか」


 緋里の静かな声は凍てつく外よりも、麟太郎から熱を奪い去っていく。

 緋里の視線は真っ直ぐ麟太郎に向けられていた。

 麟太郎は咄嗟に視線をそらした。まともに緋里の視線を受けられない。


「麟太郎」


 名を呼ばれ、びくりと肩が震えた。怖かった。緋里に真実を知られるのが、この上なく怖かった。膝がガクガクと震え、刀を握る手に力が入らなくなる。


「俺は……」


 苦し紛れに言葉を吐き出すが、それ以上続く言葉がない。あるわけがない。

 階下の騒がしさがいよいよ増してきた。気づけばどたどたと階段を駆け上ってくる音が響き、麟太郎はその音に、ハッと我に返った。


 ここで捕まれば待つのは破滅。武士どころか蔑んでいた花魁護衛にすらなれなかった愚かな末路。

 損得勘定のさらに先、内奥から切迫して訴えてくる感情の源泉があらんかぎりの声を上げた。


 いやだ。こんな終わり方は、絶対にいやだ――。


 思考が最低の決断を下す。


 この場から、緋里から――逃げる。


 ほとんど無意識に足に力を込めていた。右足を踏み出す。視界の端に捨助の慌てる顔が映る。左足を勢いよく前に出し、麟太郎の半身は廊下へと躍り出た。


 そのときだった。


 袖を引かれた。腕がわずかな抵抗感を受ける。袖を掴まれた。そう思った。逃がしはしないと、緋里に掴まれたのだと。


 恐怖が走った。振り払おうと思いっきり袖を引っ張ると、まるで初めから掴まれてなどいなかったようになんの抵抗もなく、袖がふわっと舞った。一瞬の違和感に思考を巡らせる余裕はない。階段の方を見ると、階段を上り切った男衆の一人がこちら目がけて走り込んでくるところだった。


 迷っている暇などなかった。麟太郎は連子窓れんじまどを開け放つと、ためらいなく外へと身を躍らせた。


 一瞬の浮遊感。どこにも触れていない感覚はしかしすぐに、両足への衝撃となって体を貫いた。足への衝撃を少しでも逃がそうと、地に足がついた瞬間に体を丸め、ごろりと地面を転がった。顔をしかめて痛みをこらえる。よろめきながら立ち上がり、窓の方を見ると、緋里が微かな笑みを浮かべていた。

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