第18話 花落ち

 おとがめなし――それが規制を破った緋里と麟太郎へ下された妓楼からの沙汰さたであった。


 あの武士らは自分たちの恥をさらすことを恐れて、緋里との一件をすべて闇に葬ることにしたらしい。奉行所へは何一つ報告されておらず、緋里が自ら楼主に規則違反を暴露した以外は何事もなかったことになっていた。


 楼主としても見世の看板であり、一級の浄化力を持つ緋里に咎を与えては大損害である。禿げ頭をぺしぺしと叩きながら唸った挙句、


「……咎なし!」


 と告げた。

 ほっとした顔を見せた緋里と対照的に、なぜか楼主も遣手も複雑そうな表情であった。

 もっともいくら咎がなかったとはいえ、肝心の護衛が使い物にならなくなっていた。


 浄化の日から七日ばかり、麟太郎はまともに体を動かすこともできなかったのだ。無事に妓楼まで帰り着いたのが不思議なくらいで、その日の夜から傷が元で発熱し、ようやく歩けるようになったのはつい先日のことである。


 その間、麟太郎の世話をしてくれたのが捨助だった。緋里に頼まれたから仕方なくだ、と文句を言いつつも、細々と世話をしてくれた。案外、世話好きな性格らしい。


 麟太郎が寝込んでいる間に、江戸の町に現れる妖かしの数は日増しに増えていた。護衛に復帰してみれば、毎日のように火急浄化の依頼が飛び込んでくる有様である。

 たとえそれが指定外の浄化場所だったとしても、大抵の妓楼は民から助けてくれと言われれば、人情的にも商売の信頼問題としても浄化に駆けつける。


 咎を恐れて嫌がる花魁も当然いたが、なぜか浄化力の高い花魁ほど人情にあふれており、咎があるとわかっていても浄化に行き、手ぐすねを引いて待っていた奉行所の取締まりに一網打尽にされてしまう。

 そうして浄化力の高い花魁が奪われ、じわじわと鉄壁だった吉原の力が削がれていく。


 それこそが奉行所、ひいては源平派たちの狙いであった。

 呼ばれればどこへでも飛んでいく緋里に振り回されて、麟太郎も傷をおして浄化に出かけ、何度肝を冷やしたかわからない。その度に抗議しては陰間の二言で一蹴される。


 そうして江戸を駆け回るうちに、浄化に出た日に限って、緋里が具合悪そうにしていることに気づいた。初めて火急浄化に出た日ほどではないが、夕食にほとんど手をつけていなかったり、眉間にしわを寄せてこめかみを揉んでいたりする。


 緋里はなんでもないと誤魔化すが、さすがに不審に思って捨助に尋ねた。


「なあ……浄化の後って具合悪くなったりするのか?」


 一拍の間の後、護衛たちの雑魚寝部屋で寝転がっていた捨助が、がばりと跳ね起きた。


「いま、なんつった!?」


「いや、だから」


 麟太郎が浄化の後の緋里の様子を話すうち、捨助の顔がみるみる強張っていく。


「おい、こっち来い!」


 捨助は唐突に立ち上がると、麟太郎の襟根っこを掴んでどこかにつれて行こうとする。


「待て、離せ。こっちはまだ怪我が治りきってねえんだ。痛てえって!」


 ほとんど捨助に引きずられる形で妓楼の中を進んでいく。どうやら人に聞かれたくない話らしい。捨助は人気のない薄暗い廊下でようやく立ち止まると、声を潜めて訊いてきた。


「……さっきの話、本当なんだな」


「嘘なんかつくかよ」


 麟太郎の言葉に、捨助が壁に拳を打ち付けた。


「緋里のやつ! やっぱり隠してやがったのか!」


「だから、あれは何なんだ」


 焦れた麟太郎が問うと、捨助はいまにも噛みつきそうな顔でギロリと睨んできた。


「花魁はなあ、浄化の度に妖かしのけがれを受けるんだよ!」


「妖かしの穢れ……」


 咄嗟に妖かしから噴き出す血潮を連想し、ぞっとなった。もしあの血が穢れだとしたら、麟太郎はもうずいぶん浴びている。そう返すと、捨助は横に首を振った。


「血じゃねえ。穢れが何なのかはわかんねえが、花魁だけが穢れを受ける。穢れは体に溜まって、いずれは花落ちだ」


「花落ち?」


 どこかで聞いた言葉だった。いったいどこで――そう考え、奉行所から通達された新たな規制の中にそんな言葉があったことを思い出す。


「穢れが体に溜まっちまった花魁がかかる病だ。全員が全員かかるわけじゃねえ。中にはずっとかからねえ奴もいるし、ひと月でかかる奴もいる。運とか精神力だとか言う奴もいるが、原因はよくわかってねえ」


「緋里がその……花落ちだっていうのか?」


 自然と声を潜めていた。


 花落ちにかかった花魁は奉行所が用意した療養所に入れられる。たしか麟太郎はあのときタダで治療してもらえると楽観視したが、いま思えば緋里たちの反応はひどく苦々しいものだった。


「これまで緋里がどれだけ浄化してきたと思ってんだ。普通の花魁は花落ちを用心して、浄化を断ったりして調整するが、あいつは依頼を断っては花魁の名が廃るとか言って、全部引き受けちまう」


 捨助が悔しそうに拳を握りしめる。確かに緋里が浄化を断るところは見たことがない。


「それならなんで止めないんだよ」


 言ってから、しまったと思った。捨助の目に激しい怒りが宿った。


「言わなかったと思うか! 俺が、俺がどれだけあいつを……ッ」


 掴みかかられた勢いを殺しきれず、どんっと壁に背中を打ち付けた。傷に響き、麟太郎は顔をしかめる。けれど捨助の方がずっと顔を歪めていた。


「俺がどんなに言ったってあいつは浄化をやめねえ。俺が言えば言うだけ、あいつは意地になって隠そうとするに決まってんじゃねえか! だから言えねえんだよ。花魁護衛は花魁を守るのが役目だ。その俺があいつをこれ以上追い詰めてどうすんだよ。……離れて守るしかねえじゃねえか……っ」


 捨助の双眸そうぼうにやり場のない憤りがたぎる。


 なぜだろうか。麟太郎はふと、捨助が羨ましいと思っていた。

 いつだったか、捨助は麟太郎が挑発したにも関わらず、刀を抜こうとしなかったことがあった。初めて会った――麟太郎が張見世の前で緋里に買われた――ときはあれほど短気に抜いたくせに、と不思議に思ったが、いまわかった。初めて会ったときに捨助が刀を抜いたのは緋里を守るためだったのだ。得体の知れない麟太郎が緋里に喧嘩を吹っ掛けたから。勝ち目の有無も関係なく、一切のためらいもなく。揺るぎない花魁護衛の誇りをもって――。


 己が抱いた感情に戸惑う。麟太郎は誤魔化すように捨助の腕を掴んだ。


「離せよ」


 だが捨助は離さない。


「おまえが怪我したときの浄化で起請文を使ったって言ったな? その札に血判けっぱんはついてなかったか。え、どうなんだ」


「血判……いや俺のところからは札だってことしか」


「たぶんそれは血判付の起請文だ。そんなでけえ妖かしに普通の起請文が効くはずがねえ」


「……血判付だと何かまずいのか?」


「てめえ、この期に及んでまだふざけてんのか」


 捨助がぐいっと麟太郎の襟首を締め上げる。


「知らねえんだよ!」


「このくそったれが……。浄化の仕方によって花魁が受ける穢れは違う。ただの起請文が一番威力も弱くて穢れも少ない。口説くぜつ、八文字と続いて血判付の起請文は威力も穢れもでかい」


 口の中に苦味が広がった。緋里は麟太郎を助けるために、血判付の起請文を使ったのだ。


 花魁は妖かし退治のために使い捨てにされ、花魁護衛は花魁に使い捨てにされる。吉原は使い捨ての連鎖。そう思っていた。

 だが、緋里は花魁護衛を守るために血判付起請文を使った。


「どうして……」


 無意識に呟いていた。緋里に助けられる理由が思いつかない。それどころか、奉行所があの通達を出した裏側には麟太郎の密偵活動が少なからず関係しているはずだった。言ってみれば、いま吉原が苦境に置かれている原因の一端は麟太郎にもあるのだ。


 口の中の苦味が強くなる。頭の芯が絞られるような痛みがあった。

 麟太郎の考えを見透かしたように、捨助が突き飛ばすように麟太郎の襟から手を離した。


「あいつはそういう奴なんだ! 花魁の〝張り〟が強すぎんだよ……」


 捨助の声は苦渋くじゅうに満ちていた。


「……花落ちって、どうなるんだ」


 思ったまま口にすると、捨助はちらりと麟太郎を見てから、くいっと廊下の奥を顎でしゃくって示した。


「見た方が早い」


「それ、どういう……。だって花落ちを発病した花魁は奉行所の療養所に」


 捨助がこれみよがしにため息をついた。


「おまえ、あんなの本気にしてんのかよ。奉行所が本当に治してるわけねえだろ。ありゃ花落ちを発病した花魁をひとところに集めて、最低の環境で弱って死ぬのを待つための場所だぜ。うちは見世がでかいから花魁を隠して守ることもできるが、小見世や中見世にそんな力はねえ。妓楼検ぎろうあらためでちょっとでも花落ちの症状がある花魁は、片っ端から連れていかれちまう」


 あの規制のせいで吉原全体の結束が揺らぎ始めている。捨助が深刻な顔で言う。


 大見世であればまだ治る見込みのある花魁を匿えるが、中見世や小見世はそうはいかない。花魁を次々に失って、妓楼として没落していく。没落した楼主たちは大見世の楼主をやっかみ、なんとか足を引っ張ろうとしだす。そうなれば当然、大見世の楼主も警戒し、これまで余すことなく回覧させていた情報を隠し始め――そうして吉原の歯車を狂いだす。


 捨助の案内でついたのは、妓楼の北側にある昼間の間、行灯あんどんをしまっておく部屋であった。

 そこは以前、麟太郎が妓楼に来たばかりの頃に通りかかって、変な呻き声を聞いたところだった。


「まさか、あの声って……」


 麟太郎の不安などお構いなしに、捨助が襖を開く。

 日の当たらない薄暗い部屋の手前には何基もの行灯が立ち並び、奥の方に一枚の布団が敷かれていた。そこに誰かが寝ている。


 麟太郎は恐る恐る、部屋に足を踏み入れる。中は湿ったかびくさい臭いがした。

 布団の方に近づくと寝息に混じって、苦しげな浅い呼吸が聞こえる。かびくささとは違う臭いがつんと鼻を刺激した。どこかで嗅いだ臭いである。すぐにそれが妖かしの放つ生臭い息に似ていることに思い当たり、悪寒が走った。

 と、ふいに布団がもぞりと動き、寝ていた者が呻き声を上げながら、こちら側へと寝返りを打った。


「う……」


 反射的に目を背けたくなった。

 それはあまりに酷かった。鼻はずるりと削げ落ち、頬は皮ばかりにこけてしまっている。皮膚も赤くただれ、真っ赤に血走った目はもはや映っているのか、ひどく虚ろである。

 高熱にうなされているのか、喘ぐように呼吸をしたかと思うと咳込み、その度に口から少量の血が飛び散る。

 麟太郎は咄嗟に袂で口元を覆った。


「安心しろ。そいつはうつるもんじゃねえ。花落ちはあくまで浄化をした花魁がかかる病気だ」


 捨助が入口から声をかけてくる。


「本当か?」


「ああ。それを奉行所の奴らは花落ちの花魁は、辺りに不浄をまき散らすなんてでたらめ言いふらしやがって」


 そうは言われても口元から手を離す気にはなれない。それほどその姿は残酷で惨たらしかった。


 麟太郎はくるりと向きを変え、ゆっくりと部屋を出た。

 この花魁のような者が一か所に集められ、まともな食事ももらえず、絶望の中、死に向かっていく――地獄のようだと思った。


「……もう、助からないのか?」


 問えば、捨助が無感動に頷く。


「ああ、手遅れだ」


 その声は驚くほど冷めていた。思わず捨助を見ると、悟り切った目と視線がぶつかった。

 捨助は花魁の子。幼いときから日常的にこんな光景を見てきたのだろう。そこには慣れと諦念がありありと浮かんでいた。


「捨助、おまえ……」


「医者だろうが何だろうが花落ちは治せねえ。緋里の姉女郎もこうやって死んだ。初期や中期までなら浄化をやめりゃ助かる見込みもあるが、ここまできたらもう何をやってもだめだ」


 捨助の言葉はどこまでも淡々としている。その異常なまでの落ち着きが、捨助の抱える絶望の深さだった。


「どうして」


 ぽつりと言葉が口から洩れた。捨助が目で何が、と疑問を投げかけてくる。


「どうして花魁はこうなることを知りながら、浄化なんてやってるんだ。こんな目に遭ってまでなんで……」


 捨助が真っ直ぐ見つめてくる。


「――花魁だからだ」


 迷いなく告げる捨助らしからぬ冷静さが、麟太郎を激しく動揺させた。

 花魁がどうなろうと知ったことではない。不浄な者にふさわしい末路。浄化などという忌まわしい業に頼るからこんな目に遭う。いまもそう思っている。


 だが、なぜか、ひどく身の内がざわついた。相反する何かが麟太郎の内側を掻き乱していく。怒りにも似た焦慮があった。なぜこんな思いをしなくてはいけないと、やり場のない怒りが沸いた。吉原に潜入した密偵が、花魁の悲惨な末路に焦りを感じる必要もなければ、怒りを覚える理由もない。


 それなのにどうしてこうも、心が乱れるのか。

 麟太郎は捨助に気づかれないように、小さく息を吸い、いつの間にか握りしめていた拳をゆっくりと開いた。力が抜けていくと同時に、虚しさを覚えた。

 ――何も知りたくなかった。

 そう思った。

 吉原のことも花魁のことも。何も知らなければよかった。

 心の底からそう思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る