第13話 黄昏の通達

 暮れなずむ夕日が障子越しに部屋に差し込んでいた。一日が終わる黄昏時たそがれ。どこかでヒグラシが鳴いていた。カナカナカナと寂寥感せきりょうかんに満ちた鳴き声がひっそりと静まり返った屋敷に響く。


 江戸郊外にある橘藩の中屋敷が、十五歳からの輝貞の住まいであった。


 江戸城に通うには少し遠いが、藩主ではない輝貞が江戸城に出向くことは滅多にない。江戸城とのやり取りは上屋敷にいる藩主が行うものである。だが、その藩主もまた上屋敷にいなかった。輝貞の父である橘藩主はまつりごとには一切興味がなく、藩主としてはボンクラもいいところだった。今頃は稀代きたい好色家こうしょくかの名を欲しいままに、国許くにもと怠惰たいだに暮らしている。


 必然的に政の実務は筆頭家老の伊右衛門いえもんが取り仕切り、輝貞が類まれなる政治手腕を発揮するようになってからは、筆頭家老の伊右衛門が上屋敷を預かり、幕府からの連絡を一手に受けては輝貞の元に持ってくるようになった。


 輝貞はコト、と筆置きに筆を置いた。閉じ切った部屋にはすみの匂いが濃く漂っている。

 文机ふづくえには書き物がいっぱいに広がっており、脇には麟太郎が定期的に上げてくる報告密書が山のように積んであった。


 輝貞の目がたったいま書き終えたばかりの文面の上を走る。流れるように目線は上下し、やがて文字の最後までたどり着くと、口の端に微かな笑みを浮かべた。


「輝貞様」


 障子の向こうから声が掛けられる。


「伊右衛門か。入れ」


 はっ、とキレの良い返事と共に伊右衛門が障子を引き開けた。武士の所作において伊右衛門の右に出る者はいない。まさに完璧な一挙手一投足いっきょしゅいっとうそくで部屋に入ってくる。


「これは。書き物をされているところでしたか」


「構わん。もう終わった。それに呼びつけたのは俺の方だ」


「直接会ってということでしたが……黒羽織党の方のご用件で?」


 輝貞が皮肉っぽい笑みで頷く。子供がいたずらをするような目つきだったが、その瞳に宿る光は昏い。まるで地の底を覗き込むような暗い喜びに満ちていた。


「読んでみろ」


 そう言って輝貞は書き上げたばかりの紙をひらっと伊右衛門の前に広げてみせた。


「では」


 伊右衛門は紙をうやうやしく受け取り、目を走らせはじめる。読み始めてすぐ眉がぴくりと動いた。

 そんな伊右衛門の様子を輝貞が面白そうに眺めている。伊右衛門の厳めしい顔がみるみる険しくなっていき、読み終わることにはとんでもなく苦い茶でも飲まされたように顔を歪め、渋い表情をしていた。


「どう思う?」


 輝貞の声に忍びやかなわらいが混じる。伊右衛門がどう答えるかをわかっていながら、あえて聞いているかのようであった。


「これは、その……あまりに」


「あまりに、なんだ?」


 輝貞が意地の悪い笑みを浮かべた。伊右衛門が困ったように顎をさする。


「……あまりに過酷ではありませんか。これでは花魁たちは」


 ふっ、と輝貞の口から呼気が漏れる。どう良く解釈しても思わず噴き出したとは言えないほど、その顔には隠し切れない残忍さがにじみ出ていた。


「そういうつもりで書いたのだ。武士の世に花魁は不要。このままではいずれ武士が花魁に食われる。そう言っていたのは偽りだったのか?」


 伊右衛門が断固として首を横に振る。


「滅相もない! 武士の世を案じる私の思いに一片の偽りもございません」


「では、俺の腕を疑うか?」


 揶揄やゆするような輝貞に、伊右衛門が真剣な眼差しを向ける。


「輝貞様が政に関わるようになるまで、橘藩はそれはもう酷い財政難でした。藩主様の花街遊びへの入れ込みようはもとより、家臣団にも己の懐をやすやからがはびこり、いくら叩いてもキリがない有様で……。輝貞様がいなければ橘藩はここまで持ち直せなかったでしょう。そのことは誰よりも私が存じ上げておりまする」


 伊右衛門はそう言うと、一際熱のこもった目で輝貞を見た。


「――この伊右衛門が仕えるは橘藩であり、輝貞様です」


 伊右衛門は家臣として優秀な、優秀すぎるほどの筆頭家老であった。

 藩主である輝貞の父、貞光はそのことに甘えすぎた。あまりに優秀すぎる家臣を誇りに思える度量もなかった貞光は自分の凡庸ぼんようさを卑屈に思い、色事へと逃げ出したのである。若い時分から吉原での色事遊びを覚え、頻繁にお忍びで出向いては、身請けをえさに花魁たちをはべらせた。


 その中の一人に、輝貞の母親である千早ちはやという花魁がいた。千早は類まれなる美貌の持ち主ではあったが、花魁としての浄化能力は低かった。ゆえに吉原でも上り詰めるに上りきれず、腐っていたところをもともと色事目当てで近づいてきた貞光に、ころりと落ちた。


 身請け話を信じて待ちながら輝貞を身ごもったまでは良かったが、輝貞が生まれるころには貞光の興味はもっと若くて器量の良い花魁へと移っていた。身請けの未練にまみれた千早の関心が輝貞に向けられることはただの一度もなく、輝貞は吉原生まれの男児として、人以下の扱いが日常の少年時代を送ることになったのである。

 輝貞は伊右衛門の手にある紙を差した。


「ならば、その紙を奉行所の八木甚内やぎじんないに渡せ」


 八木甚内は黒羽織党くろはおりとうの息がかかった奉行所の有力者である。


「御意」


 伊右衛門は大きく頷くと、丁寧な仕草で紙を巻き、来たときと同じく完璧な動作で部屋を出ていく。その背中を輝貞は能面のような表情で静かに見ていた。

 数日後、以下の内容が吉原へ通達された。




 一、妖かし退治において、武士と花魁が相対したときは武士を優先すべき事

   もし花魁が無礼を働いた場合は、武士に手打ちを許可す

 

 一、吉原の者が立ち入れる店を限定すべき事。

   その他で売買を行った場合は店を処罰す事

   また吉原を相手とする店は、そのことを看板に掲げるべき事


 一、花落ちにかかった花魁は即刻、奉行所が用意した療養所に入所すべき事

   奉行所が定期的に妓楼検ぎろうあらためを行い、此れを隠匿いんとくせし場合、

   吉原全てを処罰すべき事


 一、花魁は奉行所が定めた地域以外の浄化をするべからず

   もし定めた地域以外を浄化した場合、妓楼ならびに花魁、

   花魁護衛を処罰すべき事

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