第11話 香を嗜む

 小紫に追い出された麟太郎が緋里の部屋に入れてもらえたのは、それから一刻ほど経った後だった。吹けば飛びそうなほど小柄なくせに、全身全霊ぜんしんぜんれいもって体当たりを食らわせてきたのである。小紫の怒りは凄まじく、普段は貝のように無口で、人形さながらの無表情ぶりを呈していたことが嘘のように、烈火れっかの如く怒り狂った。


「緋里姐さまの襦袢姿じゅばんすがたを見るなんて最低でありんす! いっぺん地獄の業火で焼かれて身も心も清める必要がありんす! 罰当たりのちんちんくりん!」


 怒りで真っ赤になった顔で怖いことを言う。


「地獄の業火で焼かれたら、清まるどころか消し炭だろ……」


 小紫の豹変ひょうへんぶりに麟太郎が面食らっていると、緋里が慣れた様子で小紫に何かを命じた。小紫はまだ言い足りないとばかりに麟太郎を見たが、仕方なさそうに部屋を出ていった。


「それで? いつまで隠れているつもりでありんすか」


 じろりと緋里が睨み上げてくる。


「え、別に隠れてなんか」


「怒るでありんすえ、捨助」


 みるみる声の温度を下げていく緋里に、小さな舌打ちとともに捨助が顔を出した。


「……言っとくが、俺のせいじゃねえからな。こいつが声もかけずに開けるから」


「おまえ、こいつが着物脱いでるってわかってたのかよ!?」


「当たり前だろうが。あんだけ香の匂いがしてたじゃねえか」


「そりゃ変な匂いはしてたが……だからって脱いでるなんて知るかよ!」


「黙りなんし!」


 ぴしっと音がしそうな、緋里の一喝いっかつが入る。


「二人ともここに座りなんし。小紫の香作りに付き合ってもらいんすえ」


 げっ、と捨助がうめく。


「お、俺はちょっと……気分が」


「何か言ったでありんすか捨助?」


 緋里がにっこりと笑う。


「いや……なんでもねえ」


 麟太郎は捨助と並んで緋里の前に腰を下ろした。隣では捨助がげっそりとため息をついている。

 何とはなしに部屋を見回す。緋里の部屋は控えめに言ってもかなり贅沢ぜいたくな造りだった。豪華な金具のついた箪笥たんすに、凝った細工が施されている鏡台きょうだい長持ちながもちが置かれ、文台ぶんだいの横にはびーどろの金魚鉢まである。


「それより捨助。ぬしには麟太郎を呼んでくるよう言いつけただけでありんすに、なんで一緒に来んした?」


 あぁ、と言う捨助の顔が曇る。


「実はまた花魁がやられた」


「花魁がやられた?」


 麟太郎が訊き返すと、緋里が沈痛な表情で頷く。


「近頃、浄化に出た花魁がやたら殺されておりんしてなあ。今度はどこでありんすえ?」


「石川屋の揚羽花魁だ」


 花魁が妖かしに殺られることは珍しいことではない。特に経営が苦しい小見世では楼主が無茶な浄化を押し付けることも多く、花魁が護衛なしで浄化に行くこともざらだった。

 花魁はしょせん使い捨て。そう考えている楼主も少なからずいるというわけである。


「……どうせ源平派の奴らに決まってんだ」


 ぼそり、と捨助が吐き捨てた。


「おい、いま何て言った」


 とても聞き捨てられる台詞ではなかった。捨助が剣呑けんのんな目で麟太郎を見る。


「だから下手人は武士だって言ったんだ。俺たち吉原の方が妖かし退治で活躍してるからって、焦って花魁を殺してやがるんだ」


「……ふざけんなよ。そもそも妖かし退治は武士の役目だ。それを浄化なんて得体の知れねえもんで出しゃばった挙句死んだんだ。自業自得だろ」


 カンッ、と叩きつけるような音が響いた。

 見ると、緋里がひどく冷たい目で麟太郎を睨み据えていた。


「麟太郎、訂正しなんし。――今の言葉は許しんせん」


「事実だろ。妖かし退治は俺たち武士に任せておけばいいものを。何が浄化だ。おぞましい!」


 瞬間、緋里の左手がひらめいた。

 咄嗟に緋里の腕を掴んで平手打ちを防ぐ。


「不浄女にひっぱたかれるほど落ちてねえよ」


 悔しそうに緋里が顔を歪める。


「離し! ……武士なぞ野暮やぼ無粋ぶすいなだけ。武士がいつ民を守った。過去にすがって威張って。いま江戸を守って血を流しているのはわっちら花魁でありんす」


 緋里の目には怒りとも悲しみともつかない不思議な色が宿っていた。

 からり、と音がしてふすまを開けた小紫が目をぱちくりさせて首をかしげる。


「取り込み中でありんすか……?」


 緋里が慌てて笑顔を取り繕う。


「大丈夫。おいで」


 小紫は小さく頷いて、とてとてと部屋に入ってくる。手には水差しと小箱を持っている。

 緋里が長持ちの中から小さな陶器を取り出して持ってきた。


「なにしようってんだ」


「すぐにわかるでありんすよ」


 すっかりいつもの取り澄ました顔で答える緋里の横で、小紫が陶器の中に小箱から取り出したものを次々に入れていく。最後に水を入れると、棒状のものですり潰すように混ぜ合わせ始めた。


「なにやって……うっ」


 陶器の中を覗き込もうと顔を近づけた麟太郎は、最後まで言い終わらぬうちにむせ返った。

 強烈な臭いが鼻をついた。突き刺すような、むしろ鼻を貫き通して目まで来るような酷い臭いが、あっという間に部屋中に充満していく。

 麟太郎は慌てて袖で鼻を覆った。いくらかましだが、それでも臭い。緋里の方を見ると、しっかりと袖で鼻元を覆っていた。混ぜ合わせている小紫だけが平然としたものである。


「何なんだよ、これ!」


「香でありんすえ。香は花魁にとって欠かせない道具の一つ。花魁の嗜みたしなみであると同時に妖かし避けにもなりんしてな。さっきわっちが脱いでいたのは、着物に香をき染めるため。花魁は良い匂いかつ、妖かし避け効果の高い香を調合しようと、修練を重ねるのでありんす」


「これのどこが良い匂いだよ!」


 麟太郎が思わず突っ込むと、小紫が気にしたように、ちらりと緋里を見た。


「緋里姐さま、臭いでありんすか……?」


「そんなことありんせんよ。もっと麟太郎に香を近づけてあげなんし」


 緋里がにっこりとほほ笑む。


 小紫は嬉しそうに笑うと、陶器を持って麟太郎の方にやってこようとする。


「や、やめろ! こっちに来るな」


 こいつには鼻がないのか。麟太郎は信じられない思いで小紫から距離を取る。


「小紫、今日は何を混ぜたでありんすか?」


 緋里が笑いながら聞くと、小紫は少し考える素振りを見せてから淡々と告げる。


「蛙の肝と桜の花びら、ヤモリのしっぽ、あとは……バッタでありんしたか」


 ぞっとした。


「誰か呪うつもりかよ……」


 ふらりと捨助が立ち上がる。いまにも吐きそうな顔である。


「もうだめだ……」


「あ、ずりぃぞ! 一人で逃げる気か」


 慌てて引き止めようとするも、捨助はふらふらと部屋を出て行ってしまう。


「まったく……。根性がありんせんなあ」


 緋里がつまらなさそうにぼやく。


「なあ、捨助はいつからここにいるんだ?」


 緋里が窺うように麟太郎を見る。


「どうしてそんなことを聞きんすか?」


「いや」


 麟太郎が緋里の部屋に来る前の出来事のことを話すと、緋里は小さくため息をついた。


「そういうことでありんすか。捨助は生まれたときから運命の決まった者。わっちがここに来るよりずっと前から明石屋にいんす」


「それ、どういう」


「……捨助は吉原生まれ。花魁の子でありんす」


 思わず緋里を見た。


「じゃあ武士が嫌いって、まさか……」


「捨助の母親は切見世きりみせの花魁。金に困ったのでありんしょうな。客に体を売って、捨助が生まれた。捨助は母親が死ぬまで、父親だという武士の悪態ばかりを聞かされたらしいでありんす。――吉原で生まれた子は基本的に吉原を出られない。一生をここで終えるのでありんす」


 緋里の言葉が重くのしかかる。吉原の外を知らず、今後も知ることのない捨助と、外の世界を知りながらここにいる自分とでは、いったいどちらが不幸なのだろうか。

 外では一匹のせみが休む間も惜しむように鳴き続けていた。

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