第6話 再会

 仲の町なかのまち通りを疾走する麟太郎を、男たちが何事かと振り返る。明らかにいぶかしまれていたが、そんなことに構っている余裕はなかった。一刻も早く吉原を出なくては。その一心だけで大門まで来た麟太郎は、ほとんど本能的に足を止めた。


 大門脇の面番所の反対側にある板屋根の小屋。そこにいる男は鋭い視線を入ってくる者にではなく、吉原を出ていく者に向けていた。彼らは麟太郎が売られてきたことを知っている。そんなところを通ろうとすれば一発で捕まってしまう。


 慌てて来た道を引き返す。人に紛れるように身を小さくして足早に歩く。途中何度も咳き込んだ。呼吸が荒い。心臓が皮膚を突き破りそうなほど激しく脈打っていた。

 せめて手の拘束さえ解ければ客を装うこともできるが、後ろ手に縛られた状態ではできるだけこそこそと歩くのが精いっぱいである。


「くそ、どこから出りゃいいんだよ……」


 怒りも嫌悪もどこかに吹き飛び、もはや泣きたい気分だった。

 吉原の出口は大門ただ一つ。塀を超えようにも忍返しのびがえしが植えられ、そこを抜けたところでお歯黒どぶが待っている。逃げ場はない。吉原からは逃げ出せない。

 どこを見ても逃げる道などありはしないのに、目はせわしなく左右を見回す。縋れるものを、この状況を助けてくれるものを探していた。なんでもいい。この際、誰でもいい。

 誰か、助けてくれ――。


 極限まで切羽詰った思考の隙間を縫って、ふと視界に飛び込んでくる色彩があった。

 目に鮮やかな朱塗りの格子。第一級の大見世を表す総籬そうまがき。張見世の前には何人もの男たちが群がり、魅入られたように格子に張り付いている。

 何気なく格子の向こうに座る花魁たちを見やり、麟太郎は息を飲んだ。


「あ……」


 思わず声が漏れた。

 ふらふらと吸い寄せられるように、足がそちらへと向かう。うっとりとため息をつく男たちの後ろから中を見る。間違いなく、彼女であった。麟太郎が用心棒の職を失うきっかけ、ひいてはこんな目に遭う元凶となった、あのときの花魁だった。


 忘れるはずがない。それほどに彼女は張見世の中で圧倒的な存在感を放っていた。

 見目が良いだけの他の花魁とは違う。鶴のような凛とした気高さをまとい、それでいて獣のような激しさを身の内に秘めた危うさがあった。吉原の花魁が持つ荒んだ獰猛どうもうさではなく、言うなればお伽噺とぎばなしにでも出てきそうな天馬のように神々しいものだ。


「あいつだ……」


 声が届くはずもないのに、つと、花魁の視線が麟太郎へと向けられた。どこか気怠そうなその仕草は妙に色気があり、麟太郎は自分の心臓が跳ね上がる音を聞いた。

 視線が絡まり、一拍の後、花魁の目が大きく見開かれた。


「ぬしは、あのときの……」


 花魁がそう言ったときだった。

 にわかに通りの向こうが騒がしくなり、人波が道を空けるように左右に割れていく。

 追手! 瞬間で悟った。

 反対側に走り出そうとしてたたらを踏む。そちらからも大門脇の小屋にいた男衆が迫ってきていた。完全に挟まれた。ドッと汗が吹き出し、体が硬直した。逃げ場がない。


 ――嫌だ、捕まりたくない!

 思考がそのことだけに支配される。緋里と目が合った。火花が散りそうなほど視線と視線が激しくぶつかり、交錯した。

 刹那。意思も誇りも及ばない強烈な感情が麟太郎を突き動かした。


「頼む! 俺を助けてくれ!」


 先ほどとは比べようもないくらい花魁の目が真ん丸になった。


「なにを……」


 花魁が戸惑った。

 次の瞬間、麟太郎は地面に押し倒された。かろうじて顔面強打は免れたものの、それでも痛いことに変わりはない。けれどそれ以上にこれから起こることを思うと、絶望と恐怖で、歯の根が合わなくなる。


「吉原から逃げられると思ってんのか、この陰間が!」


 例の陰間茶屋の男らしき声が頭上から降ってくる。


「違う! 俺は陰間なんかじゃねえ!」


 顔だけ上げて叫べば、すぐさま踏みつけられた。がんっと地面に頭がぶつかり、目の前が明滅した。必死にまばたきをして視界を取り戻そうとしていると、頬のあたりにぴしゃっと何か液体がかかった。


「陰間だろうが」


 次いで男たちのわらい声が降り注ぐ。男の一人に唾を吐きかけられたのだとわかった。

 麟太郎は奥歯を噛みしめた。あまりの悔しさと情けなさで気が狂いそうだった。

 殺してやる。こいつら片っ端から斬り殺してやる!

 どす黒い感情が身体の内側で音を立てて渦巻く。


「ほら、さっさと立て。客が待ってんだ」


 引っ張り上げられ、麟太郎はのろのろと立ち上がった。

 いつの間にか周りには野次馬が集まっていた。誰もが好奇の目で、降ってわいた珍事を愉しんでいる。


「兄ちゃん、気を落とすなよ。今度遊びに行ってやるよ」


 誰かがそんな野次を飛ばし、あちこちから笑いが漏れる。その中には女の忍び笑いの声も混じっていた。花魁たちが袖を口元に当てながら嗤っているのが視界の端に見えた。


「行くぞ」


 陰間茶屋の男に引っ張られて、麟太郎は歩き出す。

 ふっと、何もかもがどうでもよくなった。あれほど煮えたぎっていた感情は水をかけられたように消え、くすぶる燃えカスさえ残っていない。

 こんな人生、くそったれだ……。

 もう抵抗する気は失せていた。代わってみるみるうちに諦念ていねんが思考を占めていく。

 どうにでもなっちまえ――。

 そのときだった。


「待ちなんし!」


 ぴしっと音がしそうなほど凛とした声が響き、誰もが弾かれたようにそちらを見た。

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