第3話 青天の霹靂

 役者武士はあの日と同じく、どこか皮肉気な雰囲気をたたえ、静かに麟太郎を見ていた。

 小袖こそではかま、腰には大小の刀といういたって普通の武士の格好だが、全身から放たれる余裕は身分の高さからくるのだろうか。夕日を背に優雅に立つ佇まいは、一枚の絵のようですらある。


「な、なんで……?」


 呆然と呟く。

 役者武士は端的に答えた。


「おまえを探していた」

「俺を……?」


 一気に警戒心が沸いた。

 まさかあのとき花魁を斬らなかったことをまだ根に持って――?

 頭をよぎった想像はあまりに馬鹿馬鹿しかったが、それ以外にこの男が自分を探す理由が思いつかなかった。


「ああ。まさかこんなところに住んでいるとは思わなかった」

「なっ、誰のせいで――」


 いきり立つ麟太郎を遮るように、サッと伊右衛門が輝貞の前に出た。その手は刀の柄に掛かっている。


「伊右衛門」


 役者武士が名を呼ぶと、伊右衛門は無言で元の位置に戻った。


「ったく、危ねえな……。それで俺に何の用だ」


 麟太郎はどっかりとお堂の階段に腰を下ろした。腹が減りすぎて、立っているだけでくらくらしてくる。

 役者武士は足元に転がっていた木の枝をひょいと拾った。麟太郎の問いに答えるわけでもなく、しばらく思案でもするように手の中で枝をくるくると回していたかと思うと、ふいにぴたりと手を止めた。


「おまえを雇いたい」

「――は?」


 思い切り間抜けな声が出た。


「聞こえなかったか? おまえを」

「いや、聞こえた。聞こえたが……なんだってまた」


 まさか目の前で暇を出された男を雇いたいなどと言う者がいるとは思わなかった。

 役者武士が再び、くるくると枝を回し始める。どうやら麟太郎の問いに答える気はないようだった。

 気になるところではあったが、確かに雇用理由など麟太郎は知らなくてもいいことである。

 麟太郎は質問を変えた。


「ところであんたはどこの、じゃなくて……どちらのお武家様なんで?」

「橘だ。橘藩の橘輝貞たちばなてるさだ

「はあ、橘藩のねえ……」


 何気なく復唱しながら、はたと思考が停止する。


「……ちょっと待った。橘藩の橘輝貞ってことは……まさか藩主なのか!?」

「次期藩主様ですな」


 それまで沈黙を守っていた伊右衛門が口を開く。その口ぶりは実に誇らしげである。


「次期藩主!?」


 先ほど頭を蹴られた以上の衝撃だった。

 この目の前に立つ男が、どこかの藩の次期藩主。つまりは大名である。大勢の家臣に囲まれ、城にいるはずの身分の者が、いま麟太郎の前にいる。座っているのに視界がぐらぐら揺れるようだった。確かにそこいらの武士にはない品のようなものがあるとは思っていたが、せいぜい旗本かそこいらだと思っていた。

 それがまさか次期藩主だったとは――。


 眩暈がした。身分が高いにもほどがある。あまりに現実離れした事態に白昼夢でも見ているのではないかと、ためしに手の甲をつねってみたが、痛い。夢ではないのだ。


 降ってわいた珍事への興奮がひとしきり収まると、当然の疑問が浮かんだ。

 果たしてそれほどの身分の者がたった一人の供を連れただけで、町をうろついたりするものなのか。藩主をかたってだまそうとしているのでは、と。

 だが一文無しの麟太郎を騙したところでたかが知れている。ましてや輝貞たちが放つ、人を委縮させるような雰囲気は、そこらのごろつきではひっくり返っても出せない。

 麟太郎の一連の思考がまとまるのを待つように、輝貞も伊右衛門も一言も発さない。


 湿気を含んだ夏の風が吹き抜けていく。日はすっかり傾き、もう西の空が青紫に染まっていた。いくら日が長いとはいえ、夜の始まりまであとわずかである。

 麟太郎は浅くため息をついた。

 どんなに考えたところで答えなど出るわけがない。となればもう直接聞くまでだった。


「……あんた、本当に次期藩主なのか?」


 輝貞が薄く笑う。


「試すか?」


 ――なにを? いったい何を確かめさせるというのだろう。

 麟太郎がそう思っていると、輝貞が伊右衛門へと視線で合図を送る。合点したというように伊右衛門が小さく頷き、麟太郎へと向き直った。


「いやいい! 試さなくていい!」


 慌てて遮る。よくわからないが嫌な予感しかしない。少なくとも家紋かもんを見せるような平和なものではないことだけは確かだった。


「そうか。なら返答を聞こう」

「ま、待ってくれ。俺を雇うっていったい何の仕事があるっていうんだ。言っとくが、俺は剣術以外はからっきしだからな」

「ああ。それほどの腕があれば十分――」


 輝貞はそこで意味深に言葉を切り、一呼吸おいて続けた。


「吉原でやっていけるだろう」

「……吉原?」


 思わず問い返していた。背中を一筋の汗が伝い落ちていく。

 輝貞の瞳にいつか見た濃い感情が宿っていく。理性を飛び越えていくほどの強い感情。抑えきれず瞳に現れているのか、そもそも隠す気がないのか。輝貞の声が一際冷えた。


「そう、江戸吉原だ。――おまえには密偵として吉原に忍び込んでもらいたい」


 目をみはる。氷を飲み込んだように、すっと肝が冷えた。瞬きをすることさえ忘れて、輝貞の顔を凝視した。本気か、などと問う必要はなかった。輝貞の目はいたって真剣、涼しげな目元はいっそ冷淡で、放つ眼光はやたらと鋭い。


「吉原へ密偵を放つって……。な、なんのために? いやそもそもどうして俺なんだ」


 動揺なんて生易しいものじゃなかった。激しく狼狽した。正直、雇うと言われて内心舞い上がっていた。この間の戦いぶりを見て、目の前で暇を出されるところを見ても、欲しいと思う力があると認められたのかと期待した。


 もしかしたら下っ端の武士として召抱えてもらえるのかもしれない、と。

 だが甘い夢は儚く砕け散った。当然だ。そんなことは現実では起こりえない。わかっている。わかってはいても、それでも微かな望みに期待してしまう心を止められなかった。


 その結果がこれだ。吉原への密偵だなんて、いくら腕を認められようとも屈辱でしかない。

 武士に吉原に忍び込めと命じようものなら、吉原に足を踏み入れるくらいならと、切腹して果てる道を選ぶ者もいるだろう。それほど武士にとって吉原という場所は恥辱に満ちたところだった。武士だけではない。源平派に与する者は汚泥と不浄の地、吉原を蔑み、忌み嫌っている。


 輝貞はそんな場所に行かせるために、麟太郎を雇いたいと言う。金さえ積めば動く用心棒だと思っているのだ。確かに金で動くこともあるが、こと吉原に関しては違う。たとえ身分が武士でなくても、麟太郎の支柱は武士の心なのだ。

 輝貞に対して、沸々とした怒りが沸いてきた。断る、そう告げようと口を開きかけたところへ、輝貞があっさりと告げる。


「武士になりたいのだろう」


 弾かれたように顔を上げる。酷薄な笑みを浮かべた輝貞と目が合った。


「なんで」

「俺を見るおまえの目だ」

「目……」

えた目だ。武士の身分である俺を、おまえは初めて会ったときからずっとそういう目で見ていた。渇いて渇いてどうしようもない。飢狼がろうのような目」


 輝貞の視線から逃げるように、麟太郎は横を向いた。

 まるで心を読まれているようだった。事実、麟太郎は輝貞のことを羨ましく思っていた。

 否。輝貞だけではない。武士の元に生まれ、武士として生きている者全てが羨ましく、同時に堪らなく悔しかった。

 自分は失ったのに。どうしてあいつらは武士なんだ。どうして。どうして――。

 焦げつきそうな思いは、いつだって麟太郎の中で嫌な臭いの煙を立てている。ともすれば、己の煙で窒息しそうになるほどに。


「……それが俺を雇うこととなんの関係がある?」


 ぶすぶすと音を立てる思いを無理やり押し込めて訊く。

 視界の端で輝貞がにやりと笑ったように見えた。


「此度の役目を見事果たしたあかつきには、おまえを橘藩の武士として召抱えてやる」

「な……」


 雷に打たれたような衝撃が全身に走った。

 まさか、そんな。甘い夢だと否定したことを現実の言葉として聞くなんて。頭の中が真っ白になった。信じるなと必死に己に言い聞かせるが、こみ上げる歓喜が暴走して歯止めが利かない。感情が理性を軽々と凌駕りょうがしていく。

 麟太郎はあえぐように息を継いだ。


「その話を、信じる証は?」

「俺の武士としての誇りに誓おう」


 輝貞はこともなげに言う。


「利害は一致している。おまえは武士の身分、こちらは腕の立つ密偵がほしい。それも決して吉原に肩入れをしない密偵がな。吉原もそう鈍くはない。元から武士ではどんなに変装したところで見抜かれる。だがおまえは武士じゃない。そして吉原に肩入れもしない。当然、源平派げんぺいはだろう?」

「あ……ああ! もちろんだ」


 答える声に力がこもる。雲を掴むような話に、じわじわと実感がわき始めていた。

 武士になれるかもしれない。あれほど焦がれていたものが、手の届くところまでやってきたのだ。興奮してぶっ倒れそうなほど体中が熱かった。

 麟太郎はずいと前に歩み出た。


「その話、引き受けるぜ」

「そうか。では成立だ。用があるときはこちらから連絡する」

「ああ。俺はしばらくここをねぐらにしてるからよ」


 輝貞は無表情のまま頷き、背を向けて歩き出した。そのすぐ後ろを伊右衛門が付き従う。

 鳥居をくぐって消えていく二人の後ろ姿を麟太郎は半ば夢見心地でいつまでも見送っていた。




 神社から少し離れたところで、それまで無言を貫いていた伊右衛門が口を開いた。


「……本当にあの男でよろしいのですかな」


 そう訊く伊右衛門の顔は渋面である。


「珍しいな。おまえが俺に意見するのは」

「あの男は武士ではありませぬ。いえ、身分云々ではなく」

「おまえが言わんとしていることを俺が見抜けないとでも?」


 伊右衛門がきっぱりと首を横に振る。


「輝貞様のお力はこの橘家筆頭家老の伊右衛門が、誰より存じております。……しかしあの男は所詮半端者。密偵が務まるとはとても思えませぬ」

「俺はあの男の目が気に入ったんだ」


 輝貞がうっすらと笑う。

 輝貞にそう言われては、伊右衛門に反論の余地はない。承知、と頭を下げた。

 完全に夜の気配に包まれた江戸の町を伊右衛門と歩きながら、輝貞はそれに、と独り言のように呟いた。


「あの男はあのとき……邪魔さえ入らなければ花魁を斬っていた」


 それが麟太郎を選んだ最大の理由だと言わんばかりに、輝貞はひどく陰惨いんさんな笑みを浮かべた。

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