第32話 「地底の恐怖」



 おおまかな事件の真相は降三世警視の推理通りだった。


「……山岸が憎いわけじゃなかった。ただ、あいつの腹の中に忘れた私のペアンが見つかったらすべてが終わると思った。あいつは私のことを疑ってすらいなかったから、気は咎めたが、あのときはそれどころじゃなかった。教授選挙に負けることだけが怖かった……。本当に怖かった」

 

 被害者の内臓は、信州にある加藤の別荘の大型冷蔵庫に保管されているのが見つかり、それが決定的証拠となった。

 凍らせたのちに、庭に穴を掘って捨てるつもりだったのだが、時間がなくてそのままにしておいたらしい。

 解体の際に使われた凶器と血を浴びないようにつかったビニールケープも発見されている。

 こちらも処分に困っていたらしい。

 早めに片付けておかなかったのは、まとまった休暇をとれない忙しい外科医の勤務上仕方のないことだったのかもしれない。

 僕はこの件のおかげで大熊管理官に褒められ、珍しく所轄の刑事の手柄として表彰されることにもなりそうだった。

 全部、降三世警視ののおかげであったのだが。


 ―――ただ、少しだけ気になることがあった。

 僕はその気になることを確認するため、少し経ってから山岸利勝の遺体が見つかった路地裏へとやってきた。

 月の綺麗な晩だった。


 酔っ払いのサラリーマンが遺体を踏み潰しかけたのと同じ時間に、僕はそこにいた。

 人っ子一人いない。

 殺人事件があったとはいえ、繫華街に近い場所にもかかわらず。

 こんなにも誰かがいないと恐ろしくさえなってくる。


「ここだ」


 山岸が殺された半地下室のアトリエは次の借り手が見つからず、まだ閉鎖されたままだ。

 鍵の収納ボックス付きの南京錠が玄関についている。

 この奥で、被害者は友人に殺され、内臓を持ち去られた。

 何の罪もないのに。

 だが、どうして、遺体が路上に放置されたのだろう。

 それが不思議だった。

 加藤は、山岸を殺し、失敗の証拠であるペアンを内臓ごと持ち去ればよかったのであり、目立つ場所にわざわざ遺体を持ち出す必要はなかったはずだ。

 結果として、酔っ払いのサラリーマンに見つかって、遺体を置いて逃げ出す羽目になった。

 そのことについて加藤は何故か否認をしている。

 実況見分のときにも認めなかった。

 だから、その点については検察側も首をひねっているらしい。

 加藤の言うことが正しければ、誰かが彼の代わりに遺体を路上に持ち出したというのか。


 ―――そして、もう一つ。

 僕は手にした写真に視線を落とした。


「この不気味な写真―――本当に合成なのか」


 カメラマンとしての山岸利勝が必死になって追い求めていたモチーフ。

 この不気味な生物の写真を見ると―――降三世警視の言葉を思い出す。


『いや、なにね、ここの所轄の管轄内に人食いの食屍鬼が出たときいてね。すわ、そいつは珍しいとやってきたのさ』


 食屍鬼。

 この写真に写っているものはそいつではないのか、と。

 この写真の真偽については科捜研に出せば調べてもらえるかもしれない。

 合成ならばそれでいい。

 だが、もし、だとしたら……

 僕はざっと周囲を見渡した。

 山岸の工房だった半地下室への入り口以外にはそれらしいものは一つしかない。

 月極の駐車場の脇にある建物への扉だ。

 その建物の以前の所有者を僕は知っている。


「―――西川幸次の不動産会社の物件。なんで気が付かなかったのか」


 繁華街の不動産会社の所有物件は、いくつものオーナーの手を介することで、元の所有者が分かりづらくなることが稀に起こる。

 法務局で登記を辿ればいいと素人は考えるが、こういう繁華街での物件は登記簿にある人物が確実に所有者というわけではなく、変更があっても中間省略登記をされたり、抵当権や地上権を打たれたりして現状とは乖離していることはよくあることなのだ。

 だから、西川がここを所有していたことを警察に告げない限り、こちらが強引に跡を辿ることは難しかった。

 僕がそのことをつきとめられたのは、西川という人間を怪しんでいたからにすぎない。

 それでも裏付けをとるのに三日かかった。

 その西川自身が、加藤逮捕の直後に失踪してしまっていたからだ。

 関係者であったとしても、加藤自身が三件の連続殺人事件の単独犯と自白していることから、その行方を警察はあまり気にしていない。

 僕を除いては。


 入り口には鍵の収納ボックス付きの南京錠がついていた。

 僕はその錠を開けた。

 番号は山岸の工房のものと同じ。

 つけた人物が一緒なのだろう。

 がっちり閉まっていた戸が開くと、中からどんよりとした空気が襲い掛かってくる。

 僕でなければ卒倒しかねない臭さだ。


 元はオフィスであったらしいスペースが広がっていた。

 机などのオフィス用具が隅に押しやられていて、雑然としている割にはただっ広い。

 電気が通っているようだが、不法侵入でもあるので電灯を点けたりはしなかった。

 部屋の壁には鉛筆で描かれたスケッチが飾ってあった。

 サインは同じ人物のもので、おそらく西川と書かれている。

 日付はかなり古いが、どれもこれも単純な筆遣いで生み出された信じられないほど不気味で醜い人間のスケッチだった。

 写実的というよりはデフォルメが利いているような作風だ。

 病的なスケッチに悪魔的な人物が描かれているといったところだ。

 いくつもの未完成のキャンバスが置かれている。

 事実上、西川のアトリエともいうべき場所なのだろう。


 奥に地下へとつづく階段らしきものがあった。

 おそらく倉庫兼ボイラー室だ。

 ライトをつけたまま湿っぽい階段を降りた。

 一番下に降りると、少しだけ通路があり、扉があった。

 鍵はかかっていない。

 中に入ると元々棚があったらしい金属の枠組みが四方に広がっていた。

 左手の奥の壁が崩れていた。

 だが、その様子を見に近づくことはできなかった。


 なぜなら、開けた扉の先は溶接された金属の柵で牢屋のごとく塞がれていたからだ。

 雑な素人のDIYの結果によるもののようだが、ここまで厳重に塞がれることはそうはないだろう。

 刑務所か動物園の格子のようだった。

 この部屋に入るにはこれを完全に破壊しなくてはならず、そのためにはどれだけの時間がかかるかわからない。

 なんのために、こんな鉄格子があるのか……


 理由を探ろうとしたとき、この狭い通路に折り畳みの椅子と小さなカラーボックス冷蔵庫があることに気が付く。

 読みかけの雑誌があり、ゴミ箱にはコンビニ弁当の箱が捨ててあった。

 すべてここで時間を潰すための品々だった。

 つまり、ここは上の住人が寛ぐための場所―――なはずがない。

 こんなところで誰が休憩できるだろうか。

 僕はこういう場所をよく知っている。

 これは被疑者の動向を知るための張り込み部屋と同じだった。

 つまり、ここで誰かが見張りを行っていたのだ。

 そして、それは椅子の位置からして―――鉄格子の先、部屋の中だ。


 そのとき、足元を何かがこそこそと走りすぎた。

 おそらく鼠であった。

 情けない悲鳴を上げてしまった。

 悲鳴は通路だけでなく地下室全体に響き渡った。

 古びた地下室の薄暗い天井に反響して、必要以上に大きく聞こえた。

 かなりみっとみない。

 ただ、次の瞬間、身体が凍り付く。

 どことも知れない方向から鳴き声のようなものが聞こえてきたからだ。

 ネズミのものではない。

 鳥肌が立つ。

 あの壁に空いた穴から……何かがちらりと蠢いたのだ。

 人のような大きさの何かが。

 僕は手にしたライトを向けず、カメラを起動させたスマホを向けた。

 何故かはわからない。

 撮らなければならない気がしたのだ。


 カシャリカシャリ

 

 ストロボつきで何枚も撮影した。

 同時に蠢いていたものがいなくなる。

 気のせいではなく、おそらく気の弱い人間だったのかもしれない。

 あの穴がどこかの下水道か何かに繋がっているのならば水道局員あたりだったのかもしれない。


 そして、ようやく気が付いた。

 牢屋のような鉄格子の扉がかすかに開きつつあるのを。

 のだ。

 他のことに気を取られすぎて気が付いていなかったのだ。

 僕は奥にいるかもしれない誰かから逃れるため、この場から脱兎のごとく走り出した。

 刑事が不法侵入で通報されるわけにはいかない。


 そして、元オフィスまで駆け上がり、壁に貼られていたスケッチを一枚剥ぎ取ってポケットに入れると外に出た。

 来た時と変わらない。

 もしかしたら、通報されるかもしれないと僕は早歩きで大通りに出た。

 まばらに人の姿が見られ、街灯がこの世を照らしていた。

 人間の世界だと思えた。


 息が落ち着いてから、手にしていたスマホを見た。


 ―――ああ、まさかあんな状況下でこれだけ見事に撮影ができるとは思わなかった。


 そこには鉄格子越しに最高のピントとアングルで壁の奥にいたものが映っていた。


 突き立った耳、血走った双眸、平坦な鼻、犬のようなかおをした毛の生えた退化しきった全裸の人間。

 いや、人間に含んではいけない。

 明らかに悍ましい人外の様子を持っていたからだ。

 食屍鬼。

 そいつはそう呼ばれるものであったろう。

 そして、その顔は写真と絵の違いこそあれ、壁に貼られた西川の描いたスケッチとであった。

 あの通路で時には弁当を食べながら、西川はあいつをスケッチしていたのだ。

 そして、西川の誘いに乗って一人のカメラマンも撮影をしていたのだろう。


 山岸利勝も。


 二人はある意味でグルであったのだ。


 山岸の遺体を路上に放置したのはきっと西川だ。

 たまたま現場に居合わせたのか、加藤の凶行に気が付いていたのか。

 彼が行方不明となった今ではわかにない。

 おそらく加藤と共犯関係にあったわけではないが、山岸が殺されたことを知っても何もせず、加藤が立ち去った後こっそりとアトリエに忍び込み、遺体を運び出したのだ。

 理由は……おそらく

 この写真に映った化け物を誘い出し、悍ましく吐き気を催す惨状を目撃して自らの作品の肥やしとするための贄として使おうとしたのだ。

 法治国家の日本では人の死体はまず手に入るものではないから、たまたま手に入ったものを有効的に活用しようとしただけなのかもしれない。

 もしかしたら、同じモチーフに挑戦していた仲間意識が、友の犠牲を無駄にしないようにと働いたのかしれない。

 だが、それは友人の死肉を怪物に捧げるおぞましい行為でしかない。

 西川の狂気の思い付きはたまたま通りかかったサラリーマンに邪魔をされたことで潰えたが、もし叶っていたとしたら、あの地下は解体された人の肉を貪り食う食屍鬼の祭りの場と化していたかもしれなかった。

 いや、おそらく、間違いなく。

 鬼が死肉を齧る地獄が広がっていたことだろう。

 そして、どうしてもその光景が見たいと狂気に憑かれた西川はどうしたのか。

 あの鉄格子を開けたのだ。

 我が身の危険を顧みず。


 ……西川が望みを叶えたかどうかはわからない。

 ただ―――降三世警視の与太話がまたしても事実であったことは証明されてしまった。

 僕たちが絶対のものとして信じる平穏な大都会の足元には、人の死体を食らう化け物どもが蠢いている。

 そして、虎視眈々と人間を食らおうと狙っている。

 地下はなのだ。

 なのだ。

 西川が加藤の死体でやろうとしたのと同じように。


 このことを一刻も早く降三世警視に伝えなければならない。

 あのとき、やる気をなくした彼にもう少し根気よく説明を続けていたら、警視は容易く食屍鬼の存在を嗅ぎつけていただろう。

 西川が行方不明になったのは僕の責任だ。

 あの変人を嫌がるあまりに、刑事として最悪のへまを踏んでしまったのだ。

 僕は大通りにでてタクシーを捕まえようとした。

 もうすぐ始発が出るだろう、地下の公共交通機関は使う気がしなかった。


 なぜなら……


 ……はたして僕はこれから地下鉄に乗ることができるだろうか。

 捜査のためにビルのB1に降りることができるだろうか。

 狭い空間に立ち入ることができるだろうか。

 あんな、血に飢えた怪物がいつ襲ってくるかもわからない恐るべき地底に。


 きっと、その度に僕はひりつく恐怖を心の底から剥がし続けて悶え続けなければいけないのかもしれない……


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