第17話「長谷川検事の推理」



 坪井との被告人接見はすぐにできた。

 被疑者と違って被告人になると、捜査機関による取調は認められないのではないかと言われているが、すでに検察官によって起訴されていたとしても、公判前の取調は任意であれば認められるというのが判例の見解だと言われている。

 なぜなら、起訴前は被疑者、起訴後は被告人となるが、裁判のために必要な取調ができなければ公訴が維持できないと考えるからである。

 もっとも、僕たちが坪井と話をするのは取調が目的ではなくて、降三世警視がただ質問をするために会ってみたいというだけのことなので、普通の一般接見でもなんの問題もなかった。

 特に検事による接見指定もされておらず、僕らは拍子抜けするぐらいに簡単に拘置所内で坪井と対面した。

 ただ、そのために降三世警視が何らかの根回しをしただろうことはさすがの僕でも想像できた。

 行きのパトカーの中で警視が何事か連絡していたのを聞いていたからである。


「坪井巳一郎さん。お久しぶりです。○×署の久遠です。今日は、あなたとお話をしたいという方を連れてきました。警視庁の降三世警視です」


 降三世警視が口を開く前に、最低限の挨拶をしておく。

 でないと、この警視は普通に自己紹介もできないからだ。


「……はあ」


 坪井の様子はあまり変わらない。

 何度か取調をしたが、考えもしっかりしていて筋道立てて考えることができるし、自己欺瞞のようなものもない。

 正直なところ、自分の弟妹を殺した残虐な人間とはとても思えない。

 逮捕の時よりも白髪が増え、やつれた感じはあるが、それは普通の犯罪者でもよくあることだった。


「俺に何か?」


 彼の疑問ももっともだろう。

 すでに警察・検察の捜査は終わり、もうすぐ事前準備からの冒頭手続きが始まろうとしている。

 一介の司法警察職員が絡む段階は過ぎているのだ。

 この段階で取調をしようものなら、刑事訴訟法違反で相手弁護士のいい攻撃材料になりかねない。

 とはいえ、そんなことは降三世警視には関係がない。


「君が坪井かい? 私は降三世明、警視庁の警視だ。今回は事情があって、私の忠実な久遠刑事の頼みを聞いてやってきている。二、三、聞きたいことがあるのでもったいぶらずに説明してくれるとありがたいところだな」

「……あんた、なんだ?」


 その感想は至極普通だ。

 どうやら僕と同じ意見の持ち主であるらしい。


「私が何者かなんてことはどうでもいいことだ。問題は君だよ。―――さて、単刀直入に訊ねるが、君が自分の弟妹を殺害したのは事実かね?」

「そこの刑事や検事に何度も言ったよ。俺が殺したのは、洋二郎たちじゃねえ。まったく知らねえ奴らだった。しかも、あいつら、訳のわからないことを言いながら、俺にベタベタしてきたんだ。家の中にまで押し入ってきた。だから、もう、かっとなってクラブで殴ってしまった」

「自分の弟妹をかね?」

「あんたらはそういうが、俺の記憶では洋二郎も美鳥もあんな顔はしていなかった。写真でも確かめたさ」

「死体の写真も見た?」

「ああ。別人だった」


 すると、警視は指をくるりとトンビのように回した。


「君が殺した連中は君の弟妹だと名乗っていたのに? まったくの別人だった?」

「ああ、そうだ」

「ちなみに聞くけど、他に別人に見えた人はいるかい?」

「いねえよ。あいつらだけだ」

「奥さんは?」

「女房はいつも通りだ。今でもよく会いに来てくれるしな」

「ふーん。奥さんとは仲がいいようだね。こんな事件を君が起こしたら別れることになるんじゃないかな」

「……仕方ねえよ。仲がいいといってもあいつまで巻き込めねえからな。裁判によっては離婚するさ」


 こんな話を聞くと、この殺人犯の男が哀れになる。

 言っていることが事実だとしたら、坪井は本当に弟妹を別人だと勘違いして殺してしまい、さらには愛する妻と別れなければならないのだから。


「ちなみに、君にとってとても親しい人物というのは、奥さんと弟妹以外にいるのかね」

「……ガキの頃はいたが、今はいねえ。書士会にも親しいのはいないし、客なんて全部ビジネスでの付き合いだ。酒を飲みに行くこともないし、こう言っては何だが、もともと友達もいないしな。おかしいか?」

「いや、全然。私なんか、友達はそこの久遠君ぐらいしかいないよ。過去も現在も未来も」 

「―――ちょっ!!」


 友達認定されていたのか!


「ありがとう、これでだいたいのところは分かった。そういえば君の弁護士がどういう弁護作戦を立てているかは知っているのかい?」

「俺がキチガイだということを証明するらしい。明日、精神科のところに鑑定に行くそうだ」

「ありがとう。警察の側から言うのは大変危険だが、うまくいくといいな」

「―――ああ」


 なんと、接見はこれで終わってしまった。

 さっさと接見室を出ていく警視を追って、僕は急いで外に出た。

 何の説明もなく、警視は停めてあった僕のパトカーへと向かう。

 もう帰るということだろう。

 一言もかけずに、後部座席に乗り込まれたので、慌てて運転席に飛び込む。


「坪井邸に行ってくれ」

「……現場ですか?」

「ああ、まだ坪井巳一郎の妻は暮らしているのだろう。そいつと話がしたい」

「わかりました。でも、よろしかったら警視のお考えをお聞かせ願いたいのですが」


 だいぶ下手に出て聞いてみた、

 でないと、いつまでたっても具体的な説明はされない気がしたからだ。


「だいたい私の考えが正しいことが証明できたので、あとは市場のように取引をするだけでこの案件は終わりになる。で、何が聞きたいのかね?」

「僕としては、長谷川検事に言われたように、坪井が佯狂ようきょう―――気が違った振りをしているかどうかです。でないと、検事に叱られます」

「長谷川アリ慧検察官か。かなり優秀な人のようだね。事件の端緒でほとんどすべてを推察している」


 確かに彼女は優秀だが、降三世警視が他人をほめるなんて。


「だから、坪井側の弁護士の動きが引っかかったんだろう。君に再捜査を命じるほどにね」

「どういう意味なんです?」

「簡単さ。長谷川検事は、当初から坪井が嘘の病気の振りをしていると確信していたんだ」

「病気ですか」

「ああ。彼女は、坪井巳一郎が〈カプグラ症候群〉を装っているのだと疑っていたんだ」


〈カプグラ症候群〉?

 なんだ、それは?


「〈カプグラ症候群〉はね、妄想性人物誤認症候群と呼ばれているもの一つさ。この病気の原因はよくわかっておらず、精神的なものなのか神経的なものなのか、なんともいえないものだ。百年ほど前の1923年から、だいたい百症例が確認され、十年で八十症例ぐらいが報告されている」

「坪井は病気だったんですか?」

「それを装っていると長谷川検事は考えたのだよ」

「……どんな病気なんですか?」


 後ろを振り向きたくなったが、辛抱する。

 運転中だ。


「この病気の特徴はね。ところなのさ」


 別人や替え玉だと信じてしまうって……

 まさか、それは坪井の「弟妹を名乗る知らねえ奴だった」という言葉の意味そのままなのか。


「もし、坪井がこの〈カプグラ症候群〉であったとするのならば、家に押しかけてきて馴れ馴れしくしてくる実の弟と妹を他人だと誤解して、かっとなって殺してしまうこともあるかもしれない。半年ほど、そんな風に付き纏われればノイローゼ気味にもなるだろうしね。この病気だと立証できれば、坪井には犯行当時事理弁識能力がなかったと無罪が言い渡されるおそれもある」

「でも、それだったらアリ慧ちゃんは起訴しないんじゃあ……」

「坪井は実の弟妹を別人だと誤解して殺した。でも、奥さんは殺さなかった。仲がいいはずの奥さんを別人と思わないのに、どうして〈カプグラ症候群〉を主張できるんだい?」

「あ、そうか……」

「この病気の特徴は、親しい知人や家族が別人に見えてしまうという精神的なものなんだ。だったら、当然、結婚して二年余りとはいえ、一緒に暮らしている奥さんは新婚期間が過ぎても親しすぎる相手といえる。真っ先に別人に見えこそすれ、そのままというのはあり得ない」

「そりゃあ、まあそうですね」

「だから、そこの矛盾を捉えて、長谷川検事は坪井が佯狂ようきょうだと推理したんだ」


 坪井には、殺された弟妹と妻以外には親しいものはいない。

 だから、他にも〈カプグラ症候群〉で別人に見える人がいたとは証明できない。

 坪井にとっては、弟妹だけが別人見えたというのはこの病気の定義からするとあり得ない。


「ところが、坪井の弁護士側はそこを精神鑑定によってはっきりさせれば勝てると踏んでいる。万事自信たっぷりの長谷川検事が嫌な予感を覚えるほどにね。そこで、君に再捜査を命じたんだ。なにかあるのかも、と」


 ようやく繋がった。

 アリ慧にしては珍しいと思ってたんだけと、よもやそういうことだったとは。

 だったら、最初から説明してくれればいいのに。

 そうすればこっちも下手な頭を使わずに済んだのだ。


「それでは、僕は坪井が〈カプグラ症候群〉ではないということを立証できる証拠を見つければいいんですか? でも、それって悪魔の証明だなあ」

「いや、それは必要ない」

「どうしてですか?」

「間違いなく、坪井巳一郎は〈カプグラ症候群〉の患者ではないからだ」


 さすがに驚いた。

 ブレーキの代わりにアクセルを踏みそうになる。


「え、どういうことですか?」


 なのに警視は平然と指示した。


「それを証明するために、坪井の妻に会おうというんだよ。あと、少しパトカーを止めてくれたまえ。連絡しなくてはならない事項があるのでな」


 ―――事件は僕のわからない方向に向かおうとしていた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る