カレーライス

椎堂かおる

前編

 カレーのにおいがした。

 食欲をそそる匂いだ。腹が減っているわけでもないのに。

 島田は鼻をひくつかせながら、薄っぺらい賃貸アパートの扉をノックした。

 中から出て来たのは、シュミーズを着ただけの、どことなく疲れた感じのする若い女だった。

「警察の者です。上の階で起きた事件の関連で、アパートの方全員にお話をうかがっています。ご協力願えますか」

 こちらは五十をいくらか過ぎた島田しまだと、まだ三十代の刑事、小林こばやしの二人連れだ。

 なかばまで開いた扉の向こう側から、女はじっとこちらを見た。

「刑事さん?」

 島田が示した身分証を、見たのか見ないのか。女の目はうつろだった。

「あたし、これから寝るところなの。手短てみじかにしてくれる?」

 女の部屋は暑かった。むき出しの胸にじっとりと汗をかいており、部屋には扇風機せんぷうきの回る音がしたが、他に人の気配けはいはなかった。

 ただ、強く、カレーのにおいがした。

「死んだんだって? 上の人」

 気怠けだるそうに女は言い、つやのない長い髪をかき上げた。

 型どおりに職業をたずねると、女は夜の街で働く接客業だ。酒の残ったような顔つきだった。昨日きのう一晩ひとばん、部屋には戻っていないという。夕方に出勤して、今朝方けさがた戻った。その時にはもう、上の階の女は殺されていた。

 何事かとは思うが、しかし他人事だ。昼間眠って、夕方にはまた出勤するのに、迷惑きわまりないと女は話していた。

「学生でしょ? 上の子。違うの? どうでもいいけど……男がいたみたいよ。時々見たわ。なんか暗い顔した奴よ。あいつも学生じゃない? そんな感じだったわよ。昨夜ゆうべ来たかどうかなんて知るわけないでしょ……」

 いかにも面倒くさそうに女は声をあらげ、そして溜息ためいきとともに言った。

「知らないけど、誰かは来たんじゃない? 昨日あたしが出かける時、上の子が戻ってくるのとちがったわよ。買い物の帰りみたいだった。スーパーの袋げてた。やけに荷物にもつ多かったわよ。カンだけど。あれは男に何か食わしてやろうっていう事じゃないの?」

 そういうことですかね。女性のカンですかねえ。

 島田が愛想あいそうよく言うと、女はフンと不愉快ふゆかいそうに鼻を鳴らした。

「カレーですか。いいにおいですね。美味うまそうだ」

 鼻をひくつかせて島田は言った。それは世辞せじではなかった。いいにおいだ。

美味うまくはないわよ。ラクだからよ。山ほど作って、無くなるまで食べるの。あたし料理って大嫌いだから」

 苛立いらだったふうな女は、眠いようだった。

 この女は事件と関係がない。ただのカンだが、刑事のカンだ。

「ねえ。まだ話すの? あたし寝たいんだけど……」

 居心地いごこち悪そうに、女はしきりと髪をかき上げてきた。

 島田は礼を言って、女の部屋から立ち去った。女は何も言わず、ただバタンと扉を閉めた。

 廊下にまでただようようにカレーのにおいがしていた。

 カレーが食いたくなったな。晩飯ばんめしは、カレーにするかと、島田は汗をきながら考えた。

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