第14話 家族 ――その①

そこまで話し終えると、治樹はふーっを息をついて天井を見上げた。

「俺はな、どうしていいか分からなかった。」

そう呟いた治樹の口調は、何とも言えない虚しさを宿していた。

「そりゃ、純一をこんな目に遭わせた先輩らを半殺しにしてやりたかったさ。もし、奴らがその後も何食わぬ顔で練習に参加し続けてたら、俺は間違いなくそうしたね。」

両拳に力がこもり、二の腕が盛り上がる・・・しかし、それは束の間の事だった。次の瞬間には治樹はだらりと肩の力を抜いて、老いた様に背中を丸めて項垂れた。

「世の中にはマンガのような分かりやすい悪党ってのはなかなかいないもんだな。

キャプテンは責任を感じたらしく、何も言わず静かに部を辞めてったよ。

残りの上級生は、自主的に始末書を纏めて監督に提出した。

監督はそれで充分だと判断して、この件を公にはしなかったから、純一の怪我は単なる事故って事にしかならなかったけどな。」

曲がりなりにも治樹の先輩たちは自らの過ちを認識し、償おうという態度を見せた。復讐するのもままならずに抱え込んだ悔しさや悲しみは、はけ口を失って体の中を暴れ回り、治樹は身が引きちぎられるような思いを味わった事だろう。

「奴らが反省してるのは分かるけどよ、だったら最初から馬鹿な事やるなよ!人一人の人生を台無しにしといて始末書で済むわけねぇだろ?

中途半端なところでイイコになりやがってさぁ!?

そんなの書いたって純一の脚が元に戻る訳じゃねぇんだ!!」

「は、治樹っ」

言葉の裏に込められた怒気が俄かに沸騰寸前の様相を見せ始めたのを感じて、僕はたまらず声を掛けた。

治樹はハッとしたように言葉を切って、僕の方を振り向きつつ悲しげに笑った。

「俺は、あいつらにとことんまで悪党であって欲しかったのかもな。我を忘れて殴りかかっていけるくらいに・・・

でもな、殴ったとしても結局無意味だったんだ。ホントに俺がムカついてたのは、自分自身だったんだからよ。」

僕はその言葉を即座には咀嚼し切れなかった。

「自分・・・自身・・・?」

どう考えても、治樹が自分を責めるべき要素は何一つ無いように思える。

「ああ、そうだ。

俺は先輩らに何を言っても無駄だと思ってたんだ。自分らの行為を反省する事くらいならできる連中だって最初から分かってりゃあ、じっくり話し合いをしていざこざを解消する道だってあったかも知れねぇのに・・・

そうしてれば、先輩らも制裁試合なんて発想にはならなかったかも知れねぇし、純一だって・・・」

それを聞いたとき、僕は初めて理解した。

西原が合唱部で問題を抱えたときに、それを敏感に感じ取り、何よりも当人たちで心を開いて話し合う事を重視した策を立案したのは、他ならぬ治樹だった。

きっと治樹は、新沼さんのお兄さんの様な事を絶対に繰り返したくなかったのだ。些細な嫉妬が切欠次第で大きな悪意に繋がるのを知っていたからこそ、看過できなかったのだろう。


「純一は、二度と部には顔を出さなかった。どうしようもない連中とつるむようになって、どんどん荒んでいったよ。」

治樹の話に出てくる新沼さんのお兄さんの姿が、僕の記憶にある彼の姿と徐々に重なっていく。

この話がこれ以上続かない事を心底願う僕・・・しかし、その思いはやすやすと打ち砕かれた。

「この前あった、あの集団飛び降り事件だけど、あのとき1人だけ生き残った生徒がいたって話は知ってるよな?

それが、純一なんだ。あいつはあの場に居合わせてたらしい。」

もちろん知っている。知っているどころか、僕もその場に居合わせている。

「あいつはそれ以来入院生活さ。見舞いには行ったけど、事件だけじゃなく、俺の事まで忘れてやがる。

皮肉な話だけど、俺は今のあいつに、出会った頃の生き生きしたあいつと同じような雰囲気を感じたよ。あいつにとっちゃあ、全て忘れてしまえたのは幸せだったのかもしれねぇって、そんな気すらした。

でも、何でだろうな。どうしてだか、あいつの顔を見てると寒気がするんだ。

あの頃のあいつと何が違うんだろうな・・・」

治樹は故意に事実から目を逸らしているのだろうか。本当は治樹も分かっている筈だ。

表面上はいくら前向きでも、彼の精神は自身の傷の痛みから逃げる事を選んだのだ。現実を拒否した彼の心に生じた大きな軋み・・・それが原因であろう違和感がもたらす気味の悪さに、病室で彼と対峙した僕もゾッとさせられた。

「あいつは、あいつはあんな目に遭わなきゃいけない様な奴じゃねぇんだ。」

搾り出された治樹の声が、鉛のように僕の胸に重くのしかかる。

「で、でも、その人は、不良とつるんで関係の無い人たちにまで迷惑をかけてたんでしょ?だったらっ・・・」

その反論は、僕のせめてもの抵抗だったのかもしれない。

出会った時の彼は、僕にとって理不尽な暴力の象徴の様なものだった。それが、治樹の話を聞いた事により、俄かに悩みを抱えながら苦しむ生身の人間としての色合いを帯び始めている。

もとより、あの日の自分を正当化するつもりは無い、しかし、だからといって全てを自分の責任として背負い込める筈も無い。

あの日手にかけた連中が、あたかも無人格の者たちの様に僕の記憶に仕舞い込まれていたのは、無意識の内に心の負担を和らげるような精神作用が働いての事だろうか。

死んでも仕方の無い奴らだという言い訳が、僕には必要だったのかもしれない。


治樹はしばしの間、僕を見つめたまま黙っていた。その瞳の奇妙な静けさに、僕は逃げ出したくなる様な居心地の悪さを覚えた。

「身から出た錆か・・・そういうところがあるのは否定しねぇ。何かの報復で喧嘩をふっかけられたってなら、仕方の無い事だろうな・・・」

そう言いつつ、治樹は今しがたの自分の言葉を否定する様に頭を横に振る。

「俺はな、事件があった時、グラウンドにいたんだ。悲鳴が聞こえて駆けつけてみると、頭がどうかなったんじゃねぇかと思うくらい凄まじい光景がそこにあったよ。

正直、吐きそうだった。集まってる中には実際吐いてる奴もいた。

その時は上に純一がいるなんて思ってもみなかったけどな。」

治樹は噛み締めるように言葉を紡いだ。


「喧嘩なんて生易しいもんじゃねぇ。あれは、“殺戮”っていうんだ・・・」


おぞましい響きを持ったその単語が、僕の鼓膜を不快に刺激する。

全身から、じわっと嫌な汗が滲むのを感じた。


「おーい!白峰くーん!鈴掛くーん!」

重苦しい空気を吹き飛ばしたのは、西原の元気のいい呼び掛けだった。売り場の陳列棚から顔と腕だけをこちらに覗かせて、ぱたぱたと両手を振っている。

「準備できたから、もう来てもいいよ~~!」

敵わないなと言いたげな表情で治樹はふっと息を漏らした。

「お前に当たってもしょうがない事だったな。すまん、忘れてくれ。」

そう言いつつ立ち上がり、「おう、今行く~~!」と返事を返す。

西原の明るさは、今の僕には何よりも有難かった。

纏わりつくような悪寒から解放された僕は、胸を撫で下ろしながら、治樹の後に続いた。


(うわっ、か、可愛い・・・)

店内を埋め尽くす洋服たちの影から表れた西原の姿に、僕は言葉が出なかった。

ブラウスの上に着ているのはブラウンのコルセット風ジャケット。ホットパンツにスニーカーを合わせ、斜めに被ったキャスケットがボーイッシュさを際立たせていた。

先程までの大人びたファッションとは打って変わって、西原の快活な魅力をそのまま形にしたようなコーディネートだ。

「あはっ、何だか男の子になった気分!」

弾んだ声でそう言うと、西原は腰に手を当てたポーズで胸を張ってみせた。

「へぇ~~!よく似合ってるじゃねえか!たかが着るもんでこんなにあっという間に印象変わるんだな。」

いかにも彼らしい感想を漏らした治樹は、肘で僕をつつきながら、「ほら、お前も何か言ってやれよ」と促す。

「え、えっと、その・・・か、可愛いと思うよ。すごく・・・」

やっとの事でそう口にすると、西原はぽっと頬を上気させて、肩を竦めながら照れたように「うふふっ・・・」と小さく笑った。

「正直感心したよ。あの涼子ちゃんって娘はなかなかの強敵みたいだな。」

治樹の言葉に、西原は微妙な表情をして言った。

「そうなのよね・・・褒めてくれるのは嬉しいけど、勝負として考えると涼子ちゃんに高いポイントがつくって事だから、ちょっとフクザツ・・・」

しかしすぐさま「でもっ!」と明るい声で断言する。

「今回の涼子ちゃんへのコーディネートは私の自信作だから、絶対私の勝ちだよ!」

自信たっぷりの口調だが、当の涼子ちゃんはというと、先程から一向に姿が見えない。

「それで、その涼子ちゃんはどこ?」

僕の問いに対し、西原はフィッティングルームの方を見やると、ぷうっと頬を膨らませた。

「もうっ、いつまでそこにいるの?」

視線の先を追うと、そこには仕切りカーテンの隙間から覗く涼子ちゃんの顔があった。

「あの、先輩、ホントに出ていかなきゃダメですか?」

「当たり前じゃない。私だって涼子ちゃんの選んでくれた服を着てるんだよ?恥しさは一緒だって。」

「でも・・・この服は、ちょっと、その、反則です・・・」

なおも抗議を口にする涼子ちゃんに痺れを切らしたのか、西原はつかつかと涼子ちゃんの方に歩み寄り、その腕をぐいっと掴んだ。

「ほーら、観念しなさい!きっと気に入って貰えるから!」

ずるずると引き摺り出される涼子ちゃん。露になったその姿を見て、僕はあまりの可憐さに息を呑んだ。

(・・・こ、これは・・・たしかに、反則かも・・・)

パニエとティアードフリルスカート、フリルブラウスの組み合わせが、まるでおとぎ話から飛び出てきた人形の妖精のようなキュートさを振りまいている。

袖や襟周り、スカートのフリルは純白でありながら、全体としては黒を基調としていて、元々履いていた黒のニーソックスにもピッタリだ。

それらを身に纏っている涼子ちゃん本人は、いかにも恥しげに胸元を両手で覆い、小さく体を縮めている。

身悶えするようなその仕草1つ1つに、僕は眩暈がしそうなほど心惹かれた。

「はーっ、これはまた・・・」

治樹は絶句すると、呆れたように首を振った。

「こういうのが敵に塩を送ってるって言うんだよ。」

その呟きに西原が反応する。

「んー、何か言った?」

「いーや、何でもねぇよ。」

ひらひらと手を振りながらそう返す治樹。もはや何を言っても無駄だという心情が態度に滲み出ている。その間、僕はというと、ただただ涼子ちゃんの姿に見入っていた。

ややあって、僕の視線はおずおずと見上げてくる涼子ちゃんの瞳とかち合った。思わず目を逸らしてしまう僕。

「やっぱ、こんなの、ガラじゃないよね。笑っちゃうでしょ?」

自嘲気味の笑みを浮かべて俯く涼子ちゃんの、消え入りそうなその言葉を、僕は力一杯否定した。

「そ、そんな事無いって!ビックリするくらい似合ってるよ!ホントにっ!」

思いの外大きな声になってしまい、むしろ涼子ちゃんの方が驚いたように目を丸くした。

「・・・うそ・・・そんな訳無い・・・」

「嘘じゃないよ!何だか、その、お姫様みたい・・・」

「やっ、やだ・・・もう・・・」

もじもじと落ち着かない涼子ちゃんの様子からは、普段の勝気な雰囲気が丸ごと消え去っていた。こんなにしおらしい涼子ちゃんは滅多にお目にかかれない。

「だーっ!こっちまでむず痒くなるようなやり取りするんじゃねぇっ!」

そう喚きながら割り込んできた治樹が、「それより、やっとかなきゃいけない事があるだろ」と渋い顔で言う。

「え?しなきゃいけない事って?」

僕の質問に溜息を吐く治樹。

「ジャッジだよジャッジ。勝負ってんだから勝敗つけなきゃダメだろ?」

「え・・・そんな事言ったって、どうすれば・・・」

「オレはパスだ。ファッションとかよく分からねぇからな。お前が決めてくれ。」

無責任に言い放つ治樹に、僕は縋り付きながら抗議した。

「ま、待ってよ!ちょっと・・・卑怯だよ!僕に決めろだなんて、そんな・・・」

「いいからやれよ。お前の為を思って言ってるんだ。今の内から選ぶ事に馴れといたほうがいいと思うぞ。」

僕の目をじっと見ながら治樹が紡いだ言葉は、僕にはイマイチ意味の理解できないものだった。

途方にくれて佇んでいると、ぱんっと手を打つ小気味のいい音が聞こえた。振り向くと、そこには西原のニコニコ顔があった。彼女は司会者のような言い回しで適当な進行の言葉を口にする。

「それでは、結果発表です!審査委員長の白峰さん、どうぞお願いします!」

その前振りを受けて、僕はいよいよ決断に迫られた。

「え、えと・・・」

正直、どうしていいか全く分からない。自分が他人を品評するなど分不相応も甚だしい。しかし、置かれた状況が、僕のだんまりを許してくれそうにも無かった。

目の前では、西原がおどけた様子でポーズを取っている。その傍らで、涼子ちゃんは相変わらず体を隠すようにして小さくなっている。

爆発しそうな頭を必死に働かせながら、僕は下すべき判定に考えを巡らせた。

そもそも、自分の評価なんて彼女たちにとっては取るに足りないものの筈じゃないか・・・

ふと、僕はそう思い至った。それで彼女たちが喜んだり傷ついたり、などと考えるほうが思い上がりだ。ゲームだと割り切って気軽に勝者を告げればいいものなのかもしれない。

そこで僕は、もう1つの認識違いに気付いた。そういえばこれは、どちらが可愛いかの勝負ではなく、どちらが相手を上手くコーディネート出来たかの勝負なのだ。

一方の可憐さを称えれば、それは同時にもう一方のセンスの良さを称える事になる。そういう意味では、このゲームに敗者は存在しないのかも知れない。

瞬時の思いつきの筈なのに、どう転んでも遺恨が生じないようなゲームを提案するところが西原らしいとも言える。何だか、色々と思い悩むのが馬鹿らしい気がしてきた。

受けた衝撃の程度を考えると、僕の中で勝者は自然と導き出された。その直感に従い、僕はより魅力的なファッションを選び出した少女を指し示すべく、手を振り上げた。

「そ、それじゃ、発表します。勝者・・・」

まさにその時、僕の視界に西原の微妙な表情が飛び込んできた。

それは、寂しげな笑みだった。

どう表現すればいいだろうか・・・その笑みは一種の諦念を帯びているように僕には感じられた。

一体何を諦めるというのか、僕にはサッパリ見当がつかないし、第一ただの思い過ごしかもしれない。

それでも、僕はその笑顔を見て胸がきゅっと締め付けられる様な切なさを味わい、振り下ろす腕を咄嗟に軌道修正した。


「勝者は、2人ともっ!」


僕の指先が向けられたのは、西原と涼子ちゃんのちょうど真ん中にあたる何も無い空間。

「・・・て、オイ!」

傍らの治樹が、効果音が聞こえてきそうなズッコケのリアクションを取りつつツッコミを入れてくる。

涼子ちゃんの虫でも見るような半目の視線が痛い。

西原すら、あからさまな呆れ顔である。

「い、いや、だってさ、西原のボーイッシュな格好も新鮮だったし、涼子ちゃんのお姫様みたいな格好も、その、良かったし・・・

ほらっ、2人並ぶと中世貴族の兄妹みたいで、だからっ・・・」

必死に弁解しようとするも、僕の口からはしどろもどろに言い訳がましい言葉だけが零れていった。

「はあっ、でもこういうのって白峰くんらしいよね。」

溜息を吐きながらそう漏らす西原の表情は、口調とは裏腹に晴れ晴れとしたものだった。

そこからは、先程の様な寂寥感は窺えない。

「確かに・・・」

そう呟きつつ、涼子ちゃんは笑いを噛み殺しきれずにくくくっと喉を鳴らしている。

「お前なぁ、2人の寛大さに感謝しろよ。」

僕の肩をポンポンと叩きながらそう口にする治樹。

何というか、自分の事が物凄く情けなく思えてくるが、結果的に空気が和んだのであればよしとすべきだろう。

「それはいいとして、勝者2人ともって言うんなら、景品も2人ともにあるって事だよな?」

治樹が少し意地の悪い口調で言う。

「え、景品って・・・」

「簡単だよ、2人がお互いに選んだあの服を買ってやりゃあいいんだ。」

「・・・う・・・」

「そんな!そこまでしてもらうのは悪いって!元々私が言い出した事だし・・・」

西原が慌てた様子で遠慮の言葉を並べる。

「ま、まあ、2人にはこの前も付き合ってもらってるし、それくらいはさせてよ。」

「でも・・・」

「こういう時は黙って受け取っとけばいいんだよ。たまには龍輔の侠気を立ててやれって。」

治樹の説得に、西原は心苦しそうに項垂れた。

「今度、絶対お返しするからね!」

そう力説してくれるのがちょっと嬉しい。

女の子に服を買ってあげるなんて柄じゃないとは思うが、自分が買った服を2人が着ているところを想像すると、懐の痛みも大して気にならなかった。

それに、料金の3分の1程は治樹が出してくれた。

「受賞者を2人出したのはお前だからな、後の支払いはお前が責任取れよ。」

口ではそう言っているが、治樹が半額出さないのはケチだからでは無く、あくまで僕を主役に据えるつもりらしい。全く余計な気遣いだ。


そうこうしている内にお目当ての映画の上映時間が迫ってきたので、僕らは急いで映画館の方に向かった。

今回観たのは、“アバターの消失”というSF映画である。何の変哲も無い男子高校生がある日突然アルファ・ケンタウリに飛ばされ、日常を取り戻そうと奮闘する中で、初めてクラスメイトの1人の女子に対する想いを自覚するという内容だ。

巧みな心理描写にぐいぐいと引き込まれ、僕はついに堪え切れなくなった涙を慌てて拭った。

隣の西原は、肩を震わせてぼろぼろと泣いていた。治樹に至っては、微かな嗚咽の声すら聞こえてくる。

涼子ちゃんも、時々やや顔を上向けながら、長めの瞬きをしている。どうやら必死に涙を押し留めているらしい。


映画が終わると、クシャクシャの顔をした西原と治樹はすぐさま化粧室へと消えていった。ロビーには、僕と涼子ちゃんが取り残される形となった。

「龍輔さんも泣いてたでしょ。顔でも洗ってくれば?」

「そんな事言ってる涼子ちゃんだって、目、赤いよ。」

「これは・・・ちょっと・・・眠かったから・・・」

そんな強がりを言う涼子ちゃんが面白くて、笑いがこみ上げてくる。

「ふふっ、うくくっ」

涼子ちゃんが怒り出すのではないかと少し心配だったが、杞憂だったようだ。彼女も僕につられてクスクスと笑っている。

「ねぇ、龍輔さんは今の日常がある日突然失われたとしたらどうする?元の日常を取り戻す為に戦う?」

映画の内容に絡めて涼子ちゃんがそんな事を訊いてきた。

「そうだね・・・」

しばし思案した後に、僕は纏まらない考えを言葉にしていった。

「その時に、日常の方から僕が拒絶されてるとしたら、ちょっと分からないな・・・いっそ自分に与えられた世界で生きていく方がいいと思うかもしれない。」

例えば治樹や西原と出会う前の僕であれば、迷わず新しい世界の方を選択する気がする。

「確かに・・・元の世界に、自分を待ってくれてる人がいるって確信できないと、戦い続ける事なんて出来ないよね・・・そういう人がいるとしても、自分が帰る事でその人に迷惑がかかるとしたら、やっぱり考えちゃうかも。」

涼子ちゃんの同意は、何かしらの回想を含んでいるようにも感じられた。複雑な生い立ちを持つ涼子ちゃんの事だ、きっとそこには僕の窺い知れない思いが込められていたりするのだろう。

「で、でも、涼子ちゃんが居なくなったら太田先生が悲しむだろうし、僕だって、その・・・寂しいよ。」

いたたまれなくなってそう言うと、涼子ちゃんはニッコリと笑った。

「あはは、ありがと。仮定の話だからそんな顔しないで。

それに、大丈夫だよ、私・・・」

不意に涼子ちゃんが見せたのは、胸が詰まるような、物憂げな表情。


「私、ひとりぼっち慣れてるから。」

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