第六話 トレーニング中、萩野実夏

 ガチッ、ガチッ、ガチッ。

 萩野実夏はぎのミカが両手にそれぞれ持ったハンドグリッパーを握る音が夕方前の電車の中で軋む。

 だが電車の震動に紛れてか、乗り合わせた人たちがそれを怪訝に思うことはなかった。


「電車の中でもやってるの?」


 共に下校した吉原由奈よしはらユナがため息混じりに問いかける。

 実夏は今朝からずっとハンドグリッパーを弄っているのだ。授業中は流石にやっていないが、それ以外の時間では隙あらばガチガチと赤いプラスチックのハンドルを握り締めていた。


「少しでも早く役に立ちたいからね」


 なぜ突如としてそれを使い始めたのかを問えば、彼女はそう答えた。今回もまた然りだ。


「ねえ、そのバイト大丈夫なの? ちゃんと身の丈にあった仕事を選んでる?」

「もー、学校にいる時もずっとそれ言ってたじゃない。由奈ちゃんは心配性だなぁ」

「アタシはあんたの心配をしていて……!」

「だから大丈夫だって。先輩たちも優しい人ばかりだし。……あ、私この駅だから。また明日ね、由奈ちゃん」

「ちょ、ちょっとミカ!」


 電車が徐々に速度を落とし、駅に到着すると扉を開いた。

 由奈に笑顔で振り返った実夏は駅のホームに降り立つと、そのまま脇目もふらずにせっせと駆け出してしまう。

 彼女を呼び止めようと伸ばしかけた由奈の右手は中途半端に虚空を撫でた。

 それから間もなくして警笛が鳴り響いて電車全体が息を吐くように扉を閉めると、視線の先に映る小さな背中はもう見えなくなってしまった。


◆ ◆ ◆


 スポーツジムの地下はRIDE専用の特殊設備だが、上階はもちろん一般人向けの設備だ。

 そこでグルグルとベルトコンベアを回転させ続けるランニングマシンの上を実夏は走り続けていた。

 動きやすいジャージに着替え、マシンの出力は自分の体力に合わせてそこそこに。

 ライドデルタ専属のオペレーターの久保田華澄くぼたカスミの助言を受け、彼女の編んだトレーニングメニューを着実に熟す。

 自分の技量を越えたトレーニングは逆効果になってしまう。

 塵も積もればなんとやら。出来ることからコツコツと積み上げていくことが大切なのだ。

 そうしてしばらく走り続けていると、そろそろ息が切れてきた。

 そろそろ休憩しようか。いや、まだ大丈夫だ。まだ走れる。

 ベルトコンベアを蹴り上げる実夏の足は心なしか段々と加速していく。

 心臓の鼓動と口から漏れる荒い吐息が鼓膜に響く。汗で濡れた服が肌に張り付いて気持ち悪い。

 それでも、実夏の足は止まらない。目に見えるのは正面の窓ガラスだけ。他には何も見えないし聴こえもしない。頭の中で何も考えない。

 実夏は疲労も忘れて、ただひたすら走ることに集中していた。


「精が出るわね」

「は、晴崎さ……うわぁ!?」


 様子を見に来た晴崎四葉はるさきヨツバの声で我に還った実夏はペースを乱してよろめくが、慌ててランニングマシンの手すりに掴まり、体勢を立て直すことで事なきを得た。


「……大丈夫?」

「だ、大丈夫、です!」


 手すりに掴まりながら、実夏は苦笑いで答える。その間もベルトコンベアは回り続け、実夏の足は忙しなく走っていた。


「えっと、何かありましたか?」

「いいえ、ただ様子を見に来ただけよ。……頑張ってるみたいね」

「ありがとうございます。でも、まだまだです。これで体力をつけても、まだまだ鍛えなきゃいけないところがありますから」

「そう。その心意気は良いけど、少しは休憩したらどうかしら。身体を壊したら元も子もないでしょう」

「あはは……じゃあ、そうしますね」


 師匠にそう言われてしまったら仕方ない。

 実夏がマシンの電源を切ると、ベルトコンベアは静かに停止した。


◆ ◆ ◆


「はぁー……」


 ペットボトルから口の中へと流れ込んでくるスポーツドリンクの冷たさが、実夏の乾ききった喉を潤す。

 休憩所のベンチに腰掛け、全身に染み渡る涼しさにホッとため息をついた。

 そしてタオルで首筋の汗を拭いながら、実夏は顔を上げて正面を見据えた。

 自動販売機で買った缶コーヒーを飲む四葉。

 長い髪を後ろでひとつに束ねた彼女からは、着こなしたスポーツブラとタイツの間から適度に鍛え上げられた腹筋が覗く。

 そんな彼女の立ち姿は基のスタイルの良さもあって大変凛々しいが、やはりトレーニングに励むOLにしか見えなかった。

 すると実夏は、おずおずと口を開いて疑問を投げかけた。


「あの、戦うのは、怖くないんですか?」

「……怖くないと言ったら嘘になるわね。戦いは死と隣り合わせ……下手したら命を落とすわ。でも、泣き言を言ったところで何にもならない。だったら黙って戦うしかないのよ」

「そこまでして戦うのは、やっぱり、お金のためなんですか?」


 実夏のその問いを聞いて言葉を詰まらせた四葉は、彼女から目を逸らした。

 悪いことを聞いてしまったか。実夏がそう直感して謝ろうとした時、四葉はそのまま口を開く。


「……ええ、慈善事業じゃなくて仕事だもの。私はこれでお金をもらっている。失望したかしら」

「いえ、晴崎さんは先日もはっきりと『仕事』だと仰っていましたし、それに晴崎さんはわたしの憧れですから!」

「そ、そう……」


 恥ずかしげもなく、よくそんなことを言えるな。

 実夏の屈託のない満面の笑顔を見た四葉は、照れ隠しかため息をついた。


「あ、でもそれじゃあ、わたしを受け入れたのは……?」

「ライド部隊は数が足りないから。他のメンバーは現在は日本各地で活動しているけれど、やはり一人だと戦いが厳しくなってしまう」

「ああ、他にも三人いますものね。アルファにベータにガンマ……いつか会ってみたいなぁ」

「貴女が努力を続けていれば、いつかきっと叶いますよ。……ただ、アルファは別ですが」

「え?」


 後半部分がぼそぼそとよく聞こえず、実夏はそれを聞き返そうとした。

 だがその時、どこからともなく音楽が聴こえてきた。年末の歌番組などで聞き覚えがある演歌のサビ部分だ。

 すると四葉が傍らに置いていたカバンからスマホを取り出し、その着信に応答した。


「はい、晴崎です」

『四葉ちゃん、出動よ』

「わかりました。場所は?」


 受話器の向こう側から聴こえてきたのは本部で待機していたオペレーターの華澄だった。

 四葉は彼女からの指示を聞きながら仕度を整えると、実夏に着いてくるよう手で合図してせっせと休憩所から出ていった。

 すると実夏も慌ててそれを追いかける。

 更衣室で普段のスーツに一分足らずで着替えた四葉は、そのままスポーツジムを後にした。一方で実夏は着替える余裕がないため、荷物をまとめるだけだ。

 そうして駆け足で移動した二人はスポーツジムの脇にある駐輪場に停めた一台のバイクの前で立ち止まった。

 シルバーとブラックが基調となっているスタイリッシュなスーパースポーツタイプ。

 フルフェイスのヘルメットを頭に装着した四葉はもうひとつのヘルメットを実夏に投げ渡した。


「え……?」

「現場研修よ」


 戸惑う実夏を余所に、バイクに跨った四葉はキーを捻ってエンジンを入れた。


「早く!」

「は、はい!」


 怒鳴られた実夏は時間が迫っていることを悟り、急いでヘルメットを装着して彼女の後ろに座った。

 バイクに乗るのが初めての実夏は、シートの硬さと全身に響くエンジンの震動に驚く。


「しっかり掴まっていなさい」


 その指示に直感的に従い、実夏は四葉の胴に両腕を回して抱き着いた。

 背中にヒシと密着してきた感触に四葉は驚くが、「これなら振り落してしまうことはないだろう」とすぐに気持ちを切り替えてハンドルを切る。

 すると、二人を乗せたバイクは地鳴りのような爆音を轟かせながら道路に飛び出すのだった。


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