紬 蒼

序章

第1話 匣

「絶対に開けないで下さいね」


 男は念を押すように、再度きつくそう言った。

 古びた小さな黒いはこを座敷の隅に丁寧に置いて、男は何度も匣を振り返りながら席を立った。

 私は何が入っているのかあまり興味はなかったが、男が何度も匣の中身を気にするので、少し気になった。

 まるで鶴の恩返しや見るなの座敷のような展開だ。

 どちらも部屋を覗くな、と言われて結局は見てしまう。

 そして、どちらの話も見てしまったが為にささやかな幸せさえもが壊れてしまうのだ。


 私は杯に残っていた酒を一気に飲み干す。

 頭がぼうっとしてきた。

 少し酔ったか。


「もし……」


 ふと、声が聞こえた気がして、周囲を見回すが誰もいない。

 気のせいか、と思ったが。


「もし……」


 今度ははっきりと女の細い声がした。

 それは座敷の外からではなく、中からだった。

 だが、どこにも人の姿はない。隠れられる場所もない。

 酔った為の幻聴か。


「もし……助けて下さいまし……」


 声は……あの匣からした。

 小さな黒い……掌に載る程度の大きさの。

 私は驚いて酔いが覚めた。


「助けて下さいまし」

 細い声がそう繰り返した。

 哀しそうな声音に私は後退去ろうとした身体を止めた。

「開けてここから出して下さいまし」

 女は悲痛な程に懇願する。

 だが、私の頭にふと男の言葉が蘇る。


「絶対に開けないで下さいね」


 男はそう何度も念を押していた。

 そう言えば。

 私はふと考える。

 私はあの男とどこで知り合ったのか。

 気がつくとここで一緒に呑んでいたように思う。それまでの経緯が思い出せない。

 こんな高そうな料亭の個室にどうやって入ったのか。

 慌てて財布を確認するが、いつ見たって中身は空に近い。

 あの男が誘ったのだろうから、払ってくれるといいのだが。

 どういう経緯でここに入ったのか、やはり思い出せなかった。

 確かに酒はかなり呑んでいるが、今まで酒で記憶を飛ばしたことは一度もなかった。


「あなたの記憶をお預かりしております。だから」

 開けて下さいまし。

 女は私の考えを読んだかのようにそう言った。

「記憶を……?」

 私がそう問うと、はい、と女は答えた。

「記憶だけではございません。あなたの大事なものもお預かりしております」

「大事なもの……? どういうことです?」

「あの男はこの匣に人のモノを全て封じてしまうことができるのです。私もここにもうずっと入れられております。だからここを開けて下さいまし。そうすれば全てを取り戻せるのです」

 女の言葉に私は後退去ろうと後ろに着いた手を前に着き、そのまま四つん這いに数歩、匣に近寄った。


「そんなことが本当にできるのですか?私にはとても信じられないのですが……」

 まだ、自分が酔って幻聴を聞き、夢を見ているような感覚でしかない。

 そう、これは夢なのではないのか?

「あれは人ではありません。人の姿をした鬼です」

「しかし……私にはあの人よりもこんな匣に入っているあなたの方が……」

 私がそう言うと、女は僅かに沈黙した。


「……私は……もう人ではないのかもしれませんね」

 ぽつり、女はそう呟いた。

「この匣の中は不思議な場所なのです。ここにいる間は歳も取らず、食事も摂らずにいます。それでもこうして生きています。だからもう……私は人ではなくなったのでしょう」

 静かな声に、私は女がとても可哀想に思えてきた。

 匣に手を伸ばしかけ、けれどその手が止まる。


 私は躊躇う。

 どちらが真実なのだろうか、と。

 女の言葉はとても悲痛だが、これを夢以外のものとは信じられない。こんな不思議なことは現実的ではない。

 だが、私の記憶がないのも確かなことだ。そして、私の大事なものとは何なのか。


「大事なもの、とは何なのですか?」

 再度問う。

「……開けずにいればあの鬼が戻って来てあなたを食べてしまいます。ここに戻って来るまでに一緒に逃げましょう。私は出口を知っております」

「私を食べる……?」

「はい。人を食べるために記憶を奪い、抵抗できないようにしてしまうのです。あなたにはあの鬼が人に見えるのでしょう? そして、信用してしまっているのでしょう?」

 確かに。

 女の言う通り、私はあの男を信用している。

 楽しく酒を酌み交わして、良い気分だ。

 だが、食われるとなれば抵抗する。

 それにもし女の言うようにあの男が本物の鬼だとすれば、鬼の怪力の前では私など赤子も同然ではないのか。

 わざわざ抵抗できなようにする必要があるとは思えないし、怪力でなくとも何か刃物なり何なり出されれば、こちらに勝ち目はないのだ。

 だから、女の言よりも男の方が余程現実的だと思う。

 それにそもそも匣から声がするなど、悪酔いもいいところだ。


「……匣にいるような女の戯言と、信じてはくれないのですね」

 またも女は私の考えを読んだようにぽつりと言った。

 女の方が鬼なのではないか。

 だが、すすり泣く声が聞こえ始めると、私は迷い始めた。


 女は男が私を匣に封じると脅し、男は匣を開けるなと警告した。

 匣の中にいるのは何なのだろう。

 この手の話は大抵開けてはいけなかった、と後悔するものばかりだ。なら、私も開けない方がいいのだろうか。


「開けて下さいまし」


 女は後生です、と再度懇願する。

 その声はとても美しい女を想像させる。中を見たい欲求を駆り立てる。


 私は。

 匣を、開けた。


***


「おや、気がつきましたか」

 気がつくと、男が愉快そうに笑って私を見下ろしていた。


「いや、私が帰って来ると潰れてるようでしたので、驚きましたよ」

 そう言って男はちら、と座敷の隅に目をやり、

「匣を開けないで下さってありがとうございます」

 と言った。


 私は起き上がり、匣を見やった。

 匣の蓋は閉まったままだった。よく見ると、同じ黒い色の紙で封がしてある。

 私はやはり夢を見ていたのだろう。


「そろそろ夜も更けて参りました。もう丑の刻だ。今宵はこれにてお開きにして、また呑みましょう。あなたと呑むのはとても楽しかった」

 男は快活にそう言って笑い、匣を手に座敷を出て行った。

 私はその場に一人残され、しばらくぼうっと座していた。

 かなり酔っている。

 頭が少し痛い。


「ありがとうございます」


 どこかで女の声がした。そんな気がした。

 多分幻聴だ。

 そう思ったが、振り返ると女がそこに座していた。


「本日はありがとうございます。表に車を用意してございます」

 ああ、この店の者か。

 一瞬ドキリとした。匣から女が出て来たのかと思ったからだ。

 女はにこり、と笑み、お気をつけて、と静かに言った。

 私はのろのろと立ち上がり、一度ふらつきながら座敷を出た。

 女は私の後からついて来る。表まで送る気なのだろうが、普通は女が先に立って案内するものなのではなかったか。

 表まで来た時、


「お預かりしていましたものをお返し致します」


 そう女が言った。

 私がえ?と振り返った時、そこには誰もいなかった。


「どちらまで?」

 車夫にそう訊かれ、私は現実に引き戻される。

「私の後ろに誰かいませんでしたか?」

 行き先を答える前にそう車夫に訊くと、車夫はいえ、誰も見ませんでしたが、と答えた。


***


 車の中で私は思い出す。

 道端で男に声をかけられた。


「酒をおごってやるから賭けをしないか?」


 確か男はそう言ったのだ。

 私は一度は断ったのだが、男が強引にこの店に私を引き入れ、まず鶴の恩返しと見るなの座敷の昔話をした。

 なんでこんな子供に聞かせるような話をするのだろう、と私が不思議に思っているところに、男はあの匣を出して、


「絶対に開けないでいられるか?」


 そう言ったのだ。


「開ければお前の負けだ。大事なものを失うことになる。だがもし開けずにいられれば、お前の勝ち。お前の望むものをやろう。どうだ?」

 男は確かそう言った。そう言ったのだ。


 簡単だ、と思った。

 望むものは金でも女でも何でも好きなだけ与えてやると言った。

 うまい話があったものだ、そう心の中で笑ったものだ。

 だが、開けずにいたのにあの男は何もくれずに店を先に出た。

 望むものを与えるのが無理だったのだろう。

 タダ酒を飲めただけでも良しとすべきか。

 それにしても、私の大事なものとは結局何だったのか。

 記憶は戻っていた。

 そう考えると、女の言うことが正しかったのかもしれない。


 けれど。

 そうなれば私の負けとなる。本当に開けてしまったのだろうか。

 それにもう一つ。大事なものは戻ってきたのだろうか。

 やはり、酔った際に見た夢なのだろうか。


 だが。

 何か気になる。


「着きましたよ」


 車夫の声に私は車を降りる。

 だが、目の前にあるのは私の家ではなかった。


「お待ちしておりましたよ」


 あの男が。


「開けたあなたの負け。何度も話して聞かせて差し上げましたのに」

 さも残念そうな声で言ったが、顔はとても嬉しそうだった。

「人というのは愚かですなぁ」

 男が笑う。


 大事なもの。

 それは、命か。


 私の視界はそこで暗闇の中に消えた。


***


「難儀な匣だと思ったが、案外簡単なものだな」

 男はそう言って匣を振った。


「賭けをせねば匣に人の魂を入れられぬとは面倒だと思ったが、記憶を奪ってちょいと声音の良いのを使って騙せば幾らでも釣れるとはなぁ」

「良い匣を手に入れましたな」

 車夫が下賎な笑みを浮かべる。

「ま、約束だから仕方ない。他でもない火嶺かりょうとの約束だしな」

「アレは裏切り者、半端者ですぜ?」

「だが、今のご時世、食事には困るからな。目立って狩られるのは嫌だろう? コレがあれば、魂を貯蓄することも可能だ。単純に賭けをやっていれば五分五分だが、騙せば百発百中よ」

 そう言って男は車夫と共に豪快に笑った。



「絶対に開けないで下さいね」


 男はそう念を押して席を中座した。

 残された者は。


「開けて下さい……」


 男の懇願を聞いた。

 躊躇うその手は。

 開けるか、否か。

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