第24話 R&B

 坂田は帰る気がまるでないらしい。真夏とは言え二十時を過ぎれば当然外は真っ暗である。すでに斉木の薄暗い部屋には間接照明が灯され、エアコンの風に揺れる大きなアロカシアの葉が踊るようにその影を壁に落としている。

 いつものようにソファの背もたれの上にその長い腕を無造作に乗せた斉木は、坂田がそれを腕枕のようにして寄り添ってくるのを見ながら好きにさせておいた。そのまま坂田の肩を抱き寄せたい衝動に駆られたが、そんなことをしたらあっさり暴走してしまいそうで恐ろしくて動けなかった。

 二人はコーヒーを飲みながら、ぼんやりとロビン・シックの甘いファルセットに耳を傾けていた。

「R&Bも偶にはいいだろ」

「斉木」

「ん?」

「もしも僕が、心も女になってしまったらどうする?」

 斉木はチラリと坂田を見るが、すぐに目を逸らす。

「別に。特に何も変わらないよ。男だろうが女だろうが、俺にとっては『坂田』だし。それ以上でもそれ以下でもない」

「そっか」

 何でも無い事のように言ってはみたが、斉木の心の中は全く持って穏やかではない。坂田が心まで女になったら、正真正銘の女子じゃないか。普通の女子と普通に恋愛ができる事になる。斉木にしてみれば願ったり叶ったりだ。

 だが、斉木がそれを坂田に言う訳にはいかなかった。まるで坂田が女になる事を望んでいるように聞こえてしまうだろう、そう思うと絶対にそれだけは言ってはいけないと思えたのだ。

 坂田は自分の生きたい性別で生きるべきなんだ。今まで十五年間も心の性別を偽って生きてきたんだ、これからは坂田の生きたいように生きればいい。その為なら、斉木はいくらでも坂田を守ってやろうと思えた。

「ワイン、飲みたいな」

「どうした、目覚めたか?」

「うん。この前、美味しかったよ」

「じゃ、ちょっとだけな」

 斉木が立とうとすると、その腕に寄りかかっていた坂田が少し重心を移動する。長い睫毛がドキッとするほど綺麗だ。

 斉木が二つのグラスとワインを持ってくる。バタフライスクリューを刺してキュッと捻る。その様子を坂田はじっと見守っている。

「慣れたもんだね」

「ん? ああ、まあそうだね。今日のはちょっといいワインだから旨いと思うよ」

「楽しみだよ」

 トクトクトクと軽やかな音をさせながらグラスに淡い黄色の液体が注がれていく。今日は二つとも最初から半分ほど注いでいる。

「あ、そうだ、いいものがあるんだった」

 斉木は戸棚から缶詰を出してくる。

「これ、牡蠣の燻製。こっちは白オリーブ」

「アンチョビ詰めか。本格的だね」

「まあね」

 二人でグラスを傾ける。今日は二度目なせいか、坂田が景気よく飲んでいる。斉木は少し心配になってくる。コイツ、悲惨な事ばかりあって飲まずにいられないんじゃないだろうか、と。

「お前あんまり飲み過ぎんなよ? まずは牡蠣食え。抹茶だって先にお菓子食うだろ?」

「斉木詳しいな。なんでそんなこと知ってんの? お茶やってた?」

「いや。俺、海外に演奏旅行とか行ったりするから、日本文化ネタいろいろ持っておくんだよ」

「ふーん。……そうか、斉木は演奏旅行で海外に行くことがあるのか。……海外という手があったか」

 坂田は何を考えているのか、妙に納得した様子でうんうんと頷きながら、グラスを口元に運ぶ。

「おかわり」

「え? ちょっとペース速くね?」

「そんな事はないと思う。まだ全然なんともない」

「強いなお前」

 斉木がグラスにワインを注いでやると、坂田はニコッと笑って普通に飲んでいる。しかし油断はできない。坂田はまだまだアルコール初心者だ。斉木はチラチラと坂田を見ながら飲んでいた。

 不意に、坂田がグラスを置いた。

「なぁ斉木。聞いてほしい事があるんだ。」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る