台所には、未名が立っていた――

 いつも通りの、家の居間だった。朝のまだはじまったばかりの時間の中で、いろいろなものの存在がぼんやりとしている。窓の外から聞こえる鳥の声だけが、やけにはっきりしていた。

「おはよう、ハル。今日もいい天気になりそうね」

 と、未名は言った。太陽よりも少しだけ早く朝を告げる、その笑顔を浮かべて。

「――うん、おはよう」

 ハルはパジャマ姿のまま、テーブルのイスに座った。用意されていたコップに、牛乳を注ぐ。

 そのあいだ、未名は台所で鼻唄を歌いながら料理を続けていた。ハルは牛乳を飲みながら、何となくその姿を眺めている。

 ちょっと癖のかかった髪は、今は邪魔にならないようにくくってあった。動作の一つ一つが軽快で、まるで何かの楽器を奏でているみたいでもある。表情は明るく、新鮮で、保存のために加工された形跡がなかった。その瞳は、見られているだけで温かくなりそうなまなざしをしている。

 それはいつもの、未名の姿だった。

 いつも通りの――

 ハルが牛乳を飲み終えてしまう頃、未名が朝食を運んできた。

 いただきます、と言ってから、ハルはそれらを口にする。朝食を食べるにつれ、体が徐々に朝に慣れてくるようでもあった。未名もその前で、自分の食事を進めている。

「……そういえば、夢を見たんだ」

 不意に、ハルはそんなことを言っていた。

「へえ、どんな夢?」

 未名は興味深そうにハルのことを見つめる。

 それがどんな夢だったかを説明しようとして、けれどハルは何の言葉も出てこないことに気づいた。自分がどんな夢を見ていたのか、ハルにはうまく思い出せなかった。つさっきまでは、あんなにはっきりと覚えていたはずなのに――

「どうかしたの、ハル?」

 訊かれて、ハルは首を振った。

「……ううん、もう忘れちゃったみたい」

「変なハル――」

 未名はそう言って、おかしそうに笑った。

 やがて恭介が部屋から起きてきて、二人のテーブルに加わった。未名は恭介のぶんの朝食を準備するために、台所を行ったり来たりしている。それは確かに、いつも通りの母親だった。彼女が朝を連れてきてくれる。

 そう――

 何に違和感があったのか、ハルは気づいた。それは夜空の星が数ミリだけずれているような、ごく些細なことではあったけれど。

「母さん、何だか歳をとった?」

 言われて、未名はちょっと嫌そうな顔をして手をとめる。

「あんたそれ、罰金ものよ――」

 そうして未名は小さく笑いながら、ハルの頭を軽く小突いてみせた。


 中学校までは自転車だった。ごく普通の通学路で、怪物の棲む洞窟もなければ、頑固な渡し守や頭の三つある犬がいるわけでもない。ハルは自転車に乗って、ペダルをこぎはじめた。風景が動きだして、風が流れていく。

 途中、横断歩道で待つ小学生の一団といっしょになった。子供たちは巣の世話をするミツバチみたいに一塊になっている。

 やがて信号が変わると、子供たちは手を離された風船みたいにいっせいに駆けだしていった。向こう側で、先頭の子が誇らしげに後ろを振り返る。彼は自分の作った景色に満足しているようだった。

 学校に着くと、ハルは駐輪場に自転車をとめて、何人かの知りあいと挨拶しながら三年の教室に向かう。自分の席に着くと、隣にいた女子生徒が話しかけてきた。

「――ねえ、昨日の数学の宿題やってきた?」

 教科書やらノートを机の上に出しながら、ハルは答える。

「うん、一応は」

「このグラフの問題、よくわかんなかったんだけど」

 と言って、彼女は配られたプリントのうちの一問を指さしてきた。二次関数のグラフに関する問題だった。

「これはまず、二点の座標を求めるんだよ――」

 ハルはいったん荷物をそのままにして、丁寧に説明してやった。彼女はふむふむと、うなずきながら熱心に聞いている。

 やがて午前中の授業が終わると、昼休みの時間がはじまった。ハルのところに、男子生徒の一人が昼食を持ってやって来る。二年から同じクラスで、昼休みは大抵この少年といっしょに食事をした。

 適当に世間話をしながら、二人は昼食を進めていく。少年のほうは学校に来る途中で買ってきたパン、ハルのほうは母親の作ってくれた弁当だった。

「相変わらずうまそうだな、お前の弁当」

 どこかのもの欲しそうなクマみたいに、少年はハルの弁当をのぞきこみながら言った。

「うん――」

 ハルは半分ほどを丁寧に食べ終えたところである。

「……その卵焼き、俺に食われたがってる気がしないか?」

 と、少年はやや油断のならないもの言いをした。

「得ようと欲すれば、まず与えよ――って誰かが言ってたよ」

 気にせず、ハルは食事を続ける。

「愛ならあるぞ?」

 言われると、しれっとした顔でハルは答えた。

「食べられるものでないと」

 ――放課後になると、ハルは図書室に向かった。昔読んだことのある本で、ちょっと確認したいことがあったからである。

 図書室までの廊下は静かで、何かが音もなく死んでいくような気配があった。時間が次第に速度をゆるめ、進むべきか戻るべきか、迷っているみたいに。

 ハルが図書室のドアを開けると、室内はがらんとしていた。受付けで委員らしい女子生徒が一人、熱心に本を読んでいた。どこかの豪華客船が沈むときでも、おそらく彼女はそうしているのだろう。

 本棚のあいだを静かに歩きながら、ハルは目的の本を探した。本たちは夜の星座みたいに、定められた場所に収まっている。探していた本は、きちんと見つかった。

 ハルはその本を手に取って、ぱらぱらとページをめくる。もちろん、本の内容は昔と変わっていなかった。そのセリフも――『ぼくは死んだようにみえるかもしれないけど、でもそれは本当のことじゃないからね……』

 それから、部活に参加する。友達とのつきあいで入った同好会のようなものだったが、それなりに熱心に続けていた。役に立つかどうかはともかく、体を動かすのは良いことである。

 帰り道では、まだ青空が続いていた。何かが積みかさなって、重くなった空だった。ちょっと手を触れてみれば、音を立てて崩れてしまいそうに思える。そして誰かの復讐が完了したみたいに、やがて夕暮れがやって来るのだ。

 ハルは家の近くまでやって来ると、自転車から降りて歩きはじめた――


 ――それからハルは、泣きはじめた。まるで体のどこかが切られて出血でもしたみたいに、涙がとまらなかった。誰かに見られたら困るのはわかっていたけれど、ろくに顔を拭うこともできなかった。

 泣く理由なんて、どこにもないはずだった。何かが壊れたわけでも、何かを失ったわけでもない。そんな理由なんて、あるはずがなかった。

 なのに――

 なのに、どうしてだか――

 涙がとまらないくらい、悲しかった。

 まるで、大切な本のページを破り捨ててしまったみたいに。

 まるで、大切な記憶が失われていくみたいに。

 ハルは声も立てずに、泣き続けた。道なんてろくに見えないまま、足だけを動かす。家まではもうすぐだった。それでも、誰かに胸でも押さえつけられているみたいに、涙がとまらなかった。

 どうやって家に帰ったのかは覚えていない。

 けれど気がつくと、ハルは未名の前に立っていた。涙を零しながら、それを我慢するように唇を固く結んで、うつむきながら。

 床に落ちた涙は、驚くほど大きな音を立てた。

「どうかした、ハル――?」

 宮藤未名はそう言って、ハルの涙にそっと指をあててやる。

 ハルはただ、首を振ることしかできなかった。

「――悲しいことが、あったんだね」

 ハルはただ、首を振ることしかできなかった。

「――辛いことが、あったんだね」

 ハルはただ、首を振ることしかできなかった。

 未名は何も言わずに、そっとハルを抱きしめてやった。すべてのことから守るように。すべての災いを遠ざけるように。

「きっと大丈夫だから。ハルはきっと、大丈夫――」

 その声を聞いて、ハルはとうとう声をあげて泣きだしてしまった。自分の中のどこから、そんなにたくさんのものが溢れてくるんだろうと不思議になるくらいに。そんなにたくさんのものを零してしまって、大丈夫なんだろうかと不安になるくらいに。

 けれど、今は――

 今だけは――

「ハルはおかしな子ね」

 鈴の音を鳴らすみたいな、未名の声が聞こえる。

 自分がどうして泣いているのか、ハルはようやくわかることができていた。

 ハルはただ、嬉しかったのだ。涙以外では、表せないくらいに。悲しむこと以外、できないくらいに。

 どうしようもないくらい――

 ハルはただ、幸せだった。



 ハルが目を覚まして一階に降りてみると、台所には未名が立っていた。

 いつも通りの、朝の時間である。まだはじまったばかりの一日の中で、いろいろなものの存在がぼんやりとしていた。窓の外から聞こえる鳥の声だけが、やけにはっきりしている。

「おはよう、ハル。今日もいい天気になりそうね」

 と、未名は言った。太陽よりも少しだけ早く朝を告げる、その笑顔を浮かべて。

「――うん、おはよう」

 ハルはパジャマ姿のまま、いつものようにテーブルのイスに座った。用意されていたコップに、牛乳を注ぐ。


 ………………


 ハルは自転車に乗って、ペダルをこぎはじめた。風景が動きだして、風が流れていく。

 途中、横断歩道で待つ小学生の一団といっしょになった。子供たちは巣の世話をするミツバチみたいに一塊になっている。

 そのうち、二人だけがほかの子供たちとはどこか違っていた。別の惑星をまわる、二つの衛星みたいに。

「あんた、いつまでこんなところにいるつもりなの?」

 二人のうちの一人が、どうしてだかハルに話しかけてくる。

「え……?」

 ハルはその子を見た。勝気そうな瞳に、ついさっき気に食わないことでもあったみたいな、不機嫌そうな顔つきをしている。見覚えはないはずだった。少なくとも、ハルの記憶に彼女の姿はない。

 やがて信号が変わると、子供たちは手を離された風船みたいにいっせいに駆けだす。けれど横断歩道のこちら側では、ハルと女の子だけが取りのこされたようにじっと佇んでいた。

「こんなことをしたって、意味なんてない。。それは、あんたのおばあさんだって知ってたことよ。だったら、あんただってそれは知ってるんでしょ?」

「…………」

「とりあえず、あんたが戻ってこなくちゃ、あたしはあいつに仕返ししてやることもできない。だからできるだけさっさと、こんな場所からは出てきてもらわないとね」

 女の子はそう言うと、点滅しはじめた信号を向こうへ渡ってしまった。横断歩道の向こう側には、彼女とよく似た感じの男の子が待っている。二人は長い時間のはてにようやく会えたとでもいうふうに、親しげな様子でどこかへ歩いていく。

 ハルの前で、信号はいつのまにかまた赤に変わっていた。


 ………………


 学校に着くと、ハルは駐輪場に自転車をとめて、何人かの知りあいと挨拶しながら三年の教室に向かった。自分の席に着くと、隣にいた女子生徒が話しかけてきている。

「――おはよう、ハル君」

 それは、いつもの女子生徒ではなかった。知らない女の子だ。さっぱりしたショートカットに、陽だまりの欠片を溶かしたような瞳をしている。ひどく元気そうな少女だった。

「……あれ、ハル君わたしのことも忘れちゃったの?」

「えっと、ごめん誰だったっけ?」

 言われて、彼女は自分の姿を眺めている。知らないうちに、ロバの皮でもかぶっていたんじゃないかというふうに。

「まあ、無理もないよね」

 彼女は諦めたように、軽くため息をついた。

「何しろこのお話だと、わたしたちとハル君が会うことはないんだから。ハル君がわたしたちのことを覚えてなくても、仕方のないことではあるんだよね」

「…………」

「ハル君がここにいたいのはわかるよ。何しろここは、一番の願いが叶った世界なんだから。でもね、ハル君。

 彼女はそう言って、立ちあがった。魔法の解ける時間に気づいたみたいに。

「――わたしとしては、できればもう一度ハル君に会いたいと思うだけなんだけどね」

 最後にちょっと微笑むと、彼女は教室の外に行ってしまった。それと入れ替わるようにして、いつもの女子生徒が姿を現す。彼女は当然のことみたいに訊いた。

「――ねえ、昨日の数学の宿題やってきた?」


 ………………


 やがて午前中の授業が終わると、昼休みの時間がはじまった。ハルのところに、男子生徒の一人が昼食を持ってやって来る。二年から同じクラスで、昼休みは大抵この少年といっしょに食事をした。

「よお――と言っても、お前には俺のことがわからないんだよな?」

 と、その男子生徒はいきなりそんなことを言った。

 確かに彼の言うとおり、ハルにその少年の記憶はなかった。黒いフレームの眼鏡をかけていて、理知的なわりには油断のならない雰囲気をしている。透明な服を作った、どこかの仕立て屋みたいに。

「確かにここはいいよな。。そしてそれを、少しずつ望むものに近づけていけるんだから」

「…………」

「でもここは、死んでいるのと同じだ。いや、死ぬことさえできないと言ったほうが正確なのか――それこそ、死の終わりってわけだ」

「君は……?」

 ハルはどこかぼんやりと、その少年のことを見つめる。

「俺はあくまで、お前のイメージの反射にしかすぎない。つまり、これはお前が思っていることでもある。まあ、その辺は何とも言えないところだがな」

 彼は軽く肩をすくめてから、おもむろに立ちあがった。

「何にしろ、ここはお前の世界だ。お前の望む世界。だから最後にどうするかは、お前が自分で決めればいい」

 そう言うと、彼はまだ混雑している教室を抜けて、どこかへ行ってしまった。ちょうど彼だけが、みんなとはねじれの位置にあるみたいに。


 ………………


 ハルが図書室のドアを開けると、室内はがらんとしていた。受付けで委員らしい女子生徒が一人、熱心に本を読んでいた。どこかの豪華客船が沈むときでも、おそらく彼女はそうしているのだろう。

 本棚のあいだを静かに歩きながら、ハルは目的の本を探した。本たちは夜の星座みたいに、定められた場所に収まっている。探していた本は、きちんと見つかった。

 ハルはその本を手に取って、ぱらぱらとページをめくる。もちろん、本の内容は昔と変わっていなかった。そのセリフも――

「……いいえ、あなたが本当に探しているものは、ここにはないわね」

 不意に、ハルの隣から声が聞こえる。

 本から手を離して振りむくと、そこには見覚えのない女子生徒が立っていた。彼女は本を一冊手に取って、ぱらぱらとページをめくっている。海岸の砂粒を手に取って、指のあいだから零すみたいに。

 それは、夜空をきれいに磨いたような少女だった。長くまっすぐな髪をしていて、不思議なほど不純物の少ない表情をしている。

「もう、わかっているんでしょ? 間違っているわけではないにしろ、ここは正しい世界とはいえない。私たちがこうしてここにいるのが、いい証拠よ。あなたも本当は気づいている。そりゃそうよね。あなたがそれに気づかないはずなんてないんだもの」

「…………」

――。それこそ、魔法を使ってでも。私たちにできるのは、その関係の意味を変えることだけ。失われてしまったものに、意味がないわけじゃないのだから」

 彼女はぱたんと、音を立てて本を閉じた。そして本を元の棚に戻すと、それと同じようにして自分自身もその場から去っていく。

 あとにはハルだけが、もの言わぬ本のあいだに残されていた。見つけたはずの本を手にとってみると、そこには何も書かれていない白紙のページが最後まで続いているだけだった。


 ………………


 部活が終わると、ハルは自転車に乗って家まで帰っていった。頭の上では、まだ青空が続いている。それは何かが積みかさなって、重くなった空だった。ちょっと手を触れてみれば、音を立てて崩れてしまいそうに思える。そして誰かの復讐が完了したみたいに、やがて夕暮れがやって来るのだ。

 自転車をとめると、ハルはただいまと言いながら玄関のドアを開けた。そして、居間のほうへと向かう。そこには未名がいて、簡単な繕いをしているところだった。糸を通した針を、丁寧な手つきで生地に刺しこんでいく。彼女は――

「どうして、死んだりしたの――?」

 と、ハルは訊いた。

「…………」

 未名は縫い物の手をとめて、座ったままハルのほうを向いた。二人のあいだを遮るものはない。その距離はまっすぐつながっている。

 二人はしばらく、無言のまま向かいあっていた。世界は知らないあいだに終わってしまったみたいに、急速に物音を失いつつあった。いや、実際にそれは終わりへと向かっているのだ。電源が落とされてしまえば、遊園地の光や音は失われてしまうのだから。

 やがて、未名は言った。すべての光と音がなくなって、もう暗闇だけしか残っていないことを確認したみたいに。

「――ごめんね、ハル。でもあの時は、ああするしかなかったの」

 ハルは鋭い痛みに耐えかねたように、少しだけ顔をそらした。それが、どうにもならないことだったのは、世界がそういう場所なのだということは、ハルにも十分にわかっていることではあったけれど。

「でも、ぼくだけがいたって……母さんがいっしょじゃなきゃ、意味なんてないよ」

 未名はその言葉を両手で大事に受けとめるみたいに、ほんの少しのあいだ目を閉じた。

「ハルがどんな気持ちになるか、本当はわかってた」

 と、未名は目を開けて言った。それは悲しいことじゃないのだと示すために、強く笑顔を浮かべながら。

「あの魔法が決して、ハルを正しい場所には導かないことも。あなたが完全世界を失うことも。でもあの時、私にはそれくらいしか、あなたにあげられるものがなかったの」

「でも、ぼくは――」

 ハルの言葉に、未名は優しく首を振った。

「私は後悔なんて、していないわ。そんな必要なんてなかったから。もしも、もう一度同じことが起こっても、私はやっぱり迷いなく同じことをするでしょうね。そうしないと、きっと私は一生後悔してしまうだろうから」

「…………」


「ごめんね、ハル。私はあなたを愛しているの――」


 愛することは、人を悲しくさせる。

 けれどその悲しみのぶんだけ、人はこの世界で生きていくことができる。悲しみは変わらなくても、その意味を変えることはできるのだから。

 彼女の言葉は――

 長い長い時間をかけて――

 ようやく、ハルに届いていた。

「……これは、ぼくの夢なの?」

 ハルは今にも零れてしまいそうな何かをそっと押さえるようにして、訊いた。

「そう、これはあなたの夢。牧葉清織が彼の完全世界を実現するために用意した、最初の段階――」

 未名はそれから、ちょっと笑った。今度は決して、無理のない笑顔で。

「でも忘れたの、ハル? を。私の魂はずっとあなたといっしょにいた。それは消えたり、なくなったりはしない。ただちょっと忘れられたり、どこかに隠れたりしていただけ……だから、彼には感謝しなくちゃいけないかもしれない。こうしてもう一度だけ、ハルにちゃんとした形で会えたんだから」

 未名はそう言うと、立ちあがってハルのそばに近づいた。そうして瞳の中に正しい形で残るように、自分の子供をじっと見つめる。

 彼女の前で、ハルはほんの少しだけ泣いた。重力がかろうじて働くぶんだけ。一番最後に、情けない顔は見せたくなかったから。

「本当はわんわん泣かせてあげたいところだけど、君は強い子だから」

 未名はにっこりと微笑って、その頬に触れた。目の見えない人が、その形を確かめるみたいに。

「――だからハルには、これを渡しておく。これは私が最後に力になってあげられる、ほんの小さなこと。私がハルにあげられるものは、やっぱりこんなものでしかないけれど」

 そう言って未名は――

 自分の魂とずっといっしょにあったものを、ハルに手渡してやった。

 ハルはそれを、しっかり受けとる。地上まで届いた流れ星の光を、両手で大事に受けとめるみたいに。

「――ねえ、ハル。大切なことを一つ教えてあげる」

 と、未名は最後に言った。

「どんなこと?」

 ハルはたった一筋の涙を拭いて、未名のことを見た。

――」

 それから未名は、ハルのことをそっと抱きしめてやった。朝の太陽みたいに、夜の暗闇みたいに。

「……大きくなったね、ハル」

 子供の頃と違って背ののびたハルを抱きしめながら、未名は本当に嬉しそうに言った。

「――――」

 ハルはただ目をつむって、もうすぐ消えてしまうはずの彼女の存在を感じている。

 それはやっぱり、幸せで――

 少しだけ、悲しいことだった。

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