――その樹は、完全世界の中心に聳えていた。

 巨大な幹を、天空の先端までのばしている。空を覆わんばかりのその威容は、地にあるものすべてを睥睨していた。無数の根を地上に生やしたその姿は、けれど宇宙樹というにはいささか優しすぎるようでもあった。淡い白色の花が枝いっぱいに咲き誇っているのは、どこか桜に似ている。

 その樹の根元に、牧葉清織は腰かけていた。複雑にからみあった根の一部に、具合よく平らになったところがあって、そこに座っている。傍らには、頭に白い花冠を戴せた牧葉澄花の姿があった。彼女は世界に耳を澄ましているような格好で、幹に背をもたれていた。まるで、夢が終わるのをじっと待っているかのように。

 清織はその場所で、ただ静かに本を読み続けていた。古い記憶の一つ一つを、丁寧に思い出すように。すべきことは、すでに終わっている。あとはただ、時間が経過するのを待っていればよかった。

 そうして牧葉清織が平和で静かで孤独なところにいるとき――


「なかなか、風流なものじゃの」


 と、いきなり声がしている。

 そこには、一人の少女が立っていた。少なくとも、外見はそうである。白い髪や古風なドレス、そもそもこの完全世界に何の前触れもなく出現している時点で、彼女が通常の存在でないことは明らかではあったけれど。

 清織は本のページをめくってみた。だがそこには、少女に関する記述が欠落している。彼を中心としたこの世界のすべてのことが、そこには書きこまれるはずだったというのに。

 本を閉じて、清織は草の地面へと足をおろした。少し離れたところに立っている少女のほうに向かって、数歩だけ近づく。澄花から離れすぎず、彼女を巻きこまずにすむ位置まで。

「――誰なんだ、君は?」

 小石を投げれば簡単にあてられるくらいの距離まで来ると、清織は訊いた。

「我か、我はウティマじゃ」

 少女はおなじみの自己紹介をする。敵意も、警戒も、含まれてはいない声で。

「……君のようなものの出現は、確かに予想されていたことだった。完全世界と不完全世界のあいだに生じた揺らぎ、それが〝世界〟という魔法によって形象されたもの」

 と清織はつぶやくように言った。ウティマはほう、と感心した顔をする。

「ならば話が早いの。我がどういう存在か、お主にはわかっておるのだろうな?」

「そう――」

 清織はそっと、ピアノの鍵盤にでも触れるように手をのばした。

 そして、〝ソロモンの指輪〟が発動する。

 この世界で完全化されたその魔法は、以前とは比べものにならない力を発揮した。強大無比の揺らぎを作りだし、ウティマのいるあたり一帯を瞬時に氷づけにする。巨大な氷塊に閉じこめられた少女は、当然身動きすることなど叶わない。

 それを見て、清織はのばした右手を閉じた。何かを握りつぶすみたいに。

 途端に、氷塊は亀裂を生じ、轟音とともに崩れさった。白い冷気を断末魔のようにまき散らしつつ、粉々になった破片が地面に転がっていく。

 もちろんそれは、中の人間も同じことだ――

「乱暴なやつじゃの、お主は」

 けれどその声は、何事もなかったように聞こえていた。

 清織が振りむくと、少女は左手の位置に、さきほどまでと変わらぬ表情で立っていた。体には傷一つなく、服にさえ何の乱れもない。

「――まあ、それもわからんではないがの」

 ウティマは、砕け散った冷たい岩の塊を眺めながら言った。

「君は僕をとめにきたのか?」

 と、清織は特にどうという感情もない声で訊いた。相手は世界なのだ。この程度でどうにかなるとは思っていない。

「いや、そうではない」ウティマは静かに、清織のほうを向いた。「我はただ、お主に必要なことを教えにきたにすぎぬ」

「必要なこと?」

「それが、というものじゃろう」

 とウティマは何故か、愉快そうに笑ってみせた。

「何しろ我は世界なのじゃ。世界とは、誰にとっての敵でも、味方でもない」

 清織はじっと、ウティマのことを見つめる。その言葉の重さを正確に量ろうとするみたいに。だがこの少女の言うことは、おそらく真実なのだろう。

 世界とは、本質的にそういう場所なのだから――

「僕に教えることというのは何だ?」

 清織は訊いた。世界の書き換えは、まだ行われたわけではない。それまでには、どんな邪魔が入るかもわからなかった。

「わかっておるとは思うが、お主を追っている人間たちがおる」

 黙ったまま、清織はうなずいた。結社はすでに瓦解しただろうが、委員会は健在なのだ。

「その者たちは、遠からず輪を修復し、この世界へとやって来る。あの者たちにはまだ伝えてはおらんが、それは子供たちじゃ」

「子供たち……?」

「偏りなくサイコロを振るには、それが必要なのじゃよ」

 ウティマは何かの音にでも耳を澄ますみたいに、軽く目を閉じた。

「お主が完全世界を望むなら、天秤の向こう側には不完全世界を望む者たちを乗せねばならん。そしてそれができるのは、まだ完全な魔法を失ってはいない、子供たちしかおらんのじゃ」

「それで公平が保たれる、と?」

「少なくとも、天秤の釣りあいは取れるのじゃ」

 消えた音を探すように、ウティマは目を開いた。

「その結果がどうなるかは、我にもわからん。我の役目は決定でも、裁決でも、指示でもないからの。我は所詮、お主たちにとってののじゃ。ただの傍観者、観察しておるものにすぎんのじゃからな――」

 清織もウティマも、それからしばらく口を閉ざしている。氷塊は、もうほとんどが融けて形をなくしていた。冷気は風にまじり、ほとんど見わけがつかなくなっている。世界は常に、平均化されることを望んでいた。

「……君のことが、この本に書かれていないのは何故だ?」

 と、清織は一つ気になっていたことを訊いた。

「簡単なことじゃ」

 ウティマはケーキを切り分けでもするように気軽な声で言った。

「我は世界そのものじゃからの。いわば我はその本自身でもあるわけじゃ」

 そう言われて、けれど清織にはやはりわからなかった。右手を使って右手をつかむことはできない、ということだろうか。

「うむ、そうじゃの――」

 とウティマは少し考えてから、次のような説明を加えた。

「言うなれば、我は出版者なのじゃ。あるいは印刷機械、もっと下がって一本の鉛筆でもよい。つまり、物語という世界を存在せしめるのに必要不可欠の道具じゃ。それなくしてこの世界はありえぬ。その意味あいにおいて、なのじゃ。作者であるお主が、そうであるようにの。だからお主の魔法では、我を捉えることはできぬ。平行線上に同じ一点が存在できぬようにの」

「…………」

「もちろん世界のすべてを書き換え、お主自身が世界となれば、話は別じゃ。そうなれば、もはや我は消えるじゃろう。お主と同列の存在は、どこにもいなくなる」

 氷も冷気も消え、世界は元の姿を取り戻していた。牧葉澄花は相変わらず、永遠に始まることのない夢の終わりを、じっと待ち続けていた。

「――その娘にかぶせておるのは、〝エウリュディケの花冠〟じゃの」

 と、不意にウティマが言った。

 牧葉澄花の頭に載せられているその花輪は、そういう名前で呼ばれる魔術具だった。この魔術具には、死者の腐敗を防ぎ、姿をとどめる効果がある。それは結城季早がかつて、事故で亡くした子供のために使っていた魔術具でもあった。

「お主はたった一人で、その娘と永遠にこの世界にあり続けるつもりなのかの? 死んだ世界の物語を読みながら」

 質問に、清織は返事もせずただ黙っているだけだった。

「もちろん、それは可能じゃろう。〝ソロモンの指輪〟があるかぎり、お主もまたこの世界では永遠の存在なのじゃから」

「…………」

 清織はしばらくして、かすかに表情をゆるめた。

 昼と夜が、移ろうように――

 季節が静かに、巡るように――

「――僕はほかのことを、何も望まなかった。ただ、それだけのことでしかないんだ。。僕の望みは、それだけ。それは永遠に、変わることはない」

 完全世界の中心で、その王はそっとつぶやくように告げた。

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