一つめの終わり

 屋敷を守護する魔法が消滅したことに、鴻城希槻は気づいた。信じられないことだったが、事実には違いない。

 鴻城は執務室をあとにして、すぐに出かける準備をした。この不意討ちがどの程度の致命傷になるかは、今のところわからなかった。

 だがそんな時にあっても、この男の心が動揺や焦燥、困惑や憤激に支配されるようなことはない。彼の心は完全に凍りついている。太陽の中心に放りこんだところで、決して融けることのないほどにまで。

 念のため、鴻城は秋原へ連絡を入れてみた。が、それさえ何故か通じない。真夜中だろうと早朝だろうと、一時間も前から電話がかかるのを待っていた、という声で答えるはずの男が。

 鴻城は車のエンジンを始動しながら、事態の重さをもう一度量りなおしている。それはよほど切迫し、緊急を要するようだった。百数十年という計画の根幹に関わるほどに。

 ニニとサクヤは現在、室寺蔵之丞と交戦中のはずだった。二人を呼び戻すわけにはいかない。将棋でいうなら、王の守りに金も銀もいない状態だった。

 そこまで考えてから、鴻城はふと現在起きている状況の首謀者が誰なのか、想像がつくような気がした。それはあの自分とよく似た、凍った心の男に違いない。

 屋敷をあとにすると、鴻城は法定速度をはるかに上回るスピードで車を走らせた。まわりの車は雀の子でも散らすように道を開ける。馬ならまだしも、竜巻や落石にわざわざ突っこんでいこうという人間はいない。

 鴻城は冷静以外の何ものでもない状態で走行を続けている。プロのドライバーですら、こうはいかないだろう。冷や汗どころか、心臓の鼓動一つ変えることはない。彼の心は完全に凍りついている。

 けれど――

 突然、何かが変わった。太陽が消滅してから、八分三十秒が経過したみたいに。世界のどこかで巨大な鐘が鳴らされ、耳には聞こえない、目には見えない震動が広がっていく。

 鴻城は危うく、カーブを曲がりそこねるところだった。ガードレールに銀色の傷跡を残し、走行車線に復帰する。踏みこんだ足をゆるめてアクセルを戻し、安全な速度まで減速した。

 心臓が乱雑に脈打ち、汗がじっとりと滲んでいる。

 

(……死ぬところだった、だと?)

 鴻城にとってそれは、久しく覚えたことのない感情だった。一度死んだ人間が、もう二度と死ぬことを心配しないのと同じで。

 けれど同時に、別の変化も確かに生じはじめていた。

 世界は急速に色づき、光を取り戻しつつある。強奪された花嫁が、半年だけ許されて地上へと戻るように。軽剽な老人が灰を振りまいて、季節外れの花を咲かせるように。

 誰かの見ていた幸せな夢の名残りを、鴻城は確かに感じていた。


 乱暴に車を停止させると、鴻城はすぐさま車内から飛びだした。屋敷に続く階段を、ほとんど一足飛びに駆けていく。

 この場所を隠すためにかけていた〝空間魔法〟――〝ミノスの迷宮〟は完全に無効化されてしまっていた。は、表側に現れている。外側に通じる壁が壊されてしまえば、そこはもう迷宮とは呼べない。

 鴻城は息を切らしながら、その部屋へと向かった。鼓動が、耳を中から塞ぐように圧し、自分の呼吸がひどく騒々しかった。まるで、生きているかのように。

 緑の庭を横目に、外廊下を走りぬけ、鴻城はその部屋へと向かった。

 そして心臓が一拍するだけの時間を待って、いつものとおりノックをしてからドアを開ける。

 ――そこには、彼女がいた。

 ずっと思い描いてきたのと、同じ表情を浮かべて。台座に腰かけ、鴻城櫻は時間通りにやって来た列車でも見つめるように落ちついていた。鴻城はあふれてくる感情を無理に押さえこみ、口元を強く噛みしめた。穴の空いた水道管を、布切れを使って塞いでしまうみたいに。

 部屋の中には、もう一人の人物が座っていた。それを見て、鴻城は皮肉っぽく笑う。その人物が想像通りの相手だったからだ。

「やはりお前だったか、清織――」

 イスに座っていた牧葉清織は、儀礼的に笑みを浮かべると、ゆっくり立ちあがった。

「この席にはあなたが座るべきでしょうね」

 と、清織は言った。その言葉通り、彼は二人のあいだから一歩距離を置く。

「――ふん」

 強がりではない笑みを、鴻城は浮かべた。

「お前に敗者を労わる心根があったとは驚きだな」

「敗者?」

 清織は同じ表情のまま首を傾げる。

「とぼけなくていい。お前がここにいるということが、すべてを表している。彼女の魔法を解いた、ということがな」

 そう言って、鴻城は勧められたとおりにイスに座った。

 目の前には、彼女の姿がある。凍りついた時間の中ではなく、温度を持った現実の時間の中に。その姿を見たからといって、彼女が冥界に連れ戻されるようなことはなかった。

 だが、鴻城にはいくつか聞いておくべきことがあった。

「――いったいお前はどんな魔法を使ったんだ、牧葉清織?」

 できるだけ皮肉っぽくなるように、鴻城は訊いた。「お前の魔法は、文字を書き換えるだけだと思っていたが……」

「書き換えたんですよ、文字を」

 そう言って、清織は手に持っていた本を示してみせる。

「世界が物語であるなら、それを書き換えてしまえばすべてのものを変えることができる――ごく単純な話です。

 二人は向かいあったまま話を続ける。

「だが、世界を物語化できるのはお前ではなく、牧葉澄花の魔法だったはずだ」

「そうです」

 清織はあっさり認めた。

「僕と澄花の魔法を別々に使っても、それは不可能でした。世界を変えることはできない。物語はあくまで、。そうでなくては、書き換えることに意味がなかったんです。人は原理的に、他人の物語を生きることはできない。書き換えられるのは、自分の物語だけです」

「お前のその話が本当だとして、だがいったいどうやって、物語の作者を自分に変更したというんだ?」

 質問に、清織はほんの少しだけ笑った。鏡の中の自分が、どうしても身動きできずにもがいているのを眺めるみたいに。

「そのための方法を教えてくれたのは、あなたなんですよ、鴻城さん」

「何だと?」

 鴻城はわずかに顔をしかめた。

「〝ウロボロスの輪〟を完成させるために、あなたがあの憐れな新真幸雅にいまゆきまさに何をしたか、覚えているでしょう?」

「…………」

「六年前、あなたは彼を捕獲するためにデパートの爆発事故を起こした。正確には、あなたがフロアを丸ごと爆破したんです。委員会の執行者である彼、新真幸雅の魔法〈虚構機関エクリプス・タイム〉を手に入れるために――」

 鴻城はやはり、黙って話を聞いている。

「そして結城季早のような魔法使いが現れるのを待つあいだ、彼を魔術具で生ける屍にして、ぼろぼろの肉体のまま魂だけが失われないようにした。彼の魔法を保存し続けるために」

「ほかにいい方法がなかったんでな」

 鴻城は軽く、肩をすくめてみせた。

「あの男を閉じこめておくのは不可能だった……だが、なるほど。お前はそれと同じことをしたというわけか」

 そう言って、鴻城はあらためて牧葉清織のことを見つめた。その魂が今、どんな形をしているのかを。目的はかなり違っていたが、それは鴻城自身のしたことと少しだけ似ていた。まったく、この青年は自分とよく似ている――

「俺の〈悪魔試験〉も、それで解いたというのか?」

 鴻城は訊いた。

「そうです。所詮あなたの魔法にしたところで、それはなものでしかない。だから僕の魔法でも書き換えることができたんです」

「試しもしないうちに、そんな確証があったとでも?」

「もちろん、確証はありました。その前に実験してあったからです」

 清織は当然のことのように答える。

「実験、だと?」

 と、鴻城は疑わしげに訊いた。

「――ええ、そうです」

 清織はうなずいて、あとを続ける。

「奈義真太郎に関して僕が確かめたかったことは、二つありました。そのうちの一つは、あなたの〈悪魔試験〉を解除する方法です。何しろ〝完全世界を望まないようにする〟というのは不可能でした。だから、あなたの魔法は別の魔法で解除可能なのか、を知ることが必須だった。そして彼の見つけた魔法によって、それが可能であることが確認できました」

「…………」

「もう一つ、それはあなたにかかっている魔法について知ることでした。銃で頭を撃ち抜かれても死なない理由について。つまり、鴻城櫻があなたにかけた魔法について――」

「そこまで調べていたとはな」

 鴻城は感心したように言う。

「あなたの過去に関するいくつかの記録が、そのことを示唆していました」清織は淡々とした口調のままで言う。「そして結局のところ、それがあなたにとっての一番の弱点であり――完全世界だったんです」

 鴻城は無言で、台座の上に座る彼女のことを見つめる。確かに、それは事実だった。牧葉清織の言うとおり、彼女が――鴻城櫻が彼にとってのすべてだった。百数十年も時間を停め続けてきたのは、そのためだったのだ。自分の心を凍りつかせてまで。

 けれど――

 それはもはや、はっきりと失敗に終わってしまっていたのだけれど。

「ああ、認めよう。確かにそのとおりだ」

 鴻城希槻は星の光を一つ、そっと吹き消しでもするように言った。

「彼女が俺にとっての完全世界だ。俺の魂は彼女とともにある。言葉通りにな。完全世界の樹を育ててきたのも、結社なんてものを作ったのも、元をただせば彼女のためだったと言っていい。だから、そうだ――

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