三つめの始まり

 気持ちのよい、春の宵だった。

 空気は染料を浸したみたいに、ゆっくりと暗闇に染まっていく。昼のあいだにたまった熱は誰かが手で押さえるように、まだそのあたりを漂っていた。じきに夜がその冷たい手をのばしてくるのだろうが、今はまだその時ではない。

 藍色の空には、霞がかってくすんだ色をした三日月がかかっていた。どこからか、ウグイスの空気を引き裂くような鳴き声が聞こえる。

 佐乃世来理は庭に通じるガラス戸を開け、ゆっくりと眠りにつきつつある世界を眺めていた。居間の明かりが、番犬めいた律儀さで宵闇を照らしている。時々、カーテンが揺れて、かすかな風が約束のない訪問者みたいに忍びこんできた。

 優しい死を迎えつつある世界で、来理はその家に一人だった。

 最近、日曜日ごとに賑やかな子供たちの声が響くので、部屋の中は必要以上に空っぽな感じがした。その辺の置き物をひっくり返せば、そんな物音の欠片が一つくらい転がっているかもしれない。けれど来理には、それを拾いあつめるようなつもりはなかった。

 彼女はふと、壁にかかった絵のほうを見る。ナツの描いてくれた、油彩の肖像画を。そこには慎ましやかで幸福そうな彼女の姿がある。自分の形がそういうふうに保管されているのを見るのは、悪いことではなかった。

 とはいえ、老人は多くその時間を過去と共に過ごしているものだ。美しく死んだ時間たちと。その事実にふと、かすかな侘びしさを覚えるとしても。

 光にだけあふれた世界は、彼女には少しまぶしすぎる――

 けれど、老人には老人なりの強さというものがあった。彼女には子供たちの残していった空白を、邪険に扱うつもりはなかった。無理にその穴をふさぐ必要はない。無闇に愚痴をこぼしたり、必要のない嘆息をつくのは、彼女のやりかたではなかった。

 だから佐乃世来理は一人で、ただ穏やかに世界の終わりを眺めている。それを見届けることができるのは、一種の特権でもあったのだから。

 そうして彼女が縁側に座ってくつろいでいると、暗闇の一部が動いて、きらりと光るものが見えた。小さな鈴の音が、空気を震わせる。と、甘い鳴き声が聞こえて、そこからは一匹の猫が姿を現していた。

 真っ黒な猫である。丸っこい顔つきに、ややずんぐりとした手足をしていた。首輪には、銀色の大きな鈴がつけられている。

「あら、どこの家の子かしら?」

 と、来理は不思議そうにつぶやいた。

 首輪をしているところを見るとどこかの飼い猫なのだろうが、近所では見かけたことのない猫だった。迷い猫だろうか。けれど猫は普通、頑固な科学者みたいに自分のなわばりからは出てこないものだったけれど。

 猫はまた甘い鳴き声をあげて、来理のほうへと近づいてくる。そして特有の身軽さで跳びあがると、鈴の音だけを響かせて彼女の膝の上で丸くなった。

「ずいぶん人間を飼うのが上手な子みたいね」

 来理は苦笑しながら、その猫の柔らかな重さと毛なみを感じた。顎の下をなでてやると、猫は気持ちよさそうに目を細めている。

 その背中をなでてやりながら、来理は猫の瞳をのぞきこんだ。光を蓄えるための特殊な器みたいなその瞳に、けれど彼女はかすかな違和感を覚えた。その奥に、何か重大な秘密を隠しているような、そんな――

 ふと顔をあげると、今度は庭の同じあたりに少年の姿があった。どこかの美術館に飾られた天使の絵から脱けだしてきたような、そんな少年である。淡い月明かりの下で、その少年はハナニラの花を眺めていた。

「今夜はずいぶんお客さんの多い日ね」

 と、来理は慌てもせずに言った。その少年が何者なのかについては、見当がついていたけれど。

「こんな田舎の茅屋に何の用かしら。それとも、あなたもやっぱり迷子なの?」

 声をかけられて、少年は顔をあげる。そうして丁寧な足どりで来理のそばまで歩いてきた。

「きれいな庭ですね」

 と少年はまず言った。その笑顔にはどこか、人形のような作り物めいたところがある。

「秋原さんのと、どっちがいいだろう」

「あら、そのかたもお庭を作ってるの?」

 来理は首を傾げる。

「うん、お屋敷の世話をしていて。でも秋原さんのは、仕事っていうほうが近いかな……」

「素敵なお仕事ね」

「ボクもそう思います。でないと、あんなにきれいな庭にはならないと思うから」

 少年の姿を、室内の明かりが照らす。小学生くらいの年齢だが、その風貌は古代の遺跡に似て、何かの力で時間を停止させられている印象があった。その瞳の奥は、さっきの猫と同じでどこか秘密の場所につながっているようでもある。

「それで、いったい何のご用かしら? おもてなしをするには少し遅い時間だし、それにあなたとは確か初対面だと思うのだけど」

「ボクたちはあなたを迎えに来ました」

 と、少年は言った。

 来理の膝上から、猫が飛びおりる。来理はそれを目で少し追ってから、少年のほうに向きなおった。たち、といっても、もちろん少年のほかには誰もいない。

「残念だけど、そんな約束をした覚えはないわね」

「でも、もう準備はできてるんです」

「それは鴻城希槻の指図で?」

 来理が言うと、少年はその作り物めいた笑顔をますます強くする。

 もちろん、来理はこの少年がニニと呼ばれる魔法使いであることはわかっていた。執行者の二人を殺害した残酷な少年だ、と。そして、もう一つのことについても。

「――あなたは、ホムンクルスなのね」

 来理はどこか表情に困った顔で、そう言った。

 いわゆる錬金術において言及されるところのそれは、フラスコの中で育ち、小さな人型をなして世界の秘密について囁いてくれるという、人工生命体のことである。

 けれどここでいう〝ホムンクルス〟とは、魔術具の一種のことだった。〝人造魔法エンブリオ〟――彼らは意志を持った魔術具といってもよかった。この少年は術者、おそらくは鴻城によって造られた、なのである。

「さすが委員会に任された管理者ですね。よく知っている」

 少年、ニニは言った。特に感心した様子も、ショックなふうにも見えない。おそらく、そんなことはたいして気にしていないのだろう。

 ――あるいは、そんなふうにしか感じられないのか。

「だったら、わかりますよね」ニニは言う。「ボクたちはもちろん、あなたを連れていく。例え無理やりにでも」

「もしも嫌だと言ったら、どうなるのかしら?」

 来理はあくまで落ちついていた。

「あなた自身のことなら、それでいいかもしれない。でもあなたは決して、断われない」

 どうしてかしら、と訊きかえす前に、来理の横から声が聞こえている。

「――だって、ぼくがどうなってもいいなんて思うわけないでしょ?」

 声のしたほうを見ると、そこには彼女の孫息子である宮藤晴が、イスに座っていた。

 いや――

 ごくごく注意してみれば、それがハルでないことはわかる。その瞳の奥にはニニと同じで、星の光ほども遠い何かがあった。そこにハルの魂と呼べるものは存在しない。だが、その意図するところは明白だった。

「脅迫しようというのかしら、私を?」

 さすがに来理は眉をひそめる。この二人が彼女の孫をなどということですますとは思えなかった。

「可愛い孫のためだよ、来理ばあちゃん」

 ハルの姿をしたサクヤが言う。おそらく、本人なら言いそうもないセリフで。

「私に選択肢はない、ということ?」

「一方が間違いなく悲劇に終わる道を選択肢というのなら、たぶんそうだと思います」

 ニニは無表情に告げた。

 もちろん、最初からそんなものがないことはわかっていた。完全世界を求めるというのは、そういうことなのだ。そして鴻城希槻は、誰よりもそれを求めている。もうずっと、長いあいだ。

「でも一つ、聞いてもいいかしら?」

 と、来理は質問した。

「何ですか?」

「彼はいったい、私に何の用があるというの?」

 その問いかけに、ニニは少しだけ間を置いた。月の形が変わるのを、ほんのちょっとだけ待つみたいに。

「もちろん、あなたが必要なんです。佐乃世来理さん、がね」

 少年は道化師めいた笑顔を浮かべつつ、そう言った。

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