神坂柊一郎は、私立衣織学園に勤める数学教師だった。

 同時に、魔法使いでもある。彼は本来は結社の協力者だったが、魔法委員会への潜入活動を通じてそちら側へと寝返っていた。もちろん、その事実はまだ露見していない。現在は、二重スパイとして結社に所属している形だった。

 彼の魔法〈精神研究〉は、〝人の思考を読むことができる〟というものだった。内偵者としては理想的な能力だったが、必ずしも万能というわけではない。同じ魔法使い同士では、魔法の揺らぎによって思考の読みとりに気づかれてしまうのである。そのため、その力が使える対象は限られていた。

 とはいえ、その魔法の使い手自身であるため、彼に疑いがかけられることは少ない。そしてその場合も、簡単には判決を下されることはなかった。結社に対して委員会側が持つ、数少ないアドバンテージの一つと言っていい。

 けれど、結社の人間のすべてがそのことに気づいていないわけではなかった――


 神坂は学園にある講堂で、演劇部の練習を監督していた。ホールにある観客席には、彼一人しかいない。照明の落とされたその場所は、人工の夜によって一時的に世界から切り離されていた。

 舞台上では『テンペスト』が演じられている。本番と同じ形での通し稽古だった。劇はすでに終幕に近い。魔法を究めたプロスペローは、もうすぐその場所から去っていくだろう。

「…………」

 と、神坂の隣に誰かが座る気配があった。神坂はそちらを見ようともしない。確認しなくとも、それが誰なのかはわかっていた。

「『あらし』ですか?」

 その人物は言った。

「ああ、そうだ。俺はこの劇の最後の場面が好きでね」

 神坂はセリフほどには感情のこもっていない声で返事をする。

「私も好きですよ、あの場面。『何卒、みなさまの呪いをお解き下さいますよう』――」

「そいつはよかった。が、今日はいったい何の用だ、?」

 言われて、澄花はちょっと笑う。蝶が身を翻すくらいの軽さで。

「用がなくちゃ来ちゃいけませんか、先生? それとも、恋人である葉山さんへの遠慮ですか?」

 澄花は星ヶ丘小学校に勤める、その教師の名前を口にした。二人はつきあっている。

「お前に余計な心配や詮索をされるいわれはないぞ」神坂はかすかに眉をひそめて言った。「それとも、お前の〈物語記憶〉に何か書かれているのか?」

「いえいえ、そんなことはありませんけど」

 澄花はどこかの妖精みたいに、いたずらっぽく笑う。

 舞台上では、魔法の衣をまとったミラノ公が咎人たちに対する許しを与えようとするところだった。『だが、この怒りの魔法を、わたしは今日限り投げ棄て、二度とは行うまい』彼は言う。『わたしはこの杖を折り、地の底深く沈め、さらにこの書物を、人の手の届かぬ深海の水底に沈めてしまおう――』

「それで、本当は何を聞きに来たんだ?」

 神坂は舞台のほうを見たままで言った。そうすれば、自分の行為の不穏当さが少しでも薄れるとでもいうふうに。

「委員会のことについて、少し」

 と、澄花は言った。彼女も同じように、何気ないそぶりで舞台のほうに目をやっている。

「――どんなことだ?」

 すべてに終焉を迎えさせるため、舞台では老いた王が一人一人に語りかけていた。もうすぐ、一切のことに幕切れが行われる。

「……執行者が二人ほど殺されたそうですね。本当ですか?」

「事実だ」

 神坂は短く告げる。

「鴻城希槻の秘密の居場所について、何かわかったとか?」

「正確な位置はまだ不明だが、一応の目星だけはついているらしい」

「となると――」

 澄花は音の響き具合でも確かめるみたいにして言った。

「もう、あまり時間は残っていない、ということになりますね」

「おそらくは、な。鴻城もかなり追いつめられている形だ」

 舞台では、もうすぐ例の場面がはじまるところだった。作者の分身でもある魔法使いが、客席に向かって許しと憐れみを乞う場面。それが終われば、舞台の照明は観客席へと移っていく。彼らがそれぞれの劇中へと帰っていくために。

「……お前がどうして俺に協力するのかは知らん」

 と、神坂は言った。もちろんそれは、二重スパイのことを指している。

「〈悪魔試験〉を受けているにもかかわらず、どうやっているのかも、だ。詳しいことはわからん。だがお前たちは本当に、をするつもりなのか」

「委員会にとっても、悪い話じゃないですよね?」

 澄花はまるで、ごく何でもないことのように言う。

「――

 けれど神坂は、見たことのない暗闇にでも手をのばすような、そんなためらいがちの口調で言った。澄花の態度は少しも変わらないまま、何も答えようとはしない。

「だが、何故そんなことをする必要がある?」神坂は続けて訊いた。「鴻城に対して恨みがあるわけではない。完全世界を求める目的も同じ。お前たちの本心は不明だ。おそらく、お前たちは鴻城とは違う形での完全世界を求めているんだろう。だからこそ、あの男が邪魔になる。だがいったい、それはどんな世界だ? お前たちと鴻城のどちらがより危険かは、一概には判断できん」

 そう言われても、澄花の表情に特に変化はない。その場所が極北でも砂漠でも、そんなことは彼女にとっては何の違いもない、というふうに。

「先生の〈精神研究〉で読んでみますか?」

 と、澄花は言った。軽い微笑を浮かべて。

 けれど――

「いや」

 と神坂は苦笑するように首を振っている。

「それはやめておこう。こう言っては何だが、お前の精神にはいささか問題があるみたいなんでな。俺にはお前がこうして普通でいられることのほうが不思議だ。もしお前の精神に深く立ちいってしまえば、俺のほうがどうにかなってしまうだろう。三人の魔女に唆されるような趣味は、俺にはないんでな――」

 そんな神坂に向かって特に何を言うでもなく、澄花は一枚の紙片を取りだした。ごく普通の、何の変哲もない白い紙である。

「先生にはこれを渡しておきます」

「何だ、これは?」

 小さく折りたたまれたその紙を受けとって、神坂は訊く。

「恋文じゃないから、安心してください」

 澄花はもう一度、いたずらっぽく笑った。

「期待はしていないがな」言いながら、神坂は紙を開いてみた。中には、いくつかの奇妙な数字と文字が記されている。「……何だ、これは? 何かの暗号か?」 

「もしかしたら、それが必要になるときがあるかもしれませんから――」

 多くを語ろうとはせずに、澄花はただそれだけを告げておいた。

 いつのまにか舞台の明かりは消え、光は客席に移っている。眠りから無理に覚まされたようなとげとげしい光が、あたりを照らしていた。

 話はこれですんでしまったので、澄花は客席をあとにしようとした。この場所に、もう用はない。

「最後に一つだけ、聞いてもいいか?」

 呼びとめられると、澄花は立ちどまって神坂のほうを見た。

「お前はいったい、どんな世界を望んでいるんだ。ほかの魔法使いたちと同じように、かつてそこにあって、そして失われたどんな完全世界を。それを取り戻すためなら、お前はやはりすべてを犠牲にするつもりなのか?」

 その問いかけに、澄花はしばらく黙っていた。大切な何かを、手の平の上でそっと確かめるみたいに。

「――私はもう、完全世界を手に入れたんです。世界が終わって、そして始まったあの日の夜に。でもそれは、私だけのものでしかない。兄には……清織にとっては、世界はやっぱり不完全なままです。絶対に、許せないくらい。だからきっと、このままでいれば清織は壊れてしまう。ほかのすべてのものを、いっしょに壊して」

「だから、お前がそうはさせない、と……?」

 牧葉澄花は星の光がようやく届くみたいに、ゆっくりとうなずく。

「私にとっての願いは、できるだけ彼のそばにいることなんです。ただ、それだけ。だって完全世界は、もうもらったんだから――」

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