音楽室には誰の気配もなかった。

 そこにあるのはただ、プレゼントの空き箱を思わせるような雰囲気だけである。大切なものはもう取り去られ、必要もなくなった抜け殻だけが用もなく横たわっている。

 教室には暖房が入れられていたが、電気はつけられていなかった。明かりがいるほどの暗がりでもない。来るべき凋落も知らぬげに、まだ明るい太陽が窓の外で輝いていた。

 机だけが並んだ教室を見ながら、フユはふとベランダのほうへと向かってみた。例の、プドレンカという猫がいるかと思ったのだ。時間的には、ちょうど散歩の途中にあたっている。

 ベランダに通じるガラス戸を開けると、冷たい風がひゅっと吹きこんできた。けれどフユはそれを意に介するふうもなく、外のベランダに足を踏みだす。

 ――猫はいなかった。

 狭いベランダの先まで見渡しても、猫が姿を現すことはない。空白だけがどこまでも続いて、先のほうではそれさえ途切れていた。散歩の時間がずれたのか、たまたまコースが違っていたのか、何か事故のようなものにでも遭ったのか。

 それとも――

 フユは色さえ薄くなったような青空を見つめる。冬のこの時期には珍しいほどの快晴だが、どこかすっきりとしないものがあった。明日には天候が崩れて、大雪になるという話である。束の間の晴天では、空も調子が出ないのかもしれない。

 息が白く濁って、行き先も告げずに消えていく。

 弓村真花が風邪で休んで、今日で三日目だった。担任の説明はそっけなく、それがどの程度の風邪なのかもわかっていない。心配はいらないという話だったが、ただの風邪だけで三日も学校を休むものだろうか。

 彼女がいないから特にどうだというわけではないのだが、フユは何故だか気になっている。当然あるべきものがそこにないような、ささやかな違和感だった。あるいはあの猫は、彼女がここにいないことを知っていて、散歩の道順を変えたのかもしれない。

 フユがそんなことをとりとめなく考えていると、背後で扉の開く音がした。

 振りかえると、そこには芦川陽奈子が立っている。本来は英語部に所属する、秀でた額をした才媛ふうの彼女は、忘れ物でも取りにきた様子できょろきょろとあたりを見渡していた。

「――真花は?」

 陽奈子は、短く訊いた。

「今日も休みだそうよ」

 ベランダの戸を閉めながら、フユは言った。

「まだ風邪を引いてるの?」

「担任の話では、そういうことみたいね」

 陽奈子はしばらく入口のところに立っていたが、教室の中に入って扉を閉めた。フユのすぐ隣に行ってスチームに手をあてながら、

「何で電気をつけてないの?」

 とりあえずといった感じで、彼女は訊いた。

「それほどの暗さでもないから」

「ふうん」

 言って、たいしたことでもなさそうに窓の外を見る。無理に明かりをつける必要もない、と彼女も判断したようだった。

「真花のこと、志条さんは何か聞いてる?」

 ごく普通に友達と話すようにして、陽奈子は訊いた。

「いいえ、何も……」

「お見舞いとか行ったほうがいいかな?」

「大げさじゃないかしら、それは」

 と、二人が話していると、再び音楽室のドアが開いた。

「――あれ?」

 と言って中をのぞいたのは、小嶋渚である。バスケ部の練習で怪我でもしたのか、膝のところに絆創膏を貼っていた。

「二人だけ? 真花はいないの?」

「まだ休みだそうよ」

 陽奈子がそっけなく言う。

「何だ、じゃあわざわざ来ることもなかったかな。今日あたり治って、顔を見せるかと思ったんだけど」

 言いながら、渚は二人のそばまで行って無造作にイスを引いて座った。

「そういえば、うちの部活でも何人か休んでるよ」

 渚はふと思い出したみたいにして言う。それを聞いて、陽奈子は澄ました顔で告げる。

「これからますます寒くなっていくしね。気をつけないと風邪くらい引くわよ。もっとも、誰かさんは心配しなくてもいいけど」

「……私がバカだと?」

「自覚があるならまだよいけど」

「そう言う陽奈子だって、風邪なんて引いてないじゃん」

「私は去年もう引いたから」

「そりゃもう時効だね。そんなので、バカは風邪を引かない呪いから逃れられると思うなよ」

 二人はそんなやりとりを、ひとしきり続けた。やはり仲がよいらしい。それから陽奈子はふと、フユに向かって訊いた。

「――そういえば、志条さんはさっき何してたの?」

 ラジオの番組でも聞くみたいに耳を傾けていたフユは、とっさに何のことかわからなかった。「……さっき?」

「私が入ってきたとき、ベランダにいたでしょ? あれ、何してたのかと思って」

 別に何も、と答えようとして、けれど気づいたときにはフユはしゃべっていた。

「猫を、探してたの」

「――猫?」

 横から、渚が怪訝な顔をする。

「そう……」とフユはうなずいた。「ここを散歩の通り道にしている猫がいて、真花に一度見せてもらったことがあるの。プドレンカとかいう猫。彼女によくなついていたようだったけど」

「へえ、学校のベランダにね」

 その様子からして、二人は猫のことについては知らないようだった。

「……猫といえば、あの時のことを思い出すわね」

 口元に指を当てながら、陽奈子はふとつぶやくように言った。手の中に転がりこんできたものの正体を、慎重に確かめるみたいに。

「もしかしてそれ、あの遠足の時か?」

 すぐに気づいたらしく、渚が言う。

「――そう、あの時、私たちは猫に助けられて、それで友達になった。今思い出しても、不思議な感じね。真花だけが、最初からあの猫のことを信じてた」

「何の話なの、それ?」

 フユは何だかよくわからないまま訊く。確か、真花も前にそんなことを言っていたはずだ。道に迷ったときに、猫に助けてもらったことがあると。

「私たちが小学校にいた頃の話なんだけどね」

 と、渚が古い記憶の底でも探るように言った。

「林間学校みたいのがあって、キャンプとかしたわけ。その二日目にクロスカントリーなんかがあって、私たち三人は偶然に同じ班を組まされた。で、三人して山の中をえっちらおっちら走ったり歩いたりしてさ」

「走る必要はなかったのよ、あれは。森を散策するのが主旨だったんだから」

「でも一応、順位数えてたじゃん?」

「大人の都合にいいように従ってるようじゃ、まだまだ子供ね」

「いや、子供だし」

「……それで、どうなったの?」

 フユは横から言って、話を無理に進めることにした。あまり漫才を続けられても、仕様がない。

「ああ、でまあ、とにかく三人で歩いてたんだ。そしたらいつのまにか道に迷ってたんだな」

「確かあんたがこう言ったんじゃなかったっけ。〝こっちに近道がある〟とか」

「……否定できる記憶はない」

 渚がまわりくどい言いかたで肯定すると、陽奈子はやれやれと肩をすくめた。

「しばらくして、本格的に迷ってることに気づいてさ」と渚は続けた。「大声を出しても返事はないし、あたりはやたらに静かで不気味だし。そこは子供だから、もう帰れないんだって簡単に絶望しちゃったんだな。すごく心細くなってきて、もうえんえん泣きだしてたわけ」

「あんたと私が、ね。真花だけは、最後まで絶対に泣こうとしたりしなかった」

「そうなんだよね。真花はずっと、自分たちは助かるって信じてたみたい。そのことを疑おうとしなかった。まるで、天使のお告げでも聞こえてたみたいに」

「あの時、そういえばこんなこと言ってたっけ」

 陽奈子は薄れかかった壁の模様でも確かめるようにしながら言った。

「みんなで歌をうたおう、って。そうすれば、幸せの欠片が手に入るから。その欠片をたくさん集めたら、願いを一つ叶えられる――そう言われて、私も渚も知ってる歌を残らず歌いはじめた。そしたら何だか気持ちが軽くなって、すごく楽しいことをしてるみたいな気になった。たぶん真花は、私たちを元気づけようとしたんでしょうね」

「…………」

「それでしばらくしたら、猫が現れたんだっけ」渚が少しだけ懐かしそうに言った。「真っ白な猫で、何でこんなところにいるんだろうって感じだった。でもその猫を見て、真花が追いかけはじめたんだよな。〝あの猫についていけば大丈夫〟って。私と陽奈子は訳もわかんないままそのあとを追っかけていった」

「でもそれで、私たちは本当にみんなのところに戻れたのよね。何だか不思議だけれど、でもそれで私たち三人は仲よくなった」陽奈子は少し真剣な目でフユのことを見た。「――この話、あんまりほかの人にしたことはないの。信じるとは思えないから。現に私たちだって、いまだに半信半疑なんだから」

 真花と渚と陽奈子、そして猫を巡る話は、それでおしまいのようだった。フユはその話を信じるとも、信じないとも言わなかった。

 最後に、渚がこうつけ加えている。

「――実は、私はあれを真花の魔法みたいなものなんじゃないかと思ってるんだ。だって、どう考えても変でしょ? でも、そういう不思議なところがあるんだよね、あの子には」

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