真花が戻ってくると、フユは別れの挨拶を口にして病室をあとにした。桐絵と会わせるのが目的だったらしく、真花は何も言わない。その後、二人がどんな話をしたのかは、フユにはわからなかった。

 一階に降りると、フユは来たときの道順を逆にたどる。ただし病院の外に向かうわけではなく、その途中にある小児科診察室の前で足をとめた。

 待合室に、人の姿はない。

 担当医の名前を確認して、受付けに誰もいないのを見てとると、フユは勝手に診察室の中へと足を入れた。衝立の端から盗み見ると、目あての人物は確かにそこにいた。

 その男は白衣を着て、カルテに何かを書きこんでいた。近くに看護婦の姿もない。

「こんにちは、先生」

 と、衝立のそばからフユは声をかけた。

「……?」

 呼びかけられて、結城季早は顔をあげた。そうして声の主に気づくと、軽い微苦笑のようなものを浮かべる。

「ああ、君か――志条芙夕」

 もちろん、季早がフユのことを忘れるはずはない。

 三年ほど前、季早とフユの二人はある少年に関する計画を共同で行っていた。結果として計画そのものは失敗したが、季早にはもうそのことに固執する意味は失われている。以来、季早がフユと顔をあわせることはなかった。

「その節はお世話になったね。あらためてお礼を言っておくよ」

 季早は律儀な態度で頭を下げた。実際、その時には協力者としてフユはよく働いている。

「昔の話はどうでもいいわ。それにあなたのほうは、もう結社とは関わりがないんじゃないの?」

 目的を失った以上、季早が結社との関係を保つ必要はない。

「いや、そういうわけにはいかないさ」

 言いながら、季早はポケットから携帯端末を取りだしている。例のものだった。

の魔法を解かないかぎり、結社に逆らうことはできない。協力を要請されれば、今でも僕は断ることはできないのさ」

「…………」

「君も知っているだろう? に君が合格したとは思えない。そして結社に属する人間が、あの問いかけを回避することは不可能だ」

「――でしょうね。そしてあなたは今でも、試験には合格できていない」

「そんなことをわざわざ確認しに来たのかい、君は?」

 訊かれて、フユは当然のように首を振った。

「弓村桐絵のことを知っているわよね?」

 その名前を聞いて、季早は訝しげな顔をする。

「もちろん知ってるよ。重い心臓病の子だ。小さい頃は小児科のほうで診ていたが、今は宮良坂先生が担当してる」

「そう――」

 妙なつながりだった。

 同級生である弓村真花の姉が入院していて、その病気の治療にはかつて結城季早が関わっていた。そして、その季早とフユのあいだにも、過去のつながりがある。

 これはただの、偶然なのだろうか――?

「僕としては、君が弓村桐絵のことを知っているほうが不思議なんだが」

「――確かに、そうでしょうね」

 フユにもどう説明していいのかはわからなかった。友達の姉が偶然彼女だった、と言ってしまえばそれだけの話しではあるのだけれど。

「彼女に絵本をあげたのは、あなたよね?」

 代わりにというわけではないが、フユは訊いた。

「彼女が子供の頃にプレゼントしたもののことかい? チェコの作家で、自分が飼っていた小犬について書いたものだよ。彼女、まだあの本を持ってたのか」

「大事にしているみたいだったわ」

「なら、贈り物をした人間としては喜ばしいかぎりだな」

 季早は言いながら、力なく笑った。本当は別のものを与えられればよかった、と思っているのかもしれない。

「……彼女、ひどく悪いのかしら?」

 フユはそっと、訊いてみた。

「ああ、悪いね」

 季早は医者らしく、厳しい顔つきで断定した。

「宮良坂先生に聞いたところでは、心臓がだいぶ弱っているそうだ。たださえ酸素や栄養が不足してるのに、それを送るポンプまで十分な役割を果たせていない。投薬で何とか補助している状態だが、いつほかの病気が併発するかわからない。もしも厄介な病気にかかれば、たぶん彼女は……」

 もちろん、フユには専門的なことなどわかりはしない。けれど季早の表情を見るかぎりでは、事態は深刻だった。それはさっき病室で見た、元気そうな弓村桐絵の姿からは想像のできないことである。

 彼女は自分の胸の鼓動を、限られたものとして数えているのだろうか。

「……ところで、君のほうは今どうしてるんだい?」

 気になっていたらしく、季早はそんなことを訊いた。

「ちょうど結社の仕事についているところよ」

 嘘をつく必要もなかったので、フユは正直に答えた。

「街にいるらしいっていう、謎の魔法使いを探せという話――」

「それはまた大変そうだな」

「あなたも何か知らないかしら? 妙な噂話とか、おかしな現象とか」

「さあね――」

 季早は首を振った。最初から期待はしていなかったので、フユは特に失望もしていない。

 いつまでも長話をしているわけにもいかないので、フユはそろそろ診察室から出て行こうとした。するとそこに、季早が声をかけている。

「僕がこんなことを言うのも何だが、君はいつまでこんなことを続けるつもりなんだい……?」

 フユはゆっくりと、季早のほうを振りむく。まるではじめて見る風景でも目にするみたいに。

「例え魔法を使っても、この不完全な世界をどうにかすることはできない。そんなことに、もう魔法を使うべきじゃない」

「…………」

「君はもっと、普通の女の子になるべきだ」

 フユはその言葉には答えずに、そのまま診察室をあとにした。

(普通、ね……)

 フユは歩きながら、考えている。もちろん、そんなものはもうとっくに失われているのだと言ったところで、どうなるものでもなかった。結城季早自身にも、そんなことはわかっているのだ。人はその失われたものを、永遠に求め続けずにはいられない。

 そして病院の白い廊下を歩きながら、フユはふと思う。

 もしも弓村桐絵を失ったとき、その妹である真花はどう思うのだろう。二人が丁寧に積みあげてきたはずの時間が壊れ、失われたとき、彼女はいったいどうするのだろう。

 やはり、完全世界を求めずにはいられないのだろうか――?

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