探偵は助手にパンツを被せる

山橋和弥

第1話 相談部の設立

「他人のためにここまでする必要はねーだろ」

 奥苗春希は渡された紙を読んだあとそう言った。

 放課後。ほとんどの生徒は下校し、窓からは少し赤みを帯びた光が差し込んでいる。「んー、どうなんだろう」椅子を前後逆に座って奥苗春希と向き合っている比空望実は、考えるように教室の天井を仰いだ。「もし他人のために何もしないなら、すること全部自分のためにすることになっちゃうよ」

 教室の中には二人だけしかいない。

 遠くから聞こえる運動部のかけ声や、時折廊下を通り過ぎる生徒の会話が聞こえるだけで、落ち着いた空気が漂っていた。

「そういう意味じゃねーよ」

 奥苗は椅子の背に体重を預ける。木製の椅子の脚が地面を擦って音をあげた。

「じゃあどういう意味?」

 比空は椅子の背に顎を乗せて上目遣いに奥苗を見る。

「程度の問題」

「それじゃあどこまでだったら奥苗は他人のためにできるの?」

「それは」奥苗は考える。自分の家族を思い浮かべ、それから見ず知らずの他人のことを想像し、最後に比空に視線を向けた。「自分とどのくらい関係が深いかによる」

「漠然としてるね」

 比空は机に薄く反射している奥苗の顔を見ている。机を指で撫で、指先についた埃に息を吹きかけた。

 空中に舞った埃が光を反射させて輝く。

「よくわかんないんだよ。比空の言ってることが」

 奥苗は目を細めて比空を見た。考えているのか考えていないのかよくわからないのんびりとした口調で話す彼女。声の調子は昔から奥苗が知っているものだったが、口から出てくる言葉は変化していた。いや、正確に言えば言葉に宿る比空の意思が変化している。

「わたしもよくわからないよ」

「じゃあ、おれと同じ意見じゃないのか?」

 比空は小さく首を振る。長く細く艶がある黒髪が揺れた。

「わたしはよくわからないから。だから他人というか、自分以外の全ての人に自分のできることをできるだけしたいと思うの。それが本当にできるのかどうかはわからないけど、少なくともそのために努力したい」

「そんなの比空がする必要ないだろ」

「じゃあ、誰ならする必要があるの?」

 奥苗は返事に詰まる。比空はさらに続けた。

「誰かにそうしてもらいたいわけじゃないの。ただ、わたしがそうしたいだけ」

 奥苗は比空から渡された、部活設立のための申込書にもう一度目を落とす。部活名、相談部。活動内容、教師には言いづらい悩みや相談を受ける。部長、比空望実。

「わかった」

 奥苗は鞄から筆入れを取り出して、ペンを探す。そして部長名の下、部員名の欄に自分の名前を書いた。

「いいの?」

「めんどくさいが、おれも高二だしな。何の部活にも入ってないと内申点も悪くなるだろ」

 比空は微笑む。

「ありがと」比空は紙を取って立ち上がる。「それじゃあ出してくるね」

 その背を見送りながら奥苗は言った。

「比空の能力つかってなんかすんのか?」

 比空は肩越しに振り返って笑う。

「わたしの力使ってできることなんて少ないよ」

 教室に一人残される。奥苗は立ち上がって窓の近くに寄った。グランドを走り回っている生徒たちが見える。名前を知っている人はほとんどいない。その全ての人間のためにできることを比空は探している。奥苗の心の奥で消化しきれない苛立ちが小さく芽を出した。

 協力するために部員の欄に自分の名前を書いたわけではない。ただ、比空がどんどん変わっていって、遠く離れてしまいそうなのをなんとか繋ぎとめたかっただけだ。

「比空がする必要なんてないだろ」

 比空の他人のためになにかしたいという気持ちを素直に喜ぶことができない。

 呟いた言葉は周囲の空気をわずかに震わせただけだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る