ババア・ネヴァーダイズ:Dパート

「……タマ姉、ありがとう。そんな大事なこと話してくれて」

 おばあの家、居間。涙の落ち着いてきたタマの隣で、アルが静かにそう言った。

「っていうか、ごめん。タマ姉がそんなに悩んでたなんて。ずっと一緒にいたのに全然気付けなくて」

「ううん。私も言わなかったし」

 おばあ、そしてふたりの娘達は、バンに乗って再び出掛けた。意識を一向に取り戻さぬ村人達を、ひとりでも多く村の公民館へ移動させようという計画である。本当ならアルもそれに参加しているはずだったが、タマの動揺が思った以上に大きかったため、一番仲の良いアルが付いておくことになったのであった。

「っていうかリアルにあるんだ、高校生でお見合いとか」

「……うん」

「酷いよそんなの、タマ姉の意見は無視で。今は自由恋愛自由結婚が基本でしょ。誰と結婚しようがしまいがタマ姉の勝手じゃん」

 アルは、まるで自分のことのように怒りを表明した。

「っていうか、人魚も大概失礼じゃない? 勝手に誘拐しといて、子供が産めないからって――ちょ、あ、ごめん」

 感情が入るあまりデリカシーという概念を忘れていたアルは、顔を曇らせるタマに気付き、慌てて謝罪した。

「ううん、大丈夫」

「えーっと……その。私のママも長く子供ができなくて。子宮になんか異常があったんだけど、手術したって言ってた。話聞いてみるからさ、タマ姉もいきなり諦めなくていいと思う……けど、あの。そういうことじゃない? よね?」

 タマは返事をしない。アルはどうしていいか分からなくなった。アルは常に相談する側で、タマに相談されるという経験は、記憶にある限りこれが初めてである。壁掛け時計がカチカチと時を刻む。そろそろ朝である。あの出来事からこれだけの時間しか経っていないとは、にわかには信じられなかった。

「……ごめん、タマ姉。相談されるってこんなに大変なんだね」

 やがてアルの口から出てきたのは、今の正直な気持ちだった。

「ご、ごめん。相談して」

「いやいや違うの、そういうことじゃなくて。いっつもさ、タマ姉は私の話聞いてくれるでしょ、黙ってうんうんって。パパがウザいとか、友達との話とか、勉強とか、将来のこととか……しかも私だけじゃないでしょ。タマ姉、みんなに頼られてるから」

「……聞いてるだけだよ。何の助けにもなれない」

「いや、それが難しいじゃん。今の私みたいにさ、つい口挟みたくなるよ普通。分かってんならやめろって話だけどさ……でもタマ姉は最後まで静かに聞いてくれて。誰にでもできることじゃないと思う。すごいよ」

「……ありがとう」

 タマは小さくそう返した。

「えぇと、こっちこそありがとう。いっつもこんな大変な思いさせてたんだね。これからはさ。こんな感じで良かったら、話聞くから。ね」

「……うん」

 タマの返事の後、沈黙が一分ほど続いた。しかしそれは、さほど居心地の悪いものではなかった。

「……ねぇ。ヨシホに話したらさ、どうなるかな」

 その沈黙を先に破ったのは、アルであった。

「え?」

「ヨシホ。ヨシホさぁ、友達が何かされたらメチャクチャ怒るでしょ。中学生の頃出席停止になった時、覚えてる?」

「どっち?」

「どっちも。一回目はさ、マキがクラスの男子からセクハラ発言されて」

「そうだったね……四人もいたのに全員」

「二回目とか先輩だったじゃん。松永先輩振ったら、私の悪い噂流してさ。あの喧嘩、わざわざ私まで呼び出されて。ヨシホが私の目の前で先輩ボコボコにして、『アルに土下座しろ、もう二度としないって誓え!』って」

「えっ、それ初めて聞いたかも、土下座のトコ」

「ホント? 有名だよ。アレ以来松永先輩女子と目ぇ合わせられなくなったって」

「そうだったんだ」

 ふたりはクスリと笑った。

「人のことであんなに怒ってくれるの、すごいって思うよ。タマ姉とは違う意味で安心感ある。こういうこと言うのもアレだけど、タマ姉の今の話もさ、ヨシホが聞いたら絶対怒るよ。タマ姉のお父さん殴りに行くかも」

「えぇっ、それは」

「イヤ分かんないけどさ」

 冷めた茶を飲んでひと息つき、アルは続ける。

「なんか羨ましいなって思わない? ヨシホのこと」

「……分かるかも」

 タマは小さく二度首を縦に振った。

「孤立しそうな場面でも、絶対自分の言いたいこと言うでしょ。誰相手でも遠回しな言い方絶対しないし。暴力はまあアレだけど」

「そこはね……」

「……会いたいね、ヨシホ」

 アルが呟くと、タマは小さく頷いてそれを肯定した。

「私さ。ヨシホ見捨てて逃げちゃったでしょ」

「見捨てたっていうか」

「イヤ、分かってるんだけどさ。ヨシホが逃げろって言ったんだし。あそこで行っても何もできなかったし……分かってても、悔しいなって」

「……私も」

「会いたいね、ヨシホ」

「会いたい」

 再び何秒かの沈黙。やがて口を開いたのは、タマであった。

「……ねぇ、ちょっとおかしなこと言ってもいい?」

「私も同じコト考えてた、多分」

 嗚呼、それは荒唐無稽な考えである。しかしふたりは確信していた。全く同じ結論に、お互いが達しているであろうことに。

「言ってみて、タマ姉」

「アルちゃんが先でいいよ」

「え、何それ……じゃあ一緒に言お」

 ふたりは小さく息を吸った。やがてアルが合図をする。

「いくよ。せーの」







「ヴァアアァアァアァア!」

 海の底! グランオウナーは、幾度目になるか分からぬ斬撃で、十倍、否、二十倍はあろうかという旧き支配者の巨体を斬り裂いていた!

「イヤッ! イヤアァアッ!」

 怪物はパワフルだが、動き自体は鈍い! そして斬られれば確実に痛みを感じている! 傷口から白い液体が霧めいて噴き出し……しかし、その傷は即座に塞がっていくのだ!

「どうすりゃいいんだよこの化けモン! いっそ首……いや、まずアイツの首どこだよ、デブ過ぎだろ!」

 既にドーム内の浸水は深刻! 足場としていた屋根が、塩水に沈もうとしていた! グランオウナーには大変な不利である!

「惧濫媼!」

 向かいの屋根に着地すると同時に、水中からトビウオめいて飛び出し、屋根に着地する者あり! イルカである!

「礼ヲ言ウ。引キ付ケテクレテイタオ陰デ、避難ハアラカタ完了シタ。娘達ハ全員貝ニ詰メテイル。皆ハ一旦オ前達ノ村ニ向カワセルコトニシタ。乙姫様モ一緒ダ」

「そうか、死ななくてよかった……ってかお前そんなに動けたっけ」

「水ノ中ナラナ。ソレニ、霊薬モ効イテキタ」

「あ、霊薬ってそういう感じ? ケアルじゃなくてリジェネってことか?」

「意味ガ分カラン――来ルゾ!」

 怪物がこちらを薙ぎ払うように腕を振り回したので、グランオウナーは近くの屋根へ大きく跳び、イルカは水中へ逃げた。先程まで立っていた屋根は丸ごと吹き飛び、残骸が水に浮かんだ。

「薬の効果っていつ切れんの?」

 再び合流すると、グランオウナーはイルカへ訊ねた。

「アノ量デハ参考ニナラン」

「確かに。どんな怪我が治りにくいとかあるか?」

「……骨折ハ時間ガカカル。欠損モナカナカ治ラヌナ」

「火傷は?」

「アマリ前例ガ無イ。海ダカラナ。少ナクトモ私ハマダ治リ切ッテオラヌ」

「了解! 焼きながら腕と脚落として、最後にゆっくり頭を潰す! これだ」

 グランオウナーは脚に怒りの炎を集中させ、跳躍! 化物の腹へタックルするように突っ込み、大包丁を突き立てた!

「イヤッ! イヤァ!?」

「アタシだって嫌だ馬鹿!」

 包丁をピッケル代わりに、グランオウナーは左肩へと移動していく! そこへ迫るのは、頭部の触手!

「そっちもか!」

 グランオウナーは包丁の柄へひらりと乗ると、両腕を掲げる! 黒雨ブラックレインが降り注ぎ、化物の腹から左肩、そして顔の一部に着弾! 吹き飛ぶ触手! 煙と悲鳴を上げる怪物!

「イヤァ! イィヤァーッ!」

「よっしゃ、最初からこうすりゃ良かっ――」

 その時、化物の右腕が、グランオウナーをがしりと掴んだ!

「あっヤベ! 普通の腕忘れてた!」

 咄嗟に全身から放熱! 悲鳴と共に手を放す化物! 落下するグランオウナー! だが水に落ちた瞬間、そこにはイルカが待っていた! 素早くグランオウナーを抱きかかえるイルカ!

「あんがと」

「ドウダ、行ケソウカ」

「分かんねぇ。っていうか包丁どこだ、刺しっぱなしだ!」

 グランオウナーが念じると、包丁が化物の肉体からずるりと抜け、ブーメランめいたその手の中へ戻って来た!

「便利ダナ」

「だろ、アタシも思う」

 多くの戦士と息を合わせ、海の怪物と戦ってきた故か。イルカとグランオウナーのコンビネーションは、まるで何年も戦ってきた者同士かのようであった。

「んでも、やっぱムズいな腕落とすの」

 然り。怪物の爆破による傷、そして火傷は……切り傷ほどではないが、それなりの速度で回復していく。

「ちょっとの間でいいからさ、動き止めらんねぇかな。あの化けモン」

「……ヤッテミヨウ」

「できんのか?」

「分カラン」

 そう言いながら、イルカはグランオウナーを近くの屋根へ送り届ける。

「投ゲラレルカ、ソノ腕力デ私ヲ。アレノ顔近クマデ」

「……やってみる。来い。そんで脚出せ」

 グランオウナーは、陸に上がったイルカの脚を掴む!

「ちょい目ぇ回るぞ!」

「構ワン! 私ハ戦士ダ!」

 グランオウナーは、ぐるんぐるんとその場で二回転! ハンマー投げめいて、正確に、顔目がけて飛ぶ! 化物の触手も間に合わぬほどのスピード! その体が怪物の顔にぶつかったその瞬間! イルカは全力で歌声を発した!

「イヤッ、イヤ!? ×××××!?」

 化物は突如パニックを起こし、その場でオロオロと狼狽え始めた!

「何したんだ!」

「脳ヲ揺サブリ気絶サセヨウトシタガ! 長老ハ耳ガ遠イ! 混乱サセルノガ限界デアッタ! 早クセヨ!」

「おうよ!」

 グランオウナーは、怒りの炎で再び跳躍! 化物の胸に、錨代わりの燃える包丁を突き立てた! 先程と違い、化物には目の前の景色すら歪んで見えている! 触手を伸ばそうとするが、狙いがまるで定まらない!

「イヤッ、イヤーッ!?」

「ヴァアアアァアッ!」

 次に刺す場所は、肩! 紫の炎を注ぎ込みながら、押して引く! 押して引く! 押して引く!

「イヤァ! イヤァ! イヤアァアーァア!?」

「ヴァアアァアァアア!」

 強靭な肉を斬り、骨を断ち! 腕が、落ちた!

「イヤッイヤアァーアァア!?」

 滝のように噴き出す白濁液! 怪物は滅茶苦茶に暴れ回る! 風呂で子供が前後に動いた時のように、波が巻き起こる! その海流に呑まれるイルカ! 体から振り落とされるグランオウナー!

「うわっぷ、あぁ!?」

「クゥッ!? ドコダ、惧濫媼!」

 その時である! 化物は突如として、羽をバサバサと動かし始めた! 海面に更なる波が立ち、そして! 怪物は飛翔した! ドームを突き破り、海の中へと!

「んん! んんん!」

「グラン、クァッ、惧濫媼ァッ!」

 海を濁らせながら、行先の定まらぬ様子で、しかし猛スピードで泳ぎ出す怪物! 

「ハッ、離サレルッ!」

 イルカは必死に超音波を放ち……そしてその反射で、グランオウナーのおおよその位置を特定! 海流に逆らいながら、そちらへと向かう! 同時に彼女の背後から魚雷めいて迫ってきたのは……鮫! 村へ来た時に乗っていた、怪物ホオジロザメである! イルカより素早く泳げるこのサメにまたがり、イルカは鮫に超音波命令! 鮫は圧倒的速度でグランオウナーに接近! その体を口にガツリとくわえた!

「ヨシ!」

 イルカは鮫を急がせ、そして、ドームの頂点近くへと向かった! ドームはまだ完全には水没していない! 上まで行けば、まだしばらくは呼吸ができる! 鮫が海面へ顔を出し、グランオウナーを放した!

「ぷはぁっ!? た、助かった」

「乗レ、ソシテ掴マレ。ココカラシバラク呼吸デキンゾ」

「分かってる……オイ、見ろよアレ」

 グランオウナーが指したのは、ドーム外を泳ぐ、長老だったもの。白濁液が輝き、居場所はすぐ分かるが……悪い点が四つ! かなり距離を離されている! 泳ぎが比較的真っ直ぐになっている! 更に、狙ってかどうかは分からぬが、その方向は村のある方向に等しい! ! 

「早過ぎんだろ色んな意味で!」

「クッ……腕スラ再生スルナラ、ドウスレバ!」

 緊張、絶望、様々な感情がふたりを満たす。考えよ、考えよ、考えよ! 焦れば焦るほど、正常な思考が阻害される!

「だあぁ、テメェ何かないのかよ、あの声の大砲のやべー勢いですげー強ぇ版とか!」

「声程度デハドウニモナラン! オ前コソアノ技ガアロウ! 全身ヲ爆破スル!」

「あるけど、んなもんちっとやそっと表面に当たった程度じゃ……あっ!?」

 その時、グランオウナーの脳裏に、ある無謀な作戦が浮かんだ。

「ドウシタ、何カアルナラ早ク言エ!」

「いいか、時間ないし一回しか言わねぇぞ……!」




《……マズイッ! 後方カラ、アノ、長老ダッタヤツガ!》

 何十匹もの亀が、自動車めいた速度で海を飛ばしている! 娘達、そして負傷者を多数乗せた貝を引き、その背中にまだ戦える戦士を乗せながら! 長老が正気を失ったことにより背中のドームは展開しなくなっているが、背中に乗るのは人魚のみなのでそこは問題ない!

 合流地点たる陸はすぐそこまで迫っている! しかし後ろから迫っているのは! 旧き支配者であった、巨大な怪物!

「……ャ! ィャァーッ!」

 うっすらと鳴き声まで聞こえる距離!

《マサカ、怒ッテイルノカッ!?》

 必死で亀を繰りながら、ウツボは超音波で喚く!

《我々ガ裏切ッタカラ、長老ガ罰ヲ与エヨウト!?》

《アレハモウ長老デハナイ! 余計ナコトヲ考エルナ!》

 隣の亀から超音波で怒鳴り返したのは、オコゼ!

《イイカラ飛バセ! 追イツカレタラ終イダ!》

《イソハ、イルカハマダカヤ!?》

 その問いを発したのは、サンゴ! オコゼの背中にしっかりとしがみつき、強烈な水圧に何とか耐えている!

《乙姫様! アレガ接近シテオルトイウコトハ、隊長ト惧濫媼ハ、モウ――!》

《イソジャ! 生キテオルニ決マッテオル! ヨク探スノジャ!》

《ス、スミマセン!》

 ウツボとサンゴの間で、先程から同じやり取りが何度も繰り返されている!

(ダガ……ウツボノ言ウ通リ。希望ハ薄カロウナ)

 オコゼの冷静な部分が、そう告げていた。

(皮肉ナモノダ、我々ヲ滅ボシニ来タ惧濫媼ニ救ワレルナド……シカシ、アノ怪物カラ逃ゲキレルノカ? 無事約束ノ場所ヘ辿リ着イタトシテ、長老モ城モ、ソノ上隊長マデ失ッテシマッタトナレバ、我々ハドウスレバ?)

 生きても地獄。死んでも地獄。オコゼやウツボのみならず、多くの人魚戦士達がそれを感じていた。絶望の二文字が、その心を覆いかけた……その時!

《勇敢ナル戦士達ヨ! 聴コエルカ!》

 戦士達の耳へ届く、誰のものより鋭い超音波! 嗚呼、それは紛れもなく、イルカから届いた超音波通信!

《隊長!》

《隊長ォッ!?》

《イルカッ!》

 次々と上がる喜びと興奮の声! それら全てをかき消すほどの音量で、人魚最高の声の使い手は、戦士らに声を届ける!

《コレヨリ最後ノ作戦ヲ決行スル! 隊長デアッタ謀反者ト惧濫媼デ、旧キ支配者ヲ必ズヤ滅ボス! 諸君ラガ行ウノハタダフタツ! 隊ヲ左右ニ分カチ、我等ノ通ル道ヲ開ケルコト! ソシテ、必ズ生キテ辿リ着ケ! 彼ノ地ヘッ!》

 落ち込みかけていた士気が、一気に上がる! 人魚らは雄叫びを上げながら、左右二手に分かれてゆく!

「イヤッ! イヤーッ!」

 その間を通り抜ける、この世にあってはならぬ怪物! 海流が大きく乱れ、亀がバランスを崩し、戦士達が落下しそうになる! だが、隊長との約束は決して違えられぬ! 決断的意志により、ただのひとりも欠けることなく、戦士達は亀を元の向きへ復帰させた!

《ソノママ陸ヲ目指セ! 必ズ其処デ会オウッ!》

 道を違えた人魚らに、化物は困惑したような素振りを見せ、一瞬動きを止めた! その後ろを雷めいて飛ばすのは、イルカと、そしてグランオウナーの乗ったホオジロザメ! ところが、その乗っている順番が奇妙である! 鮫の運転者たるイルカが前、グランオウナーが後ろ、これが正道のはず! では、今前に乗っているのは? そう、グランオウナーなのだ!

「惧濫媼! 聴コエテオルナ!」

 グランオウナーは返事ができぬが、きちんと聴こえていた!

「分カッテオロウナ! タダ一度ダ! 一度シカ試セヌ!」

 返事の代わりに、グランオウナーは中指を突き立てる! 何度も言わずとも分かっている、という意思表示だったが、中指のジェスチャーの意味を正確には理解していないイルカには、とにかく了解したのだろうということだけ把握した!

「ソロソロ着弾スル! 行クゾッ!」

 海面が近い! 既に日が昇り始めているのか、天からキラキラと光が差し込んでいる! 鮫はその速度を大きく上げ! 怪物との距離を急速に縮めていく! その接近に気付いた怪物は、ゆっくりと体ごと振り向き、鮫を捕らえようと腕を伸ばす!

 嗚呼、だが! そんなことは関係ない! グランオウナーは手に包丁を構え、その切っ先を真っ直ぐ化物へと向ける! そして、化物の腕に捕まるか捕まらぬかというタイミングで……イルカが、その全身全霊を込め! グランオウナーの背中へ向け、声の大砲を撃ち込んだのである!

 鎧が砕けるかと思うほどの衝撃! しかしグランオウナーはただ堪え、化物の掌を貫き! そして! その胸へと突っ込んだのだ!

「イアッ!?」

 鱗を砕き! 分厚い肉を裂き! 骨を断ち! グランオウナーが全ての勢いを乗せて飛び込むは、化物の内臓! 何百年も腐らせた魚めいた、吐き気を催す生臭さ! その傷はあっという間に塞がってゆき、グランオウナーは肉体の中に閉じ込められた!

「イアッ、イアーッ!?」

 パニックを起こしながら、化物はぐるぐると回転上昇してゆく。イルカが確認できたのは、そこまでだった。イルカは口から大量の血を吐いた。弱った体で、今まで撃ったことがないほどの威力で弾丸を撃った。声に関わる全ての器官がズタボロと化している。ホオジロザメからぐらりと落ちたイルカは、そのまま水底へと沈んでいった。




 雨は、止んでいた。

 水平線の彼方から、ゆっくりと光が昇ってくる。孰波村に、夜明けの時刻が訪れていた。日の光を浴びると共に、多くの村人が、次々と目を覚ましていくのを。あちこちからうめき声。そして、困惑の声。何故こんなところで寝ているのか。何故体が濡れているのか。誰も、何も覚えておらぬ。

「み、みんな!?」

 何人かは、叫び声と共に駆け寄るその娘を見た。アルと呼ばれる村の高校生であった。その後ろには、民宿のバン。その側で驚愕と共に海岸を見渡すのは、サングラスをかけた老婦。スーとチィコと呼ばれるふたりの女子中学生。それから、福島家のひとり娘、タマ。

「大丈夫なのみんな!?」

 村人の多くは、まず『大丈夫』の意味が分からぬ。だが、最初の放送による洗脳を運良く回避していた村人達は、思い出した。自分達が何をされたのか。村を何が襲ったのか。

「人魚!」

「人魚は……!?」

「そうだ、女の子達は!」

 人魚。そのワードに反応したのは、伝承を知る村の年寄り達である。

「人魚?」

「そんな、まさか」

「本当に……ではワシらは」

「何だこのデカい亀!?」

 困惑する声、風邪を引いたらしい者のくしゃみ、ざわめき、ざわめき、ざわめき。しかしそれらは、次に起きた出来事にかき消されることになる。海面が盛り上がり、突如としてそこから現れたのだ。牡蠣めいた巨大な貝を引く、何十匹もの大亀が。そしてその上に乗る……人魚!

「ひぃっ!?」

「何だありゃ!?」

「に、人魚ッ!」

 悲鳴! 多くの者が慌てて身を起こし、また何割かの者はその場に釘づけとなる。アルやタマらもまた、何事かと一歩後ずさる。だが人魚らは、そんな人間達を構いはしなかった。牡蠣を浜辺に打ち上げると、何らかの方法でそれを開き、中に乗っていたものの無事を確認し始めたのである。

「大丈夫カッ」

「アッ、吐イテオル! 酔ッタカ?」

 嗚呼、何ということか! そこから現れたのは、負傷した大量の人魚、そして! 裸に剥かれた、村の娘達だったのである!

「み、みんな!」

「大丈夫!?」

 アルもタマも、チィコもスーも、そしておばあも、少女らに駆け寄った!

 裸の少女らは満身創痍であった。当然である。酒を飲まされた上、貝に乗せられ全力で運ばれたのだから。陸に戻った瞬間、嘔吐した娘すらいた。何故少女らが、何故裸で、何故人魚らに? 海岸はますます混乱に陥った。逃走し始めている村人さえいる。

「アァ、万太郎! 愛シキ我ガ亀ヨ! 無事ダッタカ!」

 その時、海岸でずっとぼんやりしていた亀に駆け寄る人魚あり。亀の頭や顎を一心不乱に撫でるその人魚を、タマ達四人、特にタマはよく覚えている。

「ウツボさん!?」

「アッ、何ダッタカオ前ハ」

「タマです」

「タマカ! ソウカ、無事デ何ヨリダ」

 タマが人魚に近付いている! アルやおばあをはじめとする村人達はギョッとした!

「ちょ、タマ姉!?」

「危ないよッ!」

 しかしまるで躊躇が無い! 当たり前のように駆け寄ったタマは、ウツボと呼ばれたその人魚とごく普通に会話をしている!

「ウツボさん、何があったんですか!?」

「ソ、ソレガ――」

「イルカハッ!? イソハッ!?」

 場の困惑、その全てをさらうように、幼い声。村人の誰にも分からぬことであったが、それは人魚の長、サンゴである。大亀の上に乗った彼女が叫び、沖を振り返る。多くの人魚、村人達、無論タマらも、つられてそちらの方向を見た。その時である!

 ザッパアアァァン! 沖で突如として上がる水の柱! それと同時に現れたのは、およそこの世の誰も見たことがないような、おぞましき怪物! タコの頭に人間めいた体! そして竜めいた翼!

「イヤッ!? イヤァーッ!?」

 心をかき乱す、名状し難きその鳴き声! 村人達は悲鳴を上げた! 海岸から逃げ出す者が一気に増加する! あまりのおぞましさに、その場で半狂乱に陥る者さえいた! スーとチィコはその場にへたり込み、涙を流している! おばあは! タマは! アルは! そして多くの人魚達は! ただ茫然とその光景を眺めるのみ!

 様々な視線が、その一点に集まる中! それは起きた!

 狂ったように旋回しながら空へと向かっていた化物! その体が、一気にボンと膨れ上がった! 続いて、体のあらゆる部分に裂け目! そこから、太陽の光にも似た黄金の輝きが何筋も漏れ出す! 目からも! 口らしき器官からも! その筋はどんどん数を増していき! そして!

「イヤッ、イヤッ、イヤアァァアァーアァッ!?」

 断末魔めいた悲鳴! 同時に轟いたのは、耳をつんざくほどの爆発音! 化物は内側から破裂し! 細かな肉片となり! 白く輝く液体をありとあらゆる方向に撒き散らし! やがてその全てが塵となり! 潮風に乗って……消えた!

 人魚らは、一斉に喜びの声を上げた! まだ何が起きたか分からぬ村人達は……しかし見た! その爆発の中心に、巨大過ぎる包丁を握った、全裸に腰巻き一枚のババアがいるのを!

「グランオウナー!」

 その正体に気付いたタマとアルが、同時に叫んだ! おばあを含め、その名に心当たりのある年寄りが、一斉に驚愕の声を上げる!

「惧濫媼!?」

「惧濫媼だと……!?」

「あの……!」

 太陽の光を背後に浴び、白濁液の霧でキラキラと輝きながら、グランオウナーは宙を舞う! その光景を見た人々は、一種の神々しさすらも覚えた! あれは伝承にある鬼というよりも、最早、邪神を屠りし神仏がひとつ! 偉大なる媼グランオウナ

 奇妙な美しさを持つその光景に、人々は息を飲んだ。村の年寄りの中には、五体投地する者、海に向け土下座する者、数珠を握って涙を流しながら拝む者さえあった。直後、彼らは見た。その肉体が、紫色の炎にゴウと覆われるのを。そして、それが晴れた時……そこに、裸の娘がひとりと、古びた包丁が一本あったのを。

「ヨシホ!」

「ヨシホちゃん!」

 ハッキリと視認できたわけではなかったが、アルとタマは確信していた! ヨシホのおばあは、その言葉の意味をよく呑み込めぬ様子でふたりを見る! そうする間にも、ヨシホの体は、そして小さな包丁は、海に向けて落下し……小さな水しぶきを上げた!

「ウツボさん、亀!」

「エッ?」

「亀を動かして! ヨシホちゃんを! 助けてください!」

「エッ、ア、アア! アノ、アレヲカ!」

「早く!」

「オウ! オウ? ソウダナ!? ヨシ、行ッテクル!」

 タマに急かされるまま、ウツボは万太郎なる亀に超音波で命令を下す! 亀がのそのそと動き出すと同時に、ウツボはその背にひらりと乗り……そして何故か、タマまでもがその背をよじ登り始めた!

「エッ、オ前モ来ルノ!?」

「お願いウツボさん!」

「マ、マアイイガ――オ、オ前マデ来ルノカ!?」

 タマの手を掴み亀の背へ乗せたウツボは、その後ろにアルまで存在していることに気付いた! 何という切り替えの早さか!

「分カッテナイナラ言ッテオクガ、空気ノ籠ハモウ出センノダゾ、ウッカリ落チテモ知ランゾ!?」

「早く!」

「早く!」

「何ナンダオ前ラ! モウ分カッタ、行クゾ、シッカリ掴マレ!」

「えっ、ちょ、ちょ、アンタ達!」

 おばあはようやく事態を理解するが、手遅れである! 水へと進み出た万太郎は、水面ギリギリを器用に泳ぎ、ヨシホの落ちた辺りに向かって行く!

「ウーム、マズイカ!? ドノ辺リニ落チタノダ!?」

「えっ、分からないんですか!?」

「オ前ラガイルセイデ潜レナインダ亀ガ! ウルサイ奴ラメ!」

 苛立ちつつも、おおよその位置まで亀を進ませるウツボ! それとほぼ同時であっただろうか、ばしゃりという小さな水音と共に、ヨシホと包丁を抱えた小さな人魚が現れたのは!

「オ、乙姫様! イツノ間ニ!」

「イソガ知ラヌ娘ニナッタ! 包丁モ縮ンダ! 何故ジャ!?」

「その、後からそれは説明できる気がします!」

「とりあえずこっちに!」

 亀の甲に仰向けに乗せられたヨシホは、目を閉じ、ぐったりとしている!

「ヨシホちゃん! ヨシホちゃん!」

「ヌッ、息ヲシテイナイゾ」

「ヒエッ!?」

「し、心臓マッサージ!? 人工呼吸!? えっと、えっ――?」

 一瞬パニックになったアルに反し、タマは驚くほど冷静に動いていた。ヨシホの隣に移動すると、気道を確保し、一秒に一回か二回ほどのペースで胸部圧迫。その表情は真剣である。三十回ほどこれを繰り返し、ヨシホの鼻をつまむと……口をつけ、息を吹き込む!

「あっ」

 アルは思わず声を上げたが、タマは構わず口を離す! 再び口をつけ、息を吹き込む!

「ケフッ!? ケッホ、え゛っフ、あ゛っ!?」

「ヨシホちゃん!」

「ヨシホ!」

 ヨシホが海水を吐き出した! タマは顔を横に向け、水が気管に入るのを防ぐ! 何たる手際か!

「ヨシホちゃん! ヨシホちゃん!」

「ヨシホ! ヨシホッ!」

 ふたりが何度か呼んでやるうちに……ヨシホは、ゆっくりと目を開けた。

「ヨシホちゃん!」

「ヨシホ!」

 ……アル、タマ、そしてふたりの人魚。何人もが自分を囲んで見下ろしているのを、ヨシホは段々と理解し始めた。

「よ、よかったぁ」

「ヨシホ、大丈夫? 分かる?」

 ヨシホは横になったまま、数秒かけて周囲を見回した。

「……化けモンは? 死んだ?」

「う、うん」

 タマが頷く。ヨシホは弱々しく笑った。

「……包丁は?」

「コ、コレカヤ?」

 サンゴが差し出した包丁を、ヨシホは不思議そうに受け取り、様々な角度からじっくりと見回した。

「……包丁じゃん」

「イヤ、包丁ジャガ」

「じゃなくて。

 包丁を握ったまま、ヨシホは右腕で目を覆い、深い、深いため息をついた。

「こんなんじゃ料理か通り魔しかできねぇよ。クソ。約束破りやがった。あのババア」

 ヨシホの言葉が理解できる者は、誰もいなかった。

「クソ。マジでクソ。約束だったろ。みんなを助けたら、村を滅茶苦茶にするって。みんなに気付かせるって。調子乗った奴、みんな土下座させるって。言ったじゃねぇか。クソ。通り魔なんかちょっとニュースで流れて終わりだぞ。何黙ってんだ、何か言いやがれ、クソ、やっぱクソばっかじゃねぇか、年寄りなんか全部クソだ……」

 徐々に震える声。ヨシホは、確かに涙を流していた。その手で目を覆ったまま。その涙はやはり理解できぬものであったが……タマは、空いた左手をそっと握った。

「見てたよ」

 タマの声にもまた、涙が交じっていた。

「みんな、見てたよ。みんなが。ヨシホちゃんを。見てたよ」

「……そっか」

「おかえり。ヨシホちゃん。おかえり」

「……うん」

「帰って来てくれて、ありがとう」

「……タマ姉も。アルも。待っててくれて、ありがとう」

 ヨシホは涙を拭い、右腕を退けた。寝そべったまま、ヨシホはタマへとゆっくり視線を移した。

「アタシのプレーヤーは? メタル聴きたい」

「……電池、切れちゃった」

「そ。じゃ、帰んねぇとな……ウチに」

 ……飽きるほど見た海の上。喧嘩の強いひとりの娘が、確かに、生きて、微笑んでいた。雨雲の去った、朝焼け空を見上げながら。

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