Ⅲ◆ひ・び・わ・れ・た◆



 ―あいつと俺 小学校六年―




「あ、りんごだ!」


 小学校生活の終わりを控える寒さの厳しい季節。風呂上がりで濡れている髪をタオルでごしごし拭きながらリビングに入ると、うさぎ型のりんごが山盛りになっている大皿がテーブルの上に置かれていた。


「お母さんー! これ食べていいのー!?」


 母親を呼んだが返答はない。思い返せば帰宅した時から気配がなかった。寝室の扉を開けてみるがその通り姿は見当たらない。


「あっれー? どこいったんだろー……」


 再びリビングへ戻ると、キッチンでコップに麦茶を注ぎ入れるあいつがいた。


 あの小学四年の一件以来、あいつと俺が会話を交わす回数は、学年が上がるごとに減少していた。あいつの冷めたような顔つきから声をかけるなと言うオーラが発せられているように思えていたし、年々そのきつさは増しているように感じていた。


 高学年になって益々友達と遊ぶことに精を出していた俺が家に帰ると、あいつは基本的に晩飯を早々に済ませて部屋に籠り、宿題以外の勉強にも精を出すようになっていた。昔から父親はとにかく勉学にはうるさかった。中学校への入学が迫ったこの時期、成績の件で俺は父親と頻繁に口論になっていた。


 ふと、ゴミ箱の横に置かれている白い紐で縛られた雑誌類が目に留まった。一番上に置かれているのは私立中学のパンフレット。



「そのりんご、食べていいって、お母さんが」



 珍しく、あいつのほうから俺に声をかけてきた。思わずびっくりして見やると、麦茶のコップが二つ、ちょうどテーブルの上に並べられるところだった。


「お母さんどうしたの?」

「用事があって出かけてるよ。帰ってきてからご飯作ってくれるって」

「ふ~ん」


 椅子へ腰を下ろしたあいつの向かい側に、俺もおずおずと座った。


「はい」


 あいつが差し出してきたのは一本の小さなフォーク。


「え、や、いいよ。手で食べるし」

「ダメ。ちゃんとこれ使って」


 まるで母親を気取ったような口調に若干イラっとしたが、俺は渋々フォークを受け取ると、りんごをポイポイと口に運んだ。あいつは頬杖をついて見つめてくる。


「……せいも食べなよ」

「僕が食べたら怒るでしょしんは」

「へ?」

「真のりんごに対する愛は凄かったからね。小さかった時、こんな大皿じゃなくてお母さんが小皿に分けていつも出してくれてたでしょ? 真、自分の食べ終わったら僕のお皿にも絶対に手え出してくるの。で、ほとんど食べちゃう」

「嘘!」

「嘘じゃないよ。お父さんに何回怒られてもりんごをいっぱい食べることだけはどうしても譲れなかったんだね。それからお母さんがこの大きいお皿に入れるようになったの。真が僕の分まで食べちゃうのを何とかカモフラージュしたかったみたいだよ」

「ぜんっぜん記憶にない」


 あいつはケタケタと笑った。その顔、いや、あいつの顔をこんなにちゃんと見たのはどのくらい振りだっただろうか。


「幸せな性格だよね、真は。ふふっ」

「もー馬鹿にしないでよ!」

「してないよー」


 緩く否定するあいつに、苛々とした感情がどことなく心に流れ込んできたが抑え込み、気がかったあのパンフレットに触れてみることにした。


「中学、よかったの?」

「ん?」

「私立、いきたかったんでしょ?」

「んー、別に」

「え!? 違うの?」


 予想に反した返答に、俺の口からは食べかけのりんごがポロリと零れた。あいつは肯定も否定も示さない。


「じゃぁ何で毎日あんなに勉強してるの?」

「勉強はー、ただ好きなだけだよ。真が遊ぶのが好きなのと同じような感じ」


 麦茶をひと口コクリと飲むと、あいつは伏し目がちになった。


「何だか、久しぶりだね。こうやって真とここで話すの、嬉しい」


 感じる違和感、湧いてくる疑問。


「真が帰ってくる時間には、僕、先にご飯食べ終わっちゃってるしね」


 普段感じている雰囲気や態度から、あいつが今俺にしている発言が本心であるとは、とてもじゃないけど全く思えなかった。


「真、中学校入ったら何か部活入るの?」

「あーうーん、何も考えてない」

「そうなんだ。真、正直科目はあんまりかもしれないけど、体育すっごく得意じゃん。運動系の部活に入ったら活躍しちゃうよきっと!」

「そうかなー。まあ、サッカーとか野球とか、友達と最近やってて楽しいけどね。でもレギュラーになるのは大変そうだなあ」

「真ならなれるよっ。試合に出る時は応援にいきたいなあ」


 どう頑張って耳を傾けようとも、あいつの言葉達は一切響いてこない。まるで無感情のロボットだ。俺はこの瞬間、何も分からない恐怖と言う奈落の底に落ちてしまったような気がしていた。


 ガチャ


 玄関の鍵の回る音にはっとした。それに対しあいつは俺以上に素早く反応すると、まだ麦茶が残っている二つのコップをガッと掴んだ。


「あっ」


 しかし、その振動により麦茶はテーブルに零れてしまった。薄茶色の液体が床に滴り落ちていく。構わずあいつは慌ててシンクにコップを置いてリビングの扉を開けた。そこには父親が立っていた。


「お、おかえり、なさい……」


 ボソボソとした声なのかも分からないようなトーンであいつは呟いた。


誠也せいや、ちょうどよかった。そこに座りなさい。話がある」


 俺のほうに向いた父親の目は、まるでゴミでも見ているかのようだった。


「邪魔だ。外してくれ」

「言われなくても外すわ!」


 八会えばピリピリとした空気が流れる。俺は空になった大皿と零れた麦茶の水滴をテーブルに残したまま父親を睨みつけ、リビングをあとにする。


「全く、片付けもしないで。何であんなに行儀が悪いんだか!」

「うるせーよ!」


 大声で嫌味を言ってくる父親に、階段の上から苛立ち任せに叫び返した。


 リビングの扉の閉まる音。俺はそのまま自分の部屋へ向かおうと思っていた。


 思っていたんだ。


 なのに何故、聞き耳を立てに戻ってしまったんだろうか。


 そろり、そろり、と階段を戻りた俺は、一番下の段へ静かに腰を下ろした。しんとした廊下に、父親とあいつの声はよく響く。


「誠也、まだ間に合う。どうして急に受験をしたくなくなったんだ」


 ドクッと俺の心臓は、音を立てた。これから知ってしまうであろう知りたくないことに、全身がぞわぞわする。


「あんなにいきたがっていたじゃないか。何か理由があるんだろう? 教えてくれ」

「理由は、特に、ないよ」

「ないわけがないだろう。学費を気にしているのか? そんなことだったら全く気にする必要はないんだぞ。父さん頑張って働くから」


 笑えてくるほど態度の違う父親に対する寒気がさらに襲ってきたと共に、俺の中には抑え込んだ苛立ちが再び湧き上がり始めていた。


「ほら、言ってみなさい」

「……今の、お友達と、離れたくなくて」


 一瞬、呼吸をすることを忘れた。ショートしかけた俺の脳みそ。あいつの口から糸も簡単に吐き出された虚言は、俺の心に衝撃の嵐を巻き起こした。


「何だ。そうだったのか。それならそうと、どうして言わないんだ」

「ごめんなさい」

「誠也の本当の気持ちがちゃんと聞けて父さん安心したよ」


 猫撫で声の気持ちの悪い父親に噴き出しかけた。何が本当の気持ちだ。お前は何にも分かっちゃいない。尋常じゃなく叫びたい気持ちに駆られたが何とか俺は耐え抜いた。


「私立にいかなくても、僕は勉強していい大学にいくから、安心して」

「おお、そうかそうか。誠也は昔から賢いもんな。この前の通信簿も体育以外はオール五だもんな。きっと将来、このまま頑張れば良い人生を送れるぞ~」

「うん。僕、頑張るね」

「よし。今週の日曜日は出かけよう。誠也のいきたいところに連れてってやる。どこでもいいぞ。考えとけ」

「本当? やったー、ありがとう、お父さん」


 再び鳴った鍵の開く音に、俺は階段を音を立てぬようにし何段か上がると、壁にピタリと身を寄せ潜んだ。帰宅した母親は、俺がまさかそこに隠れているとは思わず、リビングへと入っていった。


「あ、お母さんお帰り」

「ただいま~。あら、りんご食べたのね」

「うん、おいしかったよ」

「あぁ、お前も一緒にいくか? 日曜日」

「いくってどこへ?」

「久しぶりに誠也と出かけようと思うんだ、なっ」


 見えなくても、あいつが満面の笑みで頷いているのが想像出来た。


「私に気を遣わなくていいわよ。二人で楽しんできて」


 この会話を聞き続けていて、俺は分かってしまったんだ。


「誠也、勉強頑張るってさ」


 この家は、俺が思っていた以上に狂ってしまっていて、


「あら、これ以上頑張らなくても十分だわ」


 もう、取り返しのつかない状態になっていて、


「いや、嬉しい限りじゃないか。将来が楽しみだ」

「ふふ、そうね、ご飯支度しちゃうわね。あら?」


 家中の空気と言う空気には、嘘という文字が埋め込まれていて、


「どうした?」

「真、帰ってるのね。りんご一緒に食べたの?」

「ううん。一緒には食べてない」


 その空気を吸い込み続けて虚言ロボットへと化したあいつのせいで、


「もういいだろう。早く飯にしてくれ」

「……そうだったわね。ごめんなさい」



 俺の存在はいつの間にかないもの扱いになっているんだと言うことを。


 ずっと蓄積されていた違和感は、清々しく剥がれ落ちていく。謎が、解けたのだ。

 

 それと同時に、俺のあいつに対する苛立ちは、大きな怒りと憎しみへ変化を遂げたのだ。




 嘘つき――!




 食卓に夕飯が並べられても、誰ひとりとして俺を呼びにくることはなかった。


 だから、その日はサービス。自ら登場してやったんだ。


 開かれたリビングの扉に目を丸くしたのは母親だった。父親はちらりと俺の姿を見てあからさまにうんざりした顔をし、そしてあいつはのオーラを発し味噌汁をすすっていた。俺の席にポツンと置かれた食事はラップでひとつひとつうざったいくらに丁寧に覆われていた。


「あら、真も食べる? 今温めるわね」


 何も悪くないような顔をして母親が椅子から立ち上がろうとしたその行動に、俺のスイッチは完全にONにされたんだ。


 ガシャーン!


 人間が、どんな場合でも理性を失う瞬間は末恐ろしいものだ。四人がけの木造りのテーブルを俺は掴み、怒り任せに押しやった。


 母親が悲鳴を上げる。割れ散らばった食器。ぐちゃぐちゃになった食事。俺は自分でも気色が悪かったが、込み上げる笑いを何故か止めることが出来なかった。


「誠也!」


 飛んだ破片が掠ったのか、袖を捲り上げているあいつの左腕からツーッと流れ出した血液が一本の筋を描いていた。泣きも喚きもせず、あいつは驚嘆し、俺を見つめていた。


 あいつに傷がついたことで父親の憤りはピークに達したのだろう、こちらに向かってきた。俺は迷わず自分の席の椅子を手に取ると、父親に投げつけた。

 

 父親が避けたことで床へと落ちた椅子の足は、その衝撃でバキッと人間の骨が折れたかのような音を上げ、無残に成り果てた。


 三人をぐるりと睨むように見つめた俺の口からは無意識に言葉が飛び出していた。



「よかったね。もうこれでみんな安心だね。俺の席、なくなったから」



 俺は茫然とするやつら両親とあいつへ“崩壊”と言う二文字を突きつけ、リビングを去った。この日を境にあいつの纏っていたオーラは、俺の纏ったどす黒いオーラに逆転を許した。



 そして会話を交わすことも、なくなった。


 


 ◆



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