フユが話しかけてきたのは、ハルが下駄箱で靴を履き替えているときのことだった。

 朝の登校時間はまだ早く、玄関は薄暗い。半分眠っているような子供たちの声があたりから聞こえていた。

「明日、会えるそうよ」

「…………」

 フユはハルの隣で、内履きを地面に下ろしている。彼女の表情は、いつもと変わらない。

 下駄箱の前には、ちょうど二人しかいなかった。

 フユはとんとん、と靴のつま先をそろえながら、

「時刻は昼前、場所は学校の体育館ということだから」

「そう」

 ハルは下駄箱のほうを向いたまま、つぶやくように答えている。

「本当に行く気かしら、あなたは?」

「――もちんろんだよ」

 フユはじっと、ハルのことを見つめた。彼女はいつもと同じような無表情を浮かべていたが、その瞳の奥にはいつもとは違う何かが小さく揺れているようでもある。

「あなたはきっと、頭がおかしいんでしょうね」

 と、フユは真顔でそんな言葉を口にした。

 けれど――

「……ありがとう」

 とハルは、答えている。

 フユは見覚えのないものに手を触れてしまったように、首を傾げた。この少年は、何を言っているのだろう?

「ぼくのことを心配してくれるんだね、フユは」

「…………」

「普通の人とやりかたは違うけど、それは君の優しさから出てる言葉なんだ。君は人が傷ついたり、傷つけられたりするのが嫌なんだよ。だから君は、いつも一人でいようとする」

「…………」

 フユはしばらく黙っていたが、いつもの無表情で、

「あなたは本当にバカね、宮藤晴――」

 そう言って、フユはもう関心をなくしてしまったようにくるりと向きを変え、校舎のほうに行ってしまった。

 しばらくのあいだ、ハルはその場にとどまっていた。玄関からはひっきりなしに子供たちが現れ、下駄箱のあいだを抜けていった。誰もが、いつもの場所の、いつもの時間へ向かっていく。

 ただ、ハルだけをのぞいて。


 その日の夜、ハルはベッドの中でぼんやりと考えていた。

 白い天井が、蛍光灯の明りに照らされている。いつもの見慣れた天井だった。

 ハルは目の焦点があわないように、思考の焦点をうまくあわせることができなかった。集中しようとすると、まるで水をつかんでいるように何の手応えも返ってこない。

 言葉の一つ一つがばらばらに解きほぐされ、それを意味のあるものとして組み立てるのにひどく苦労しなくてはならなかった。思考と記憶が乱雑に混ざりあい、子供のおもちゃ箱のように混沌としていた。

 不完全な世界と――

 完全な魔法――

 ハルはそんなことを、頭の中でぐるぐると考え続けていた。海の中を深く、深くもぐっていくように、考えれば考えるほど、世界は暗く静かになっていった。

 結城季早――

 失ったもの――

 魔法――

 完全な世界――

(いったい)

 目の焦点をあわすことさえ忘れて、ハルは考えていた。

(いったい、何なんだろう)

 自分は何を、望んでいるのだろう。

 自分は何を、望んでいないのだろう。

 自分は何を、知りたいのだろう。

 自分は何を、知りたくないのだろう。

 自分は何を、得たのだろう。

 自分は何を、失ったのだろう。

 ――わからない。

 わからなかった。

 ハルははかすかに自分の手が震えるのを感じた。

 恐いんだろうか?

 結城季早に会うことが。

 彼が自分を殺そうとするかもしれないことが。

 あるいは――

 この世界の不完全さを知ってしまうことが――

 いつの間にかすっかり日が暮れて、窓の外は徐々にインクをこぼしたような闇に染まりつつあった。

 まるですべての時間をやりすごそうとするかのように、ハルはじっと動かないままでいる。

 やがて世界は完全な暗闇に包まれ、空気の一粒一粒が黒く染まったような時間がやって来ていた。

 そっと目をつむると、ハルはいつの間にか眠ってしまっていた。体の中に、ゆっくりと黒い闇がしみこんでくるような気がした。

 窓の外では、音もなく雪が降りはじめている。

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