志条芙夕が〝それ〟に気づいたのは、下校時間になってからのことだった。フユはランドセルを担いだまま、それを手に持っている。机の奥にあったせいで、今まで気づかなかったらしい。

「…………」

 それは、円筒形のフレームに卵を収めたような、奇妙な形をしたオブジェだった。大きさは手の平に収まるくらいで、デザインのわりには古めかしい感じがした。その形状からは、何に使うのか見当もつかない。

 けれど実のところフユは、それが何なのかを知っていた。そして誰が、それを自分の机の中に入れたのか、ということも。

 フユは目を閉じ、意識を集中させた。それはまるで、何かに耳を澄ませているようにも見える。

 はるか昔の、かすかな風の音に――

 柔らかな草の上に落ちた、小さな雨粒の重みに――

 クラスメートの一人が、「志条さん、さよなら」と声をかけるが、フユは反応もしなかった。声をかけた生徒はちょっと困ったようにしながらも、慣れたように行ってしまう。フユという少女は強制されないかぎり、自分からはほとんど挨拶をしなかった。

 フユは水面に手を入れ、自ら波紋を起こすようにしながら、次第にそれを一定の形に作り変えていく。フユは世界に生じさせる〝揺らぎ〟を、自ら作っていた。

 その揺らぎが一定の型に整うと、人がずっと昔に忘れてしまった力が、世界には生じていた。

 フユはゆっくりと、目を開いた――


 ハルは目の前にかざした〝感知魔法〟用のペンダントから顔をそらし、それをポケットの中にしまった。体育館裏のその場所には、学級菜園が作られていて、トマトやジャガイモといった野菜が植えられている。ハルは体育館の影になった、段差のところに腰かけていた。

 あたりに人影はなく、地面には夏の陽射しが刻みこまれている。

 やがて待つほどもなく、校舎のほうから一人の人物が姿を現していた。

 その人物は日陰の中ぎりぎりの、ハルとは微妙に距離をとったところで立ちどまった。たぶん、警戒しているのだろう。

「どういうわけかしら、こんなところに呼びだして」

 と彼女、志条芙夕は言った。

 フユは暑さとは無関係なような、シックな服装をしている。この少女がそういう格好をすると、今が夏だということを忘れてしまいそうだった。

「もしかして告白でもするつもり? それとも、私をっていうのかしら? どちらにせよ、ずいぶん手の込んだやりかたね」

 言いながら、フユはあくまでも無表情だった。

「本当にそう思うの?」

「まさかね」

 そう言って、ハルのほうに向かって何かを放り投げている。ハルは片手で、それを受けとめた。

「それは返しておくわね。けっこう貴重なものじゃないのかしら、それ? よく貸してもらえたわね」

「君のことを話したら、喜んで貸してくれたよ」

「それは光栄ね、わざわざ重要人物みたいに扱ってもらえるなんて。あの人は今も元気なの? 〝魔法管理者コンダクター〟の一人とはいえ、あなたのおばあさんなんだから、それなりの歳にはなっているはずだけれど」

「とても元気だよ。それにそれほどの歳でもないしね」

「でも、どうなのかしらね。というのは、それなりにつらいものなんじゃないかしら?」

 彼女は皮肉や同情で、それを言っているのではなかった。たぶん彼女は、本当にそう思っているだけなのだろう。

「――君はやっぱり、魔法のことを知ってるんだね」

 ハルは意識的に話の流れを変えた。

「さあ、どうかしら」

 フユは動揺もしていない。けれどハルは続けた。

「それに、魔法も使える」

「…………」

 今度は、黙った。

 ハルはその手の中の、奇妙なオブジェのようなものをいじりながら続けた。

「これは〝読心魔法リーディング〟の魔術具オブジェクトだ。相手のすぐ近くに、気づかれないように印をつけると、その相手の心が聞きとれる。もちろん、君はそれを使ってここに来た。ぼくがつけておいた印は、消しておいてくれた?」

「ええ――でも、イスの裏にチョークで印をつけておくなんて、ちょっと卑怯じゃないかしら?」

「悪いけど、そこしか思いつかなかったんだ。ちょうど掃除当番だったしね」

「それで?」

 フユはまっすぐにハルのほうを見た。

「何か私の秘密でも探りあてたわけ? それで私を脅そうと?」

「違うよ」

 ハルは首を振った。

「ぼくは君の心を読んでなんかいないし、第一魔法使い相手にそれは難しい。魔法の揺らぎですぐにわかっちゃうからね。ぼくは少し確認したかっただけだよ、君のことについて」

「…………」

「君はこの魔術具を見て、それがどういうものであるかを知っていた。もちろん可能性は低いけど、心を読まれてしまった可能性もそこにはあった。そして念のために魔法を使ってみて、ぼくの心を読んだ……それを仕組んだのはぼくだけどね。そうしてぼくがイスの裏に印をつけておいたこと、体育館裏で待っていることを読んだ。そして君はやって来た。ここからわかることはいくつかある。君が魔法使いということもそうだけど、それより、君は、ということだよ。だから可能性は低いとはいえ、君はこうして確認しに来ざるをえなかった」

 二人はしばらく黙っていた。

 夏の陽射しはわずかに、遠くなったようである。まるで二人のいる場所だけが世界から離れていってしまうみたいに。

「――それで、私をどうしようっていうのかしら?」

 フユはまったくいつも通りの口調で訊いた。不安も怯えも、そこにはない。

「その秘密をしゃべるまで殴りつけるとか?」

「そんなことはしないよ」

「ずいぶん紳士的なのね。それとも、のん気なだけかしら?」

「今のところぼくには何が起きてるのかさっぱりわからないし、ほかに考えなくちゃいけないこともあるしね」

「ふうん」

 フユはまあどうでもいいけれど、という感じに視線を外した。

「じゃあ、話はこれでお終いかしら?」

「もう一つ聞きたいことがあるよ」と、ハルは言った。「猫のことについて――」

 フユは不審そうな顔でハルのことを見つめた。

「どこで聞いたのかしら、そんなこと」

「おせっかいで優秀な情報源を、ぼくは持ってるんだよ」

「ふうん」

 フユはもう一度言って、けれど相変わらず無表情に、

「これはクラスメートのよしみとして、言っておこうかしら」

 と、ハルのことを見つめた。

「?」

「宮藤晴くん、あなたはわよ」

「…………」

「あなたの生命、から。それなのに、ほかに考えることなんてあるのかしら? まだ時間がかかりそうとはいえ、あなたは確かに狙われているのよ」

 フユはそう言って、ほんの少しだけ笑った。

 そうしてフユは、夢そのもののように不確かなその笑顔だけを残して行ってしまう。

 ハルはそのあいだ、ぼんやりとその場所にとどまっていた。胸の奥のどこかで、遠い昔に忘れてしまった傷がかすかに疼いたような、そんな気がした。

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