7
下校時間になったとき、アキはさっさと帰る準備を終えてしまい、ランドセルを持って立ちあがった。友達が声をかけてくるが、アキはその誘いを断ってしまう。
事件のことも、魔法のことも、魔法使いのことも、それから宮藤晴という少年のことも――アキにはわからなかった。解決したって、どういうことだろう? 魔法って、何のことだろう?
そしてどうして、こんなにもあの少年のことが気になるのだろう?
(……何なんだろう)
アキは不機嫌そうな表情で、考えていた。わかっているのはただ、このままですますわけにはいかない、ということだけだ。まるで落ちつかない気分だった。
だからアキは立ちあがると、まっすぐにハルの座席に向かっている。
ハルは机の中から教科書を出して、帰る準備をしているところだった。
「ちょっといい?」
アキが言うと、ハルはアキのことを確認して、特に気にせずに教科書やノートをカバンの中に片づけはじめている。
「いろいろ聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
もう一度言うと、ハルは立ちあがってランドセルを手に持った。
「本当に、聞きたい?」
おもむろに、ハルはそんなことを言う。
まるでその話を聞いてしまえば、もうこの世界には戻って来れなくなってしまうみたいに。どこかの少女が落ちた兎の穴のような、厄介で不可思議な世界がそこには待っている、とでもいうみたいに。
けれどアキは――
迷うことなく、うなずいていた。
学校の屋上には誰の姿もなかった。生徒の大半は下校してしまっているので、校内にもほとんど人は残っていない。学校の中で一番何もなくて寂しいその場所は、世界に間違ってとり残されたような、今にもどこかへ消えてなくなってしまいそうな、ひどく頼りなげな雰囲気を漂わせていた。
ハルとアキはランドセルを置いて、柵によりかかった状態で座っている。二人とも足を投げだして、遠くの空を眺めていた。陽はまだ暮れる気配はない。
「それで、何から聞きたいの?」
空の向こうは透明で、青くて、雲がやけに白かった。
ハルと同じように空を見ながら、アキは何だかぼんやりとしている。時間の流れがどこかゆっくりとしていた。
「とりあえず、魔法のことかな」
「うん」
「どうして、香月さんがカードを持ってるってわかったの?」
昼休みの時、この少年は何をしていたのだろう。
「あれは、糸をたぐってたんだ」
「糸?」
「何ていうか、そんなようなものだよ。魔法は言葉じゃうまく説明できないんだ。あれは〝つながりを探知する〟というか、〝存在の波みたいなものを感じる〟ための魔法なんだ」
「えっと……」
よくわからない。
「簡単に言うと、〝もの探し〟の魔法だよ。〝
アキは首だけ動かして、ハルのほうを見た。
「本当に〝魔法〟なわけ?」
ハルはまっすぐ、空のほうを向いている。
「そうだよ」
「魔法って何?」
「昔々、ぼくたちが誰でも持っていた力。でも言葉を覚えて、みんなが忘れてしまった力」
「……?」
「世界を自由に造り変えるもの、それが魔法――」
「本当に、本物の……?」
「うん」
アキは再び、まっすぐ空のほうを向いた。
「……じゃあ、信じる」
ハルは不思議そうに、アキのことを見た。
「宮藤くんがそういうなら、信じる。それが本物の魔法だって」
「…………」
それで、とアキは尋ねる。
「結局、何がどうなったの? えと、カードが盗られて、それは香月さんが拾って、でも香月さんは犯人じゃなくて……」
「問題は、全校集会のあいだにカードが盗られたってことなんだ」
ハルはゆっくり、しゃべりはじめた。
「そのあいだは、ぼく以外は全員、アリバイがあるというか、誰も教室まで行ってカードを盗んでくることはできない。保健の先生が例外といえば例外だけど、どう考えてもこれは違うと思う。だから一番自然な解答は、こうなんだ。カードを盗んだ人は外からやってきたって」
「……は?」
「犯人は最初から、学校の中にはいなかったんだ。たぶん、外から入ってきたんだよ」
アキは何故だか、もごもごと口を動かしたまましゃべれなかった。
「そして犯人は、魔法使いだったんだ。たぶん、壁をすり抜ける魔法みたいなのを使ったんだと思う。それで箱の中身だけを取りだしたんだ。だから、鍵は閉まっていた。最初から、開いてなんかいないんだ」
「でも、だって、それは魔法でなくったって……」
「違うんだ」
ハルは少しだけ首を振る。
「間違いなく、魔法は使われたんだ。そのことは、本当は最初からわかってたんだよ。ただ、カードを盗むのに使われたとは思ってなかっただけで」
「最初から?」
「ぼく、全校集会で具合が悪くなったでしょ」
「ん――」
アキは何かに気づいたような顔をする。
「魔法を使うと、世界に〝揺らぎ〟みたいなのが生じるんだ。たぶん、世界の存在そのものと反発してるんだと思う。そういう揺らぎみたいなのを感じると、時々気持ち悪くなるんだ。必ずそうなるってわけじゃないけど」
そうだ――
それは、アキにもわかる。あの時、アキ自身もかすかに感じていたのだ。だからハルの様子がおかしなことにも気づいたし、昼休みにハルが魔法を使ったときにも、何だか覚えがあるような気がしたのである。
「犯人はそうやって、カードを盗みだした。全校集会の、誰もいないあいだに、魔法を使って」
「でもさ、どうして盗んだはずのカードがごみ箱で見つかるの?」
「よくはわからないけど、こうとしか考えられないんだ。犯人は盗んだカードを、一組のごみ箱に捨てたって」
「でも、それって……」
「うん。これじゃあ何のために学校までやって来て、カードを盗んだりしたのかわからないんだ。でも事実としては、それ以外には考えられない。わざわざ一組のごみ箱に捨てたのは、たぶん持ち主に見つけられないようにするためだと思う」
「…………」
何なんだろう、とアキは思う。だってこれでは、何も解決していないのと同じではないか。
「じゃあさ、じゃあどうするの? 犯人は見つけられないし、カードも取り戻せない」
「大丈夫だよ」
ハルは何故だか、少し笑って言った。それは何だか、本当に何もかもが大丈夫になってしまいそうな、不思議な笑顔だった。
「でも、本当にどうするの?」
「放っておけばいいよ」
「俊樹が『ベンショーしろ』って言ってきたら?」
「大丈夫」
そう言われて、アキにはもうそれ以上何も言えなくなってしまう。この少年には、そういうところがあった。すべてをうまく調律してしまうようなところが。
二人はしばらく、黙っていた。
それから不意に、ハルが訊いている。
「……ぼくも聞きたいことがあるんだけど」
それは空からふと風が吹いてくるような、ささやかな口調だった。
「何?」
「どうして君は、最初にぼくが疑われたとき、そうじゃないと思ったの?」
「え……」
そう言われて、アキはハルの顔をのぞきこんでしまう。ハルは落ちついた、いつもと同じ表情をしていた。けれどその言葉には、何だかそれ以上のものが含まれている気がした。暗い森の奥で、何かがひっそりと息づいているように。
アキはこの少年の顔をのぞきこんで、その瞳がかすかに灰色がかっていることに気づく。それはじっと見つめているとそうだとわかる、不思議な色あいの瞳だった。
アキはそっと、ハルの表情を見つめる。
透明で、硬質で、でもひどく脆そうな顔。
(ああ、そうか――)
とアキは思う。
この少年は、急いで大人にならなくてはならなかったんだ。
母親がいないということ――
故障した世界――
この少年はそうしなければ、きっとこの世界の重みに耐えられなかった。
そう思うとアキは心のどこか見覚えのない部分が、ぴりぴりと痛むような気がした。それはとても不思議な痛みで、今までに一度も感じたことがないような種類のものだった。そんなものがこの世界にあるのだなんて、少しも知らなかった痛み――
「だって――」
と、アキは自分でも知らないうちに笑っていた。そうしてあげなくてはいけないような気が、アキにはしていた。
「君と友達になりたいと、思ったから。君は絶対にそんなことしないって、わかってたから。君はそんなやつじゃないって、知ってたから。君のこと、助けたかったから」
早口で、アキは自分でも何を言っているのかわからない。
「君のことを知りたいと、思ったから。君と仲良くなりたいと、思ったから。どうして君とわたしが出会ったのか、知りたかったから――」
言いながら、アキは何だかようやく恥ずかしくなりはじめている。頬が赤くなるのが、自分でもわかった。
「えと、だから、絶対にそうじゃないって、思ったから」
「――ありがとう」
「え……」
アキはきょとんとした。
「たぶん、そう言うべきなんだと思う。よくわからないけど、ぼくは君に感謝すべきなんだって。君がそう言ってくれたことを、君がぼくをかばってくれたことを」
いつもと同じ笑顔を、ハルは浮かべる。
――けれどいつもより、少しだけ柔らかい笑顔を。
アキは顔を赤くして、うつむいてしまった。何なんだろう、この少年は。やっぱりどこか、変わっている。
腹立たしいような、恥ずかしいような気持ちで、アキは言った。
「名前!」
「……?」
「名前、言ってなかったでしょ。わたしは水奈瀬陽!」
ハルは首をかしげて、でも落ちついて言った。
「ぼくは、宮藤晴」
アキは何だか変な顔をした。
「……ハルとアキ?」
「らしいよ」
「…………」
二人は急におかしくなって、何故だか笑ってしまう。空っぽの屋上は、ただそこにあることによって、二人を存在させていた。
空の上にはただ、透明な青さばかりが広がっている。
――こうして、宮藤晴と水奈瀬陽は、友達になったのだった。
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