下校時間になったとき、アキはさっさと帰る準備を終えてしまい、ランドセルを持って立ちあがった。友達が声をかけてくるが、アキはその誘いを断ってしまう。

 事件のことも、魔法のことも、魔法使いのことも、それから宮藤晴という少年のことも――アキにはわからなかった。解決したって、どういうことだろう? 魔法って、何のことだろう? 

 そしてどうして、こんなにもあの少年のことが気になるのだろう?

(……何なんだろう)

 アキは不機嫌そうな表情で、考えていた。わかっているのはただ、このままですますわけにはいかない、ということだけだ。まるで落ちつかない気分だった。

 だからアキは立ちあがると、まっすぐにハルの座席に向かっている。

 ハルは机の中から教科書を出して、帰る準備をしているところだった。

「ちょっといい?」

 アキが言うと、ハルはアキのことを確認して、特に気にせずに教科書やノートをカバンの中に片づけはじめている。

「いろいろ聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」

 もう一度言うと、ハルは立ちあがってランドセルを手に持った。

「本当に、聞きたい?」

 おもむろに、ハルはそんなことを言う。

 まるでその話を聞いてしまえば、もうこの世界には戻って来れなくなってしまうみたいに。どこかの少女が落ちた兎の穴のような、厄介で不可思議な世界がそこには待っている、とでもいうみたいに。

 けれどアキは――

 迷うことなく、うなずいていた。


 学校の屋上には誰の姿もなかった。生徒の大半は下校してしまっているので、校内にもほとんど人は残っていない。学校の中で一番何もなくて寂しいその場所は、世界に間違ってとり残されたような、今にもどこかへ消えてなくなってしまいそうな、ひどく頼りなげな雰囲気を漂わせていた。

 ハルとアキはランドセルを置いて、柵によりかかった状態で座っている。二人とも足を投げだして、遠くの空を眺めていた。陽はまだ暮れる気配はない。

「それで、何から聞きたいの?」

 空の向こうは透明で、青くて、雲がやけに白かった。

 ハルと同じように空を見ながら、アキは何だかぼんやりとしている。時間の流れがどこかゆっくりとしていた。

「とりあえず、魔法のことかな」

「うん」

「どうして、香月さんがカードを持ってるってわかったの?」

 昼休みの時、この少年は何をしていたのだろう。

「あれは、糸をたぐってたんだ」

「糸?」

「何ていうか、そんなようなものだよ。魔法は言葉じゃうまく説明できないんだ。あれは〝つながりを探知する〟というか、〝存在の波みたいなものを感じる〟ための魔法なんだ」

「えっと……」

 よくわからない。

「簡単に言うと、〝もの探し〟の魔法だよ。〝追跡魔法ディテクティング〟っていうんだ。あの箱とカードは、存在の糸みたいなものでつながってた。もちろんほかにもいろいろつながってるから、その中から正しいものを選ばなくちゃいけないけど。ちょっと例えは変だけど、犬がにおいを嗅いで持ち主を探すようなものだね」

 アキは首だけ動かして、ハルのほうを見た。

「本当に〝魔法〟なわけ?」

 ハルはまっすぐ、空のほうを向いている。

「そうだよ」

「魔法って何?」

「昔々、ぼくたちが誰でも持っていた力。でも言葉を覚えて、みんなが忘れてしまった力」

「……?」

「世界を自由に造り変えるもの、それが魔法――」

「本当に、本物の……?」

「うん」

 アキは再び、まっすぐ空のほうを向いた。

「……じゃあ、信じる」

 ハルは不思議そうに、アキのことを見た。

「宮藤くんがそういうなら、信じる。それが本物の魔法だって」

「…………」

 それで、とアキは尋ねる。

「結局、何がどうなったの? えと、カードが盗られて、それは香月さんが拾って、でも香月さんは犯人じゃなくて……」

「問題は、全校集会のあいだにカードが盗られたってことなんだ」

 ハルはゆっくり、しゃべりはじめた。

「そのあいだは、ぼく以外は全員、アリバイがあるというか、誰も教室まで行ってカードを盗んでくることはできない。保健の先生が例外といえば例外だけど、どう考えてもこれは違うと思う。だから一番自然な解答は、こうなんだ。って」

「……は?」

「犯人は最初から、学校の中にはいなかったんだ。たぶん、外から入ってきたんだよ」

 アキは何故だか、もごもごと口を動かしたまましゃべれなかった。

「そして犯人は、魔法使いだったんだ。たぶん、壁をすり抜ける魔法みたいなのを使ったんだと思う。それでんだ。だから、鍵は閉まっていた。最初から、開いてなんかいないんだ」

「でも、だって、それは魔法でなくったって……」

「違うんだ」

 ハルは少しだけ首を振る。

「間違いなく、魔法は使われたんだ。そのことは、本当は最初からわかってたんだよ。ただ、カードを盗むのに使われたとは思ってなかっただけで」

?」

「ぼく、全校集会で具合が悪くなったでしょ」

「ん――」

 アキは何かに気づいたような顔をする。

「魔法を使うと、世界に〝揺らぎ〟みたいなのが生じるんだ。たぶん、世界の存在そのものと反発してるんだと思う。そういう揺らぎみたいなのを感じると、時々気持ち悪くなるんだ。必ずそうなるってわけじゃないけど」

 そうだ――

 それは、アキにもわかる。あの時、アキ自身もかすかに感じていたのだ。だからハルの様子がおかしなことにも気づいたし、昼休みにハルが魔法を使ったときにも、何だか覚えがあるような気がしたのである。

「犯人はそうやって、カードを盗みだした。全校集会の、誰もいないあいだに、魔法を使って」

「でもさ、どうして盗んだはずのカードがごみ箱で見つかるの?」

「よくはわからないけど、こうとしか考えられないんだ。って」

「でも、それって……」

「うん。これじゃあ何のために学校までやって来て、カードを盗んだりしたのかわからないんだ。でも事実としては、それ以外には考えられない。わざわざ一組のごみ箱に捨てたのは、たぶん持ち主に見つけられないようにするためだと思う」

「…………」

 何なんだろう、とアキは思う。だってこれでは、何も解決していないのと同じではないか。

「じゃあさ、じゃあどうするの? 犯人は見つけられないし、カードも取り戻せない」

「大丈夫だよ」

 ハルは何故だか、少し笑って言った。それは何だか、本当に何もかもが大丈夫になってしまいそうな、不思議な笑顔だった。

「でも、本当にどうするの?」

「放っておけばいいよ」

「俊樹が『ベンショーしろ』って言ってきたら?」

「大丈夫」

 そう言われて、アキにはもうそれ以上何も言えなくなってしまう。この少年には、そういうところがあった。すべてをうまく調律してしまうようなところが。

 二人はしばらく、黙っていた。

 それから不意に、ハルが訊いている。

「……ぼくも聞きたいことがあるんだけど」

 それは空からふと風が吹いてくるような、ささやかな口調だった。

「何?」

「どうして君は、最初にぼくが疑われたとき、そうじゃないと思ったの?」

「え……」

 そう言われて、アキはハルの顔をのぞきこんでしまう。ハルは落ちついた、いつもと同じ表情をしていた。けれどその言葉には、何だかそれ以上のものが含まれている気がした。暗い森の奥で、何かがひっそりと息づいているように。

 アキはこの少年の顔をのぞきこんで、その瞳がかすかに灰色がかっていることに気づく。それはじっと見つめているとそうだとわかる、不思議な色あいの瞳だった。

 アキはそっと、ハルの表情を見つめる。

 透明で、硬質で、でもひどく脆そうな顔。

(ああ、そうか――)

 とアキは思う。

 この少年は、急いで大人にならなくてはならなかったんだ。

 母親がいないということ――

 故障した世界――

 この少年はそうしなければ、きっとこの世界の重みに耐えられなかった。

 そう思うとアキは心のどこか見覚えのない部分が、ぴりぴりと痛むような気がした。それはとても不思議な痛みで、今までに一度も感じたことがないような種類のものだった。そんなものがこの世界にあるのだなんて、少しも知らなかった痛み――

「だって――」

 と、アキは自分でも知らないうちに笑っていた。そうしてあげなくてはいけないような気が、アキにはしていた。

「君と友達になりたいと、思ったから。君は絶対にそんなことしないって、わかってたから。君はそんなやつじゃないって、知ってたから。君のこと、助けたかったから」

 早口で、アキは自分でも何を言っているのかわからない。

「君のことを知りたいと、思ったから。君と仲良くなりたいと、思ったから。どうして君とわたしが出会ったのか、知りたかったから――」

 言いながら、アキは何だかようやく恥ずかしくなりはじめている。頬が赤くなるのが、自分でもわかった。

「えと、だから、絶対にそうじゃないって、思ったから」

「――ありがとう」

「え……」

 アキはきょとんとした。

「たぶん、そう言うべきなんだと思う。よくわからないけど、ぼくは君に感謝すべきなんだって。君がそう言ってくれたことを、君がぼくをかばってくれたことを」

 いつもと同じ笑顔を、ハルは浮かべる。

 ――けれどいつもより、少しだけ柔らかい笑顔を。

 アキは顔を赤くして、うつむいてしまった。何なんだろう、この少年は。やっぱりどこか、変わっている。

 腹立たしいような、恥ずかしいような気持ちで、アキは言った。

「名前!」

「……?」

「名前、言ってなかったでしょ。わたしは水奈瀬陽!」

 ハルは首をかしげて、でも落ちついて言った。

「ぼくは、宮藤晴」

 アキは何だか変な顔をした。

「……ハルとアキ?」

「らしいよ」

「…………」

 二人は急におかしくなって、何故だか笑ってしまう。空っぽの屋上は、ただそこにあることによって、二人を存在させていた。

 空の上にはただ、透明な青さばかりが広がっている。


 ――こうして、宮藤晴と水奈瀬陽は、友達になったのだった。

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