夕闇の刃(一)後編


 村の近くにまで戻ると、丸太の柵の上から村人の一人から声を掛けられた。どうやら向こうへ回れということらしい。村人が指さした方向に行くと、大きく開いた門があった。この村の正門のようだ。門の向こうには私が救った百人近くの人々がいた。

 その中には、いつの間にか着いていたレフの姿もあった。人の輪から数歩下がったところで、私のことを見ている。

 私は聖剣を地面に突き立て、腹から声を出した。


「勇者アルマ。ゴブリンを七体、討ちました」


 その言葉で村人たちの表情に喜色が浮かんだ。感謝の言葉が方々から掛けられて、拍手の音が鳴り渡る。

 今日も私は成し遂げた。

 勇者としての責任を果たして、人々の期待に応えて、求めに従った。その安堵感で緊張が解けて、身体から若干力が抜ける。

 この瞬間は、この瞬間だけは、私も素直に嬉しかった。

 十に届かない程度の童女に飛び付かれ、私は態勢を崩し、尻餅をついた。童女が私に笑い掛ける。それにつられて、私も少し微笑んだ。

 風切り音。

 肉を貫く音。

 私の胸元にぽたりぽたりと赤い雫が落ちる。


「あ……」


 私は小さくそう漏らした。

 眼前の童女の胸に突き立っている、矢。

 首を後ろに向ける。赤い目と視線が合った。8体目だ。

 私の上に乗った童女を退け、立ち上がった。聖剣を引き抜き、ゴブリンの方へと向く。二射目の矢を引き番え始めている。

 童女のか細い息が聞こえる。長くはないだろう。逡巡する。しかし、結論は決まっていた。


「ごめんなさい」


 誰にも聞こえない声でそう呟くと、私は聖剣の切っ先を横たわる童女の華奢な胸に刺した。

 人を斬ったのは初めてだ。魔物を斬る時よりも抵抗があるのは、儀式をしていないせいなのか。

 しゃがみ、童女の目を見開いたまま瞼を閉じた。

 ゴブリンを両の目で捉える。息を大きく吸い込んで、止める。そして、その状態から両足で地面を蹴った。一足飛びで近づき、聖剣を振り被る。短く気合を発して、叩き斬った。八。

 剣についた童女のともゴブリンのとも分からない血を見て、私は目を閉じ、息を吐き出した。

 振り返ると、人々の視線が私と童女の骸に向けられていた。

 私はそれに対して何の反応をすれば良いのか全く分からず、ただ誰とも視線を合わさないようにぼんやりと見るより仕方がない。

 群衆の中から、一人の男が童女の遺骸に飛びつき、その胸に強く抱きしめて、叫んだ。


「勇者様、何故っ。何で……。いや、分かるさ、分かっています。……けれど、しかし。分からない。何故、何故なのですか。何故、私の娘なのですか。今、命を落としたのは、何故私の娘でなくてはならなかったのですか」


 涙交じりの咆哮が、私の耳を劈く。

 隻腕のその男、ハンリツだった。

 ブンセイは「お前のたった一人の家族で、娘にとってもお前がたった一人の家族だ」と彼に言っていた。

 恐らく、娘を独りにしない為に、ブンセイの死を受け入れたのだ。しかし、それを私は奪った。私がこの手で。

 ハンリツは娘の亡骸を膝に抱えながら、何度も何度も地面を殴りつけた。「何で、どうして」そのつぶやきだけが聞こえる。

 拳から血が流れ、肉が抉れ、骨が少し見え始めた時より、ハンリツの殴打は次第に弱くなり、遂には蹲るようになって、止まった。

 啜り泣く声が聞こえて、そのままの姿勢でハ ンリツは言った。


「勇者様……。この村を救って頂き、ありがとうございます。勇者様には最良の選択をして頂きました。お陰で今、我々は命があります」


 ハンリツが再び、娘だったそれを強く抱く。


「けれど私は許せない。分かっています。全て、勇者様のせいじゃない。けれど、でも……、あなたのせいにしないと、私は。私は、どうすれば良いのですか……」


 顔を上げた彼の怒りに変えられない悲しみでぐしゃぐしゃになった表情。

 確かに私の責任ではなかった。

 しかしそれは、私が私の責任ではないと言って逃げられることではないのも事実だった。

 ハンリツの娘を殺したのは、勇者たるこの私だ。


「勇者様、すみません。あなたの顔を、もう見たくない……」

「分かりました」


 私は短くそう返して、村に背を向け、歩き始めた。

 私は救った。

 私は失わなかった。

 私は間違ってはいなかったのだと、そう自分に言い聞かせて、一歩一歩と遠ざかって行った。

 ハンリツの慟哭を背中に受け止めながらも、足を止めはしなかった。道の真ん中から少し外れた所を私はつい急く足を宥めながら、それでも少し早歩きになりながら行く。

 私は正しいことをした。間違っていなかった。後悔はない。最良の選択をしたのだ。

 しかし、一刻も早くここから走って逃げ出したかった。今も聞こえる泣き声。刃先を心に押し当てたまま累積していくその重圧。確かな痛みを伴って私の胸をゆっくりと着実に引き裂く。

 私じゃないのに。

 童女を、ハンリツの娘を斬った感覚が、手に残っている。

 歩調はどんどんと速くなり、息は荒く変わっていく。童女の生気を失ったあの瞳が今も私を見ている。

 私なのだ。

 私は正しいことをした。けれど。

 未だに聞こえるそれに耐えられなくなって走り出そうとした瞬間、私の前に聖剣の鞘が差し出された。


「アルマ様。どうぞ」


 私に追いついたレフがそれを手で持って言う。


「ありがとう」


 荒い呼吸のせいで歪になった口調ながらも、私はそう返した。

 たったそれだけのやり取りで私は波立っていた心が穏やかになっていくのを感じた。

 勇者たる自分の狼狽した姿を誰かに見られたくない。そんな気持ちからだろう。

 鞘を受け取って聖剣を納め、そしていつも通り背中に背負う。一呼吸するとレフが口を開いた。


「この道をずっと行くと湖畔に出ます。今晩はその辺りで泊まりましょう」


 レフは私の前に立って先導する。いつも通り、会話は無いまま道を行く。私に気を使っているわけでもなく、かといって蔑ろにされているわけでもない。そんないつも通りの沈黙が、今の私には心地よかった。

 空全体が赤くなり始める頃、レフが言っていた湖が見えた。水面が風で波立ち、夕日を乱反射している。


「この辺りにしましょう」


 そう言うとレフは手荷物を下ろした。野宿する場所選びは彼の言うことに間違いはない。頷き、私も荷物を降ろした。


「じゃあ、私は」


 レフにそう声を掛けると、私はその場から少し離れた。薪を探すためだ。レフと過ごし始めて約四カ月、野宿をする際の役割分担も自然と決まっていた。私が薪を探している間に、レフは寝食の準備を整えてくれる。というか、私はそこら辺はからっきしであった。

 からっきしといってもこの四カ月で私も少しは学んだ。以前の様に生木を焚き火に放り込み、煙でむせかえることもない。拾うのはしっかりと乾いているものだ。

 レフと過ごしていると人の営みを思い出させられた。何の頓着も要らないこの身体になってから、徐々に忘れていったものだ。

 そして、思うのだ。

 私はただの人間ではない。勇者であるのだと。

 一息つく。充分な量の薪を手に入れた私は、それをしっかりと抱えてレフの元へと戻った。

 レフは寝食の仕度を済ませていた。私は薪を渡すと、腰を降ろした。レフは風よけのために少し掘った所にそれを組み始める。この薪の組み方にも効率のいい方法があるらしいが私にはさっぱり分からない。それを組み終えると、集めておいた枯れ草に、火打石で以って着火し、薪の真ん中へと据えた。しばらくすると、薪は静かに赤く燃え始めた。

 それを確認すると、レフは私の横に座った。

 すっかり日も落ちて、辺りはもう真っ暗だった。

 地上ではこの焚火を光源とした半径数メートルだけが視界を確保できる範囲だ。夜空は霞がかっていて、朧月。

 そんなはっきりとしない風景の中、はっきりと残るのはこの感覚。童女を剣先で貫いたこの感覚。

 自分の手を見ながら、握ったり開いたりを繰り返す。

 いつかはするだろうと思っていた。人を斬る、その方法も取らねばならない時が来るだろうと。覚悟していた、つもりだった。

 湖の彼方で魚が跳ねる水音がした。視線を遣ると、水面に浮かぶ頼りない月が揺れている。

 水面は時間と共に波が小さくなっていき、月は元の形を取り戻していく。


「アルマ様、あなたは正しかった」


 水面の月が、天上のそれと同じ形になった時、レフはそう言葉を漏らした。

 私は正しかった。分かっている。

 私があの時あの命を使わなければ、村を守ることは叶わず、多くの犠牲が出ただろう。何かの間違いでゴブリンが退いていたとしても、矢で胸を貫かれた童女の命が助かっていた可能性は薄い。

 私は正しかった。分かっていた。

 理屈の上では。

 勇者となって三年。人の命を使うことへの罪悪感が日々薄くなっているのは、自覚していた。ただそれは命の軽視ではない。勇者の本分を全うしているだけだと。そう自分に言い聞かせてきてきた。私の心のあり様は少しずつ変わってきてしまった。

 そして今日、私は人を殺した。今は自分の罪に怯えている。けれど、それもいつかは慣れきって、なくなってしまうのではないか。三年前のあの日から今日までと同じように、今日からも明日、そして明日から明後日と少しずつ帰れない場所へと進んでいってしまうのではないか。

 怖かった。自分が罪の意識を失っていくのが。人間性をなくしていくのが。


「私、が、……。私、は……」


 滅裂な言葉。自分の指先は細かく震えている。

 勇者など、辞めてしまいたい。

 それを口にしてはいけない。私の中の何かがそう警鐘を鳴らす。

 私が逃げたら、世界はどうなるのだ。これまで生贄にしてきた人々が波となって、私の心を潰す。

 誰かに託してしまえば。

 そう思ったが無理だった。聖剣は私の血族しか使えない。

 私はまだ子どもの産める体ではなかった。そして、聖剣の効力によってこれ以上成長することは無い。私は、最後の勇者だった。

 逃げたい。逃げられない。

 すべて失って、孤独になるまで、求められるがままに、私は戦い続けないといけない。

 嫌だよ。怖いよ。


 ふわりと。


 私は温かいものに包まれた。


「あなたは正しいことをした。僕は知っています、アルマ様」


 レフ。私は彼に抱かれていた。

 私は驚いたが、それが静まる頃には不思議と心は安らいでいた。

 いつ以来だろう。こんな気持ちは。

 彼の体温が服越しにじんわりと伝わってくる。

 私はもっとレフを感じたくなって。彼の体にしがみついた。

 更に感じる温もりで、私は徐々に力が抜けていく。

 しばらくすると、目の奥から熱いものがじんわりと込み上げてきた。

 恥も忘れて、レフの胸の中で嗚咽する。

 ああ、温かい。

 今は、こうしているのが心地よかった。

 私は自分の心のままに、ただ泣いた。

 かなりの時間がそうしていた。月の位置は随分と変わっている。

 泣き終えた私の心は久方ぶりに、軽く、穏やかだ。

 泣いていた間、レフは一言も喋らず、ただひしと私を抱きしめていてくれた。

 軽く彼の服を握る。

 眠りたい。

 体は正常だったが、心がそう訴えていた。

 寝るなんていうのはいつぶりだろう。そんなことを思いながら私はそっと目を閉じる。


「アルマ様、僕の、命を……」


 言葉の続きを気にすることもなく、私の意識は闇に溶けていった。

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