昏き此方(三)

 また一歩と、真白の雪を踏みしめる。すると奇妙な感覚と共に足首の上あたりまで埋もれた。思わず私は小声で愚痴る。


「煩わしいなあ……」


 雪を踏む、その生まれて初めての感覚を楽しいと思ったのは村を出てから三十分程度で、今はただ思うような歩みができないのが焦れったかった。まるで足を掴まれているかのような感覚で、それは私とレフの歩度を充分なほどに鈍化させている。

 昨晩降った雪で、今冬になってから二度目だという。積もったのは初めて。今年はまだ少ない方だとフョードルは言っていた。

 雪のせいで道は隠されていて、所々の立て石だけが街までの頼りだ。それとなく雪を左右に退かすようにして歩く。私の後ろを歩くレフのためだ。私は彼の様子を確認すために振り向く。

 すると、雪に反射された陽光が目に飛び込んで眩しく、思わず目を細めた。手で光を遮って、ようやく彼がしっかりと見えた。

 私の十歩ほど後ろ。いかにも雪国、といった格好の隙間から見える彼の顔は見るからに疲労していた。フョードル曰く家族が死んでからというもの、それほど食事も摂っていなかったらしい。体力も落ちて当然だ。呼吸を荒げながらでも、よく付いてきているものだとさえ思う。

 一歩、また一歩と彼が進む毎に雪踏む音が聞こえる。それはとても周期的で、彼が迷いなく死へ向かっていることが分かる。

 怖くないのか。

 恐ろしくないのか。

 自ら死を選ぶ。これまで聖剣の贄となった者たちは覚悟こそあったが、死に対しては怯えていた。それに打ち克っていたのは、ひとえに誰かを守るという一心だ。

 レフはどこか違う。これから死ぬことにどこか安心しているようだった。

 分からなかった。分かるはずもなかった。


 「ああ、やっと死ねる」


 死に際にそう言った父が脳裏に浮かぶ。父とレフは、どこか重なる。あの日のことが必然的に思い出されるが、それを頭から追い出すように深く息を吐いた。

 吐き出した息は白い。しかし、幾許もないうちに霧消して、澄み切った青い空に溶けていった。鳥の一羽も、雲の一つも、何もないただ虚しいだけの空だった。


「ねえ」


 私はレフに呼び掛ける。彼は足を止めて顔を上げ、私の方を見る。

 早いペースで吐き出される白い息で、彼の荒い呼吸が視認できた。僅かに紅潮した顔、額には汗が光って見える。

 彼は息を少し整えてから汗を拭う。


「何でしょうか、勇者様」


 彼の声は雪に吸われて、少しも響きはしなかった。

 声は掛けたものの、私は次の言葉に困った。

 何で死ぬのか、それは知りたかったが、聞くべきことではないと分かっていた。

 聞いてどうする。知ってどうする。

 知ったところで結末は変わらない。だからそんなこと、知ってどうするのだ。知りたくない。

 そんな思考がぐるりと頭を一巡してから、私は言葉を紡いだ。


「サダリアまで今どのくらいだろう?」


 私の質問に「半分を少し過ぎたくらいですね」と淀みなくレフは答えた。適当に相槌を打って、私は安心する。上手く取り繕えた。

 半分……か。

 頂点を降って暫く経つ太陽を見る。今日はどこかに泊まることになりそうだなと思った。



 それから空が茜色になるまで歩いても、サダリアには着かなかった。

 しかし、それはフョードルも予想していて、色々と持たされた物があった。なんとなく今日中に着くだろうと思っていたのは私だけだったらしい。まあ、私一人であればとっくに着いていたのは言うまでもないが。

 サダリアまではあと二、三キロメートルといったところ。あと一時間も歩けば着くだろう。しかし、夜になる前に私は歩みを止めた。

 ワイバーンは夜に動くことが多い。無暗に大きな戦闘となって、街に被害が出るのは防ぎたかった。

 レフに今日はここで泊まろうと伝えると、彼は手際よく野宿の準備を進めた。雪を掘って周りに堆く積んで風を凌ぐようにし、中央に焚火を据えた。

 私は彼が働いているのを見ているだけだ。野宿の経験は多いが、その心得などは皆無だった。この勇者の身体は何にもこだわる必要がないのだ。ただ聖剣を抱えて座っている。

 一通り終わったのかレフも焚火を挟んだ向かいに腰を下した。

 いつの間にか日は完全に暮れて、静かな夜が横たわっていた。冬の澄んだ空では星の瞬きが綺麗に見え、その中に爪の先のような三日月が寂しげに浮かんでいる。

 時折、薪が爆ぜる音が混じる。昨晩の吹雪は影もなく今日は風も穏やかで、本当に静かだった。

 揺らめく炎、橙色、ただ、熱く。

 赤くなった薪が燃えることに反抗するように明滅を繰り返す。いつかは燃えてしまうのに。いつかは燃えて、灰となり果てるのに。

 辿る末路は変わらないのに、それを先延ばしにすることに意味はあるのか。

 王の言葉を思い出す。

 遠くない未来、魔物に侵されて、苦しんで、傷ついて、そして人は死に絶える。それならば、私が聖剣を振るうことに意味はあるのか。贄となった人達の死に意味はあるのか。

 それでも私は人を殺して、魔物を殺し続けないといけないのか。そのために死力を尽くさないといけないのか。

 去来する疑問を押し殺す。

 ただ、人から願われている。その場を凌ぐことを望まれている。身を削って今日を何とかすることの繰り返しを。いつか擦り切れて無くなるまで、それをやり続けることを。


「勇者様」


 不意にレフが声を上げた。


「儀式を行いましょう」

「分かった」


 無表情のままそう言った彼に私は頷いてそう返す。

 もう一つの儀式ならそんな短所もないのだが、私はなるべくその儀式はしたくなかった。血を飲む方の儀式は血を飲んでから約二十四時間で相手を贄としておくことができない。だから昨晩に儀式はしなかった。

 レフは立ち上がって私の近くへ寄ると、胸元から小さなナイフを取り出して指先を切った。

 白い指から赤が滲み、張力でぷっくりと丸くなる。彼はそれを垂らすようにして、座る私の口元に近づけた。私はゆっくりと口を開く。唾液が糸となって、伸びて、そして切れる。僅かの震えもない彼の指先で作られる雫は、溢れる血で徐々に大きくなる。大きくなる重力にもたげたそれは、遂には落ちて、口の中へと入ってきた。私は背を伸ばして、彼の指の半ばまで口で覆う。噛まないように気を付けながら、口を閉じて、彼の指先の出来た傷を舌先でなぞる様に舐める。知り切っている血の味に、私は安堵した。少し舌で転がして、飲み込む。そして、背を反らして彼の指を引き抜いた。

 私がゆっくりと息を吐き出すと、レフは言った。


「これで終わりですか」

「これで終わり」

「神様と約束するのも案外、簡単なモノなんですね」


 そう言った彼の表情は変わらない。笑わない、怯えない。ただ冷え切った固い意志で死を求めているようだった。

 薪の燃える音だけが鼓膜に届く。

 頬を打つ焚火の熱が目の水分を奪って、乾く。

 瞬き。静寂。

 瞬き。静寂。


「貴方は何故、貴方は何故そこまで死にたいの?」


 私の口から言葉が突いて出た。

 言ってしまったな、と私は思った。知ってもどうしようもないのに。

 しかし、もう手遅れだった。聞いてしまった。

 彼のことに詳しくなれば、私が振るう聖剣に迷いが生まれることなど、分かっているのに。

 他人のことなど知りたくないのに。

 知りたくないのに、私は知りたいのだった。

 レフは空を見上げて、すっと息を吸い込む。


「ベルヌイ様にも言っていないですけど……、ああ、でも誰かには知っておいてもらいたいな。レフという情けない人間のことを。……僕は東の街、カルトルの生まれました」


 そう言って彼は滔々と語り始めた。

 彼の父は有名な殺人鬼で、母は無理矢理に犯されてレフを孕んだという。彼が物心付く前に父は処されたが、母はそんな父との子を愛する筈もない。手こそ上げなかったが、親としての愛情は、それこそ会話すらなかったという。殺人鬼の子として周囲の人たちからも忌み嫌われた。


「そして十一歳になった日、自棄になってカルトルを出たんです。当然一週間もしない内に、行き倒れましたけど」


 そう自嘲して、続けた。

 そんな彼を拾ったのがアウレルという名の狩人だった。アウレルは何も言わずにレフに食事を与え、助けた。レフはその時にアウレルに身の上を語ったらしいがただ一言「死ぬ前に飯の恩を返せ」と言って、狩りの手伝いをさせたという。

 それからというもの、季節になればアウレルと狩りの旅に出て、そしてサダリアに帰ってくることを繰り返したという。


「僕の父であり師でした。アウレルと日々を過ごしたお陰で、生きていていいのだと思えるようになりました」


 レフは地面へと視線を落とす。


「でも、僕は……。僕は街がワイバーンに襲われたあの日、瓦礫に挟まれて動けなくなったアウレルを見捨てて逃げました。なぜ自分が生きているのか、自分を認めていられるのか。そんなことを全て忘れて、無様に逃げたんです」


 火を見つめる彼の目に、輝きはない。


「結局、僕は殺人鬼の子で、僕も父と何も変わらなかったんです。だから僕は」


 薪が撥ねる。

 レフの顔を見れば、涙跡が一筋。

 言葉は皆まで言わずとも、分かった。


「結局、俺は何一つ守れない、ただの人殺しだったんだ」そう言った父の顔が浮かぶ。何も、言えなかった。

 父に対しても、レフに対しても。掛ける言葉が見つからなかった。


「そう……、なんだ」


 曖昧に返事をする。やはり聞かなければ良かったと思った。


「アウレルにせめてもの償いをして、そして……。勇者様、明日はどうか、よろしくお願いします」


 そう言ったレフに私は小さく頷く。

 やることは変わらないのだ。私は剣を振る。迷わない。ヒョードルの顔を思い返す。救うのだ。殺すのではない。私は救うのだ。

 ただ自分にそう言い聞かせて、空を見る。

 ああ、一体明るすぎる月光に飲まれて見えなくなった星は、幾つあるのだろう。そんな疑問が湧いて、そして燃え尽きた薪が灰となって風に攫われるよりも早くに消えていった。

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