灰色勇者物語

蟹家

聖剣の贄

 乱打される大鐘の音に、泣き声が混じった。

 そちらを見やれば、教会の冷たい石畳の上に怪我人たちと同じように並べられた赤ん坊が泣いている。どうやら母親はいないらしい。きっと死んだのだろう。そこに片脚の青年が杖を突きながら近付いた。


「よーしよし、大丈夫だぞー」


 不器用に抱え上げて、笑顔を浮かべた。汚れたその顔に、白い歯だけが浮いて見える。ひとしきりあやすと、しばらくして、赤子は泣き止んだ。そして、大鐘の音だけが残る。

 青年は赤ん坊を降ろすと、近付いてきて私の目の前に立つ。それから、微笑み言った。


「聖剣の贄と成れること、とても嬉しく思います」と。


 ゴブリン二百体弱とオーク五十体強の大群がこの街に攻めて来てからもう三日が経つと聞く。よくも今まで陥落しなかったものだと思った。西方最大の都市ネクスタ、と呼ばれるだけはある。そこらの街であれば、半日と持たなかっただろう。

 とはいえ、この街が壊滅するのも最早時間の問題だ。

 街の自慢で安寧を象徴している、堅く、厚く、高い市壁は崩れ落ち、勇猛果敢を音に聞く自警団五千人も残すところあと二百三十人と少しと言ったところ。それだけの犠牲を払っても、七十八体のゴブリンと三十九体のオーク、合計百十七の魔物がこの街を未だに闊歩している。魔物の硬い外皮には剣も槍も通じはしない。善戦したほうだ。

 残り僅か自警団は今、半数ほどに減った市民と共に街の中央にあるこの教会に立て篭っている。女子供さえも武器を持ち抗ってはいるが、あと数時間もしない内に全滅するだろう。

 だから彼は、聖剣の贄となった。この聖剣は鋼鉄の刃さえ通らない魔物の外皮を易々切り裂き、その生を奪う。代わりに一人の命を代価とする。そう神に約束されている。そして私は聖剣の担い手、勇者だ。

 彼は徐に右手の指先をナイフで切る。赤い血が、滲んで、溢れた。そしてその指を私の口元にまで伸ばす。微かに震えている。私は口を開け、その指先をゆっくりと含んだ。彼の指先の傷を確かめるようにして舐めると、鉄の味。私は彼の決意を受け止めるように血を飲み込む。彼が指を引き抜くと、唾液が少し糸を引いた。

 血を飲み込む。これが相手を聖剣の贄とするための儀式の一つだった。


「勇者様、ネクスタを……お願いします」


 彼は今、何を考えているのだろう。私が魔物を屠るために聖剣を一振りすれば、彼はその命を失う。何が彼をそう決意させたのだろう。何を決意しているのだろう。知りたくて、彼の瞳を覗き込む。

 映っているのは金髪の少女。幼い顔立ちに、放つ眼光の鈍さが歪。そして、それが私だった。

 きっと私に分かることではないのだろう。魔物と人間の命を等しく奪ってきている私には。だから、今日もまた上辺の言葉をなぞるだけ。


「はい。私に任せてください」

「……ありがとう」


 けれど、彼はそう言って笑った。

 青年の血を飲んだことによって、百十七人分の儀式が終わった。

 これから使う命を指折り数えて、涙を流せるほど初心ではもうない。けれど、彼らの死を以って魔物を殺すという決意を理解したつもりだ。

 私は教会の中央から伸びる、街で一番高い塔に梯子で登り、天辺に立つ。

 太陽が沈んで、闇が世界を支配している。晩夏の少し冷えた風が纏わりつく。黒いローブがたなびき、私の金髪が風に揺れた。

 夜空には厚い雲が走り、ただでさえ頼りない三日月の一部を隠している。

 視線を眼下にやると、象牙色の石で出来た美しい街並みのネクスタは、最早そこには無かった。至る所から炎立ち、魔物の吼え声ばかりが響いている。

 生存者たちと合流するために街中を走り抜けた時も凄惨だと感じたが、全体を俯瞰すると被害がありありと分かった。

 ネクスタは、もうダメかもしれない。

 けれど、例えそうであろうと、百十七人の決意を受け取った私が、魔物を屠らなくてはならないことに変わりはなかった。

 お腹に溜まった空気をすべて搾り出すように、ゆっくりと息を吐く。

 右手で背負った聖剣の柄を握り、左手で鞘を掴んで、そして引き抜く。鞘を投げ捨て、両手で握り込む。

 外形はどこにでもある長剣だ。長さは私の背丈ほど。

 ただ、他のどれとも異なる点が一つ。柄尻から切先まで光を吸い込むような漆黒。夜に溶け込むその色は、禍々しいようで、神々しい。

 さあ、始めよう。命を以って命を消し去る、虐殺を。

 私は絶望の空気を吸い込んで、そして、倒れこむようにして塔から飛び降りた。

 重力に捕らわれた私は、速度を増しながら落下する。風を切る甲高い音。遠くで魔物が吼える。

 その時、教会の屋上に目前に迫った。私は右足でそれを蹴りつけ、真横に飛ぶ。

 追い縋る瓦の破砕音を背に、聖剣を薙いだ。そして、民家の屋上に着地。後ろでゴブリンの、老婆にも似たその首が宙を舞う。一。

 一回転しながら街路に下りると、女性の屍体に腰を振るオークを袈裟切りにした。寸胴な巨体が倒れる音が、低く響く。二。

 視線を右から左にやる。私に気付いた魔物たちがその独特な赤い瞳をこちらに向けている。その数六、七十。腰を低くし、顔の横に剣を構える。一体を剣先で指し、そして私は疾駆した。

 剣を振る。血が跳ねる。剣を振る。醜い断末魔が轟く。剣を振る。そして、骸へと変わる。

 振り下ろされる棍棒。身を捩って躱す。聖剣をオークの右目へと突き刺し、その奥にある脳を破壊する。四十八。引き抜き、上空から襲いかかるゴブリンの首を落とす。四十九。

 聖剣についた魔物の血を一振りして払い、顔に掛かったそれもローブで拭う。

 気色の悪い空気を肺へと取り込むと、赤いモノが眼前へと降ってきた。ぴしゃりと跳ねて、私の顔に。婦人の死体。顔がまた赤く汚れた私を見て、ケタケタと笑うゴブリン二匹が民家の屋上。ただ、不快だった。

 私はすっと目を細める。跳んで壁を蹴り奴らの正面に着く。一薙で二つから四つの肉塊へと変える。五十、五十一・・・・・・。

 葬った命を、使った命を、指折り数えながら、私は剣を振る。一体の討ち洩らしも無いように、一人の決意も無駄にしないように。

 誰の命よりも重いこの世界を守るために。

 百十六。

 無数の人と魔物の屍骸が折り重なる街の広場で、私は百十七体目を見付ける。

 そのオークは乳飲み子の死肉を漁っていた。私に気付いたそいつは食っていた物を適当に投げ捨て、咀嚼しながら私に近づいてきた。その歪んだ口から、唾液が垂れる。

 一歩で距離を詰めて聖剣を振り上げ、そして、ただ一刀。

 百十七。

 オークの中心に赤い線が入り、右と左に分かれて、倒れる。二つに分かれたそれの間から光が差し込み、眩しくて、私は目を背けた。

 何かと思い、私は光源の方向をゆっくりと見やる。朝日が、瓦礫の地平線の向こうから顔を出している。

 夜が明けたんだ。

 誰のとも知らない血溜まりの中でそう思った。


 私は教会の正門前にまで戻った。魔物の侵入を防ぐための重い鉄扉が堅く閉まっている。私は聖剣を地面に突き立て、朝日で少し温まった空気を肺に取り込む。


「勇者、アルマ。ただ今戻りました」


 静寂。

 それから、大きな軋み音を立てながらゆっくりと開き始めた。鉄扉が開いていくと、徐々に向こう側の様子が明らかになっていく。

 大勢の人がこちらを見ていた。呆然とした様子でただ私を。

 数瞬後、群集の口角が僅かに上った。目を細めて、落ちていた肩が上がる。

 そして、それは笑顔となる。

 皆の肺から漏れ出た空気が、喉を震わせ、そして歓声となった。

 それはまるで歌のように高らかに、青くなった空に響く。

 童子が走って近付いてくると、私の脚に抱き着いた。


「勇者様、ありがとう」


 顔を上げ、満面の笑みを私に向ける。

 背中に衝撃が走り私は少し体勢を崩す。何事かと振り返れば、厳しい中年男性がその大きな手で私を叩いていた。


「勇者様のおかげだ。本当に感謝するよ」


 彼は口角をこれでもかと言わんばかりに上げ、白い歯を見せ付けるように笑っている。

 老若男女が私を取り囲み、笑い合っている。息をして、心臓が動き、自らがここに在るという奇跡を実感し、喜んでいる。


「ありがとう、勇者様」


 歓喜の歌と、笑い声と、その言葉だけが街に鳴り渡る。

 誰かが私の体を軽々と持ち上げ、そして宙へと放る。落ちそうになるとまた多くの人が空へと押しやる。

 その胴上げは回を重ねる毎に高さを増し、太陽まで届きそうなほどだった。

 そして、落下してゆく最中、私の目の端にそれは映った。

 ――忘れたわけじゃないのです。

 ――――けれど今は、救えた命に喜びたいのです。

 百十七の十字架たちよ。


〈聖剣の贄、完〉

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