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 バスがゆるゆる速度を落とし、猫の額ほどしかない駅前のロータリーに入ると、乗客は僕だけなのにご丁寧にアナウンスが流れた。


 終点の加美木町駅前にようやく辿り着き、僕は閉まる直前のドアの前で運転手さんに軽く会釈した。大きく体を伸ばすと、ずしりと重い鞄を担ぎ直して視線を百八十度回転させた。

 湿気を含んだ生暖かい空気で既に額に汗が滲む。

 見覚えのある風景。嗅いだことのある懐かしい匂い。

 駅の裏に鬱蒼と立ち並ぶ雑木林に、まるで巨大な生き物みたいに聳える山々。ちりちりという虫の声。東京じゃなかなか拝めない空にちらつく無数の星々。


 木造の駅舎は随分と年季が入ったように見え、昔は毎日のように見ていた自動改札機のない改札口が、都会に馴染み過ぎた僕の目にやけに珍しく映る。


 続いてがらんとした駅前。シャッターの閉まった弁当屋、明かりが漏れた交番、あんまりメジャーじゃないコンビニエンスストアが一軒。

 この時間帯なら昔はもう少し人がいた気がしたけど、最近はこんなもんなのか。


 あ、向かいの団子屋潰れてる。道路を挟んだ向こうにドラッグストア、間隔あけてガソリンスタンド、看板ぼろぼろの文房具店は、かろうじて息をしている感じかな。


 昔より廃れた感じがするのはきっと気のせいじゃない。まあ、仕方ないことだろうな、この町はいい意味でも悪い意味でもなにもないのだから。


 なにはともあれ帰ってきたのだ。少しの間、この田舎町の空気に浸ることにしよう。


 僕はハガキの隅の小さな地図を頼りに、商店街の飲み屋を目指した。


「――アズマッ!」


 怒鳴り声に似た叫びが後ろから上がったのはその直後。


 石でもぶつけられたように僕は立ち止まり、サッと振り返る。

 コンビニエンスストアの眩い光を背に、一人の厳ついタンクトップ、ワックスで逆立てまくりの金髪男が、つかつかこちらに向かってくる。


 両耳にじゃらじゃら揺れたピアス、腰パンに簡素な皮サンダル。タバコの臭い。絵に描いたようなヤンキーのあんちゃん。

 う、え。なんだ、なんなんだあいつ。なんでこっちにくるんだ。


「アズマ! おいお前、アズマだなッ⁉︎」


 そいつは僕の前まで来ると、荒々しく繰り返す。いや、はい、そうですが。僕だっていきなりなんの前触れもなく怒鳴られたり迫られたりするのは怖い。


 背中を丸め後ずさる猫みたいに体を縮こめ彼から少し距離を取るも、その長身の金髪あんちゃんはせっかく僕が広げた距離を大股で詰めて睨みつける。


 不機嫌そうな表情でこちらを見下ろす彼に、僕は一体なにをしてしまったんだろうか。


「おい、なあ、お前アズマ? アズマだよな? なに、俺んことわかんないの?」


 と、自分の顔を指差す彼。僕は正直に頷く。故郷にこんな悪そうな知り合いはいなかったから。


 すると彼は大きく口を開け、もう一度見ろとばかりに僕に鼻先を近づけてきた。


「俺だよ俺、俺、俺! わかんだろ!」


 俺俺詐欺ですか。こわいなあ。


「違うわ馬鹿! 俺だよ、ガッツってお前呼んでただろ!」


 え――、あ。思わず人差し指が彼を指す。


「ひでーよお前。七時には着くって言ってたのに、もう八時半だぜ。しかも連絡しても繋がらねえし。すっぽかしたのかと思ったじゃねーか!」


 なるほどなるほど。僕は今全てを理解した。そうだ、そうだった。


 目の前にいる彼、僕より頭二個分背の高い金髪の筋肉男、こいつこそが僕を都内から遠く離れた地で開催される同窓会に強引に誘ってくれた張本人。


 加美木町中学校、元野球部兼、映画部評価担当──ガッツこと、西川 勝人その人である。


 そんな彼がこの時間に駅前にいるのも、不機嫌そうなのも僕が全ての原因なのだ。


行くと承諾をした僕と久々にコンタクトを取った彼は、遠路はるばる加美木の地にやって来る僕を気遣って駅に迎えに来てくれることになっていた。


 それが、僕がバスを一本逃した所為で待ち合わせに遅れ、加えてバッテリーを切らしていた所為で連絡もつけられず、長旅で暇を潰すことに必死すぎて彼が数日前に駅で待っていてくれると言ったことまですっかり忘れてしまっていた。そりゃ怒るのも無理はない。ごめん、僕が悪かった。


「まーいいよ。どーせいつもみたいにぼーっとしてたんだろ? お前、ほんっとそのまんま成長した感じだなァ! 相変わらずモノトーンな奴、ま、わかりやすくてよかったけどよ」


 黒いボタン付きシャツに黒のインナー、これまた黒のパンツに黒のハイカットスニーカーという、僕の黒尽くめファッションを笑い、ガッツは五年前と変わらぬノリで僕の肩をパンと叩いた。

 あの丸坊主野球少年の豹変っぷりに一瞬ひやっとしたが、それはいらぬ心配だった。見た目は変わっても彼はあの頃のままみたいだ。それに少し安堵する。


「どうだよ久々の加美木は」


 うん、まあ。色々思うことはあるけど。それより君の変化の方に驚いたと答える。


「そりゃまー、ちっとはしゃぎすぎちまってる感あるけどよ、若いからいいんだよ。お前は元気か?」


 聞かれて頷く。


「そうか、そりゃ良かった。まあ……俺もそこそこだよ。今日は百合子も来てるからな、話していけよ。暫くは俺んとこ泊まるんだろ?」


 ああ、厄介になる。


「にしてもなんだよ、お前のその荷物、これからキャンプにでも行くつもりか?」


 まあ、暇つぶしの道具がいっぱい入っているからね。と僕は笑われた鞄を背負い直し肩を竦める。


「まーなんでもいいや。言っとくけど俺んちは狭いから、あんま文句言うなよ」


 それより、部屋が汚いか心配だと言ったら、軽く頭を叩かれた。


 ◆◆◆


 ガッツが乗ってきた大型二輪の後部座席に乗せてもらい、僕らは加美木商店街に並ぶ一番大きな(それでも都内に比べると随分小さい)居酒屋に到着した。


 会場らしく、本日貸切の張り紙のついた扉を開けた先には十数名の男女が既にお座敷でどんちゃん騒ぎを起こしていた。


 会社帰りで立ち寄ったのかスーツを着崩し頭にネクタイを巻いてビールジョッキを呷っていたり。天井すら突き抜けそうな奇声をあげていたり。だこのような顔で手を叩いて大笑いしたり。甘い声を出して男にひっついていたり。気持ち悪そうにテーブルに突っ伏していたり。まあ兎に角、どこにでもあるような、盛り上がった飲み会の風景だよねこれ。


 成人になったばかりで、堂々と酒が飲めるようになればこうやってはしゃぎたくなるものなのだろうか。

 普段大学のサークルの飲みでもウーロン茶しか飲まない僕にその気持ちはわからない。

 久々のクラスメイトたちに圧倒され、棒立ちになる僕にガッツはお前大丈夫か? と声をかけ、いまだ入口の前の僕らに気がつかないみんなに大きな声で呼び掛けた。


「おいみんな! 新入り来たぞ! 東だ! 歓迎してやってくれよ!」


 ガッツの声に全員がこちらに顔を向けて注目する。


 瞬間、祭りの雰囲気はなりを潜め、恐ろしいまでの沈黙が生まれた。


 扉を閉めて小さく挨拶する僕に。みんなは目を細めて僕の全体を見つめる。


「東じゃん――」

「おお……東じゃん!」

「ほんとだ! ひさしぶりだなぁ!」

「久しぶり! 東君!」


 一人が言って。面白いくらいに次々と似たような言葉を並べる元クラスメイトたち。


「久しぶり! 元気だった!」

「随分時間かかったね、結構遠かったの?」

「早くすわんなよー! こっち空いてるよ!」


 なんて手招きされて、僕らの席を作る誰が誰だかわからない髪色の明るい女の子たち。

 さて、この中にどれくらい僕を僕だと認識している奴がいるんだろう。


 ちなみに僕はというと、悲しいことにゼロだ。ガッツを除いて誰一人、顔を見て名前が思い出せない。


 この状況。やはり予想通りだった。もとよりクラスの真ん中ではなく、常に端っこが定位置だったのだからしょうがない。


 それなのに、覚えていようが いまいが高いテンションで迎えようとしてくれるみんなの寛容さには感服する。


 それに比べ僕はとんでもない奴だ。殆ど記憶もなく、変わらぬローテンションでどんちゃん騒ぎに割り込もうというのだから。


 我ながら失礼極まりない奴だと思ったが。空気は乱さないように努めるつもりだ。


 席の隅っこで真顔でウーロン茶を飲み始終無言ではいない。


 此処からは終了まで適当に話に合わせて首を振っていればいい。自ら注目を浴びようなどという無理はせず、それなりに無難な人を装う、出過ぎず引っ込み過ぎずの絶妙なラインを保つ。

 それが、「東 ヒビキ」が一番得意な演技だ。


「東君ひっさしぶりぃ、元気だった? ね、全然会わなかったよねぇ、今大学生? どこの?」

「一人暮らし?」

「なんのサークルに入ってるの?」

「東くん、枝豆あるよ、食べなよ」

「なんかすっごい中学の時も落ち着いてたけどさ、変わってないよねえ」

「おい東! お前さあ彼女出来た?」

「ほんと変わってないよなあ。お前酒飲める? なんか頼むぞ、あ、腹減ってる? なんか食えよ」

「今東京って大変だよなあ、あの連続殺人とかさあニュースで色々やってんじゃん、お前気をつけろよ」


 今は東京の大学だよ。

 うん、一人暮らし。

 サークルはお笑い研究部、誘われてなりゆきでね。

 ありがとう、いただきます。

 そうかなあ。僕は普通だと思ってたけど。

 彼女は今はいないかな。

 ごめんお酒飲めなくて、ウーロン茶貰っていい?

 そこ心配だよ、事件起きたのちょっと家から近しさ……。あっちに帰るまでに捕まってくれればいいなって思うよ。

 

 なんて、しばらく椀子そばみたいな質問攻めに対応すると、数人の派手な容姿の男女は気が済んだのか僕への関心を薄れさせ、またどんちゃん騒ぎの続きをするべくお座敷の中心でふざけ出した。


「……久しぶり……東君」


 注目から解放され、ウーロン茶をジョッキで飲んで一息付くと。少し離れたところから小さく呼び掛けられた。


 殆どが反対側のテーブルに移動して中心で悪ふざけをする中で、食い荒らされ、空のコップが敷き詰められたテーブルにぽつんと残っていた彼女は、真夏だというのにラベンダー色のカーディガンを羽織って、スキニーパンツに薄手のブラウス、茶色いショートボブ、控えめの化粧。

 ――誰だ。


 顔に出さないようにそう思っていたら。彼女は少し困ったように笑った。


「はは、やっぱり、わかんないか」


 でもその笑みに少しばかり見覚えがある、誰かと顔が重なる。


「──百合子、お前食ってるか」


 答えが出そうなところで先に言ってしまったガッツ。


「うん、食べてるよ」

「あほ、嘘つくな、割り箸すら割ってないだろ。食えよな、割り勘だから損するぞ」


 こくんと頷いて、彼女は静かに手つかずの割り箸を割って揚げ物が盛られていたであろう大皿の、敷かれたサラダ菜を草食動物みたいにしょりしょり食べ出した。


「お前なあ」

「いいでしょ……あたしこれが好きなのよ」


 呆れるガッツに、百合子は澄まし顔でそれを口にしまい、箸を置いた。


 面影がないわけでは無いが、僕の記憶に残っている右京 百合子と今の彼女はだいぶ違いすぎていた。


 彼女は中学時代、眼鏡にセミロングの黒髪、映画部の部長として部を引っ張り、クラスでも委員長的存在だった、活発で、勝気で、やかましく、その性格でガッツと数え切れない衝突を繰り返していたのに。


 今じゃすっかり物静か、という言葉が合う女性になってしまっている。眼鏡は外し、髪も切り。口調も柔らかく、だいぶ雰囲気が変わった。


 ガッツとの穏やかなやり取りは見ていて全くはらはらしない。


 どうやら中学卒業後、この近辺の高校にガッツと百合子は進学し、今の大学も二人とも同じ場所の同じ学科を受けているそうだ。


 え、なにそれ、付き合ってるの? と問いただしてみたが、そうではないらしい。残念だ。


「ガッツ、変わったでしょ? びっくりしなかった」


 うん、でも中身は全然。百合子も少し変わったよね。そう返せば彼女の表情に影が差した。


「え……あ。そう、かな」


 その様子を見てガッツが彼女の隣に座り背を叩く。


「んな言うほど変わってねえだろ、お前」


 ガッツが僕をちろりと見る。

 いや、うん、やっぱり変わってない気がする。すぐさま僕も言葉を付け足した。


「ね、元気だった? 東君」


 うん、元気だよ。百合子は? と、言葉を緩く投げ返す僕。


「うんあたしも、元気」


 にっこり笑う彼女。それでも見ていてどこか落ち着かない様子である。


「凛(垂瓦の下の名前)とは会ってるよ。ていうか、今ルームシェアしてる、……きれいな部屋で、凛ね料理作るの上手なの。すっごいの、はは。東君だったら遊びに来てもいいかな、しばらくいるんでしょ? おいでよ今度さ」

「なんでぇ百合子、お前俺はあげてくれないクセに」

「東君はいいんですう。下心とかなさそうだし」

「はあ? なんだよそれ! 俺だって付き合い長いし、今更お前なんかにそういう感情持たないっつの!」

「あたしじゃなくて凛によ、それにあの子、最近彼氏出来たから、家に変な男出入りしてたら怒られちゃうでしょ?」

「東はいいのかよ」

「東君はなんか、中性的って感じ? 危なそうじゃないし」

「よくわかんねぇな」


 二人の会話からして、いつもこんなふうなのだろう。


 僕は中学卒業後、この町を出てしまったから二人がどんな時間を過ごしていたかは知らないが、一緒にいることでそれなりにお互いを支え合っているようで、良かったと思う。


 特に、彼女の場合は特別だろうし。

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