言霊大戦

@prisoner

第1話



 自分の名前を書くときにはいつも緊張する。だが、その時は特に緊張していた。

「滝村和彦」

 特にどうということのない名前だ。平凡すぎもしないし、珍しくもない。一クラスに一人はいそうな名前と、知り合いにはいそうな苗字の組み合わせ。

若くても年取っていてもおかしくない。かといって性別がわからないとまではいかない。

 和彦は高校一年、入学したてだった。どこに行っても自己紹介をしなくてはいけない時期と立場だ。

 同じ中学から進学した生徒は一人もいない。だからなおさら不安で、名乗るたびに緊張した。名乗るたびにお返しにさまざまな名前が押し寄せて、頭の中を駆け巡ってなおさら混乱と緊張に拍車をかけた。

 若村千晶の名前を新入生名簿に見つけた時は、もしやと思った。見覚えのある名前。

 和彦が小学三年で転校するまで、よく一緒に遊んでいた女の子の名前。和彦は保険会社に勤める父についてあちこち転々として、また父が生まれたこの地に戻ってきたのだったが、あの子がずっと地元で中学、高校と進学したのだったら、また同じ高校に居合わせてもおかしくない。

 そう想像すると、ちょっとどきどきした。いったい、どんな顔だったのか、どんな遊びをしていたのか思い出そうとしたが、もやがかかったように曖昧にしか思い出せない。

 名簿をまた見てみると、若村千晶は違うクラスであることがわかった。そうわかっているのに、和彦は教室内を見渡して、もちろんそれらしい子は見当たらないが、かわいい子は何人かひとりでに目に入った。

 和彦は席を立ち、千晶がいる隣の二組に向かった。

 廊下の窓から、緑に覆われた山々が迫っているのが見えた。屋上に上れば、まだ雪をかぶった高い山が見えるだろう。

 二組の教室はすぐ通り過ぎてしまい、開いたままになっている扉かに中のようすをうかがう間もなかった。窓はすりガラスで中は見えない。

 和彦は忘れ物を思い出したようなふりをしてすぐ引き返そうとしたが、それもおかしく思えたのでそのままどんどん歩いていく。たしか校舎は口の字型をしていてぐるっとまわれば元に戻るはずだ。

 四回角を曲がって廊下を歩いて行ったが、そのたびにあまり変わりばえのしない眺めが広がった。教室の反対側は窓になっていて、その外の眺めだけが違っていた。しかしそれも遠くにまだ雪をかぶった山脈が見えるか見えないかといった違いにすぎなかった。

 ぐるりと回ってまた自分の教室に戻り、それを通り過ぎて隣の教室にさしかかったが、今度は扉も閉まっていた。

 チャイムが鳴ったので彼は一組に戻った。


 それから初めての授業、初めての昼休み、初めての体育と初めてずくしに追い立てられて、幼ななじみかどうかも曖昧な相手のことは忘れてしまった。

 放課後、課外活動をどこにするか、和彦はさまざまなクラブの勧誘のブースが並んでいる間をひやかしてまわった。

中学の時は一応野球部だったが、高校でまた球拾いをやるつもりはなかった。他の運動部に入るつもりもない。自分にスポーツの才能がないのはやってみてわかっていた。

 あちらでもこちらでも呼び込みの声がかかってくる。まともに全部聞いていたらきりがない。

 まず運動系を外してみると、やってみてもよさそうに思える部活がぐっと絞られてきた。

演劇部? こっ恥ずかしい。化学部? 危ない感じ。ロボット部? そんなに器用じゃない。 IT? できる奴とできない奴との差がすごい。自分ができる方ではないのは知っている。

 逆をいって伝統的な部はどうだろう。囲碁部? 頭を使わないといけない。将棋部? 年寄りくさいな。茶道? 足がしびれる。書道? なんであんなにわからない字を書くのか。

「字がきれいになりたいと思いませんか」

 いきなり女子が話しかけてきた。

 中学を卒業するちょっと前に話してから女子としばらく話していなかった和彦はどぎまぎしてしまい、思わず、

「は、はい」

 と言ってしまった。

 するとその顔も体もまるまるとした女子はずいと迫って、

「そうですよね。いくらワープロ時代だからって字がきれいにこしたことはありません」

 立て板に水といった調子で話しだした。

「毛筆でも、ペン習字でも、鉛筆でも、古典でも、現代詩でも、みんなやってます。アルファベットだって書いているんですよ。ほら」

 示した方を見ると、なるほどアルファベットとカタカナと漢字ひらがな混じりで同じ意味の三つの文を並べていた。

「BOYS BE AMBICIOUS」

「ボオイズ ビイ アンビシャス」

「少年たちよ 大志を抱け」

 それがそれほど書道で珍しい趣向なのか、書の出来そのものがどの程度のものなのか、よくわからないまま、和彦はせいぜいもっともらしい顔でその作品の前でしばらく立って見上げていた。

 墨の香りがあたりにたちこめていた。

「他にもありますから、見て行ってください」

 と、女子は大きな体で立ちふさがるようにしてさらに見るよう促した。やむなく和彦は展示に沿って歩を進めた。

 なるほど、半紙に書かれた書がいくつも張り出されている。さすがに小学生の時の教室で張り出されていたお習字とはレベルが違うのはすぐわかった。

 女子が訊いてきた。

「どうですか」

「んー」

 なんと答えたものか考えた末、

「みんなうまいですね」

 お世辞まじりのつもりが、

「毎日稽古してますから」

 当然のように答えてきた。

 どうも言葉づかいは一応丁寧なのだが、体格同様どうも押しつけがまく暑苦しい。

「申し遅れました、私、書道部二年の丸山雅子です」

 と、ぬっと太い腕を突きだしてきた。

 一瞬なんのつもりだろうと思ったら、どうも握手を求めているらしい。仕方なく軽く握り返そうとしたら、太い指に手のひらが包み込まれてしまった。

「丸山さん、どなた」

 もう一人の女子が言葉をかけてきた。こちらはまたガリガリのやせっぽちでノッポだ。

 丸山と名乗った女はまた訊いてきた。

「失礼ですが、お名前は」

「一年二組の滝村和彦です」

「新入生ですね」

 やせっぽちが近づいてきた。

「私はやはり二年の細井和歌子です、よろしく」

 丸山と並ぶと、凸凹コンビを絵に描いたようになった。

 両方とも名は体を表わすとはこのことだ。

「うちは男子が少ないから、歓迎されますよ」

「そうですか?」

「狙いどころだと思います」

 どこまで本気なのかわからない調子で細井が言った。 

「この中でどれがいいと思います? 難しく考えず、直観で」

 丸山に訊かれて、和彦は困ってしまった。しばらく唸ったあと、

「これ、ですかね」

 適当にいくらか上手いと思えた作品を指した。

「ほう」

 丸山と細井のふたりがほぼ同時に嘆声を放った。

「わかっていらっしゃる」

「何がですか」

 和彦が訊き返した。

「うちの部長の作品だから」

「へえ」

 かなりあてずっぽうに言ったのが当たったらしい。

 というか、それほど大勢部員がいるようでもないから、当たったって不思議はないのだ。

 和彦はまたふと視線を感じ、そちらを見ると、また別の女子がいた。

「あ、紹介します。部長の荒川奈緒です」

 厚手のメガネをかけ、髪を簡単に後ろでまとめたいかにも文化系女子といった感じだった。

「部長なんてものじゃありませんよ」

 近づいてきて、また手を差し伸べたので、今度は手に墨がついているのに気づくくらい落ち着いて握り返した。

 こうやって握手するというのは、やはり勧誘の手なのだろうか、と和彦は思った。意識しすぎなのかもしれないが、そうそう初対面の人間と握手するものでもない。

 しかし、そう思いながらスキンシップそのものに悪い気はしなかった。

「書に興味はあります?」

「うーん」

 また和彦は唸ってしまった。

 わらわらと寄ってこられたので少しあわてたのだが、気が付くとずいぶん部の人数が少ない。あまり少ないと部ではなく同好会扱いになるとかいった事情があるのかもしれない。

 いずれにせよ、自分みたいにおよそ書とは縁もゆかりもなさそうな男がこんなに熱心に勧誘されるとは思わなかった。

 内心かなり浮き足立ってどう断ろうか、と半ば言い訳を頭の中でひねくっている。

 ふっと墨の香りにまた別の甘い香りが混ざっているのに気付いた。どこかで嗅いだような、記憶を呼び覚ますような思わせよような香りだった。周囲の女子たちの生々しい匂いではない。

 取り囲んだ女子たちがしきりと何か言っているが、和彦の耳には入ってこなかった。

 また懐かしい匂いがした。かすかに風が動き、半紙が壁からわずかに浮く。

 いつのまにか彼女が立っていた。黒い髪をなびかせ、やはり黒い瞳を伏せて、墨痕が渦巻くようにしてある鮮やかな白い紙の前に、ほとんど重さを感じさせない調子でふわりと浮くように立っていた。

 彼女が誰を見るでもなく目を上げた。和彦はその時、彼女の名前を忘れていた。ふと千晶が首を傾げ軽く回したので、たまたまのように和彦と視線が合った、いやわずかに交わった時、名前が浮かび上がった。

「やあ」

 思わず手を上げて千晶に挨拶した。

「あれ」

 彼女が不思議そうな顔をして、和彦の方を今度ははっきり見返した。

「久しぶり」

 千晶が返した。

「ああ、久しぶり」

 そのやりとりを聞くや、丸山と細野がわっと騒ぎだした。

「何、知り合いなんですか?」

「いつから?」

 和彦は呑まれたように黙ってしまうと、荒川が割って入った。

「静かに。失礼でしょう」

 二人の二年生はぴたっと静まった。

「えーと」

 荒川がちょっと混乱したようだったが、話を整理にかかった。

「こちらは」

 と、千晶を示して、

「若村千晶さん。新入生で、新入部員。ついさっき入部を決めてくれたところ」

「どっちかというと、部長に迫られて入部させられたって感じでしたけど」

 細野が茶々を入れた。

 荒川は取り合わず、

「すごく筋がいいから、ぜひにと口説き落としたのよ」

「筋がいい?」

 へえ、と和彦は思った。昔の千晶は男の子とも平気でつかみあいの喧嘩をしたりして、とてもおしとやかに習字などするように思えなかったものだ。

「お習字のですか」

 ちょっときっとなって、荒川が答えた。

「書道といってもらいたいですね。小学校ではないのだから」

「すみません」

 口先であやまりながら、和彦は改めて千晶を見た。

 千晶はまたすぐ視線を和彦から外して、泳がせ始めた。これも昔の千晶とは違う。とっつきにくくなったが、その分

「何見とれてるのよ」

 今度は丸山が茶々を入れた。

(オヤジか、おまえは)

 女子がわざとか無意識にか、しばしばオヤジくさい言動をするのは知っているが、ちょっとこの時はむっとした。

 と、同時にわざわざ興味も感心もない書道部の前でなんでうろうろしていなくてはいけないのだ、と今さらのように思えた。

 荒川が重ねた。

「どうです、彼女と一緒に修行するというのは」

 どう断りの言葉を切り出すかに和彦が頭が切り替えたとき、

「やってみない?」

 突然、千晶が言い出した。ずいぶん自然な調子だった。

 本気だろうか、と思わず見返してしまったが、千晶は自然に目を合わせてきた。

「そうねえ…」

 もったいをつけるように言ったが、すでに和彦の気持ちはぐらっと大きく揺らいでいた。

 畳掛けるように口々に先輩たちが言い立ててきた。

「手紙とかもワープロじゃなくて、きれいな字で書いたら気持ちが通じるようになりますよ」

「古めかしいけれど、手書きのラブレターなんて渡したら、おっと思われること間違いなし」

「いずれはビジネスレターなんかでも、さらさらっと名前だけでもきれいな字を書いていたら、印象が全然変わります」

「それ以前に、履歴書の字がしっかりしていたら好感度アップするし」

 何の話をしているのだ、と和彦は思った。もう少し高尚な話はしないのか。

「静かにしなさい」

 ぴたりとわあわあいっていた騒ぎが、その突然の一言でぴたりと収まった。

 和彦は千晶が発言したのかと一瞬思ったが、すぐいつのまにか現れ千晶のそばに立っている女教師のものだとわかった。

 ぴしっとしたスーツに身を包み、髪をひっつめにし、縁なしメガネをかけて、というなんだかアニメのお約束化した女教師みたいな恰好だった。

 しかし、メガネの奥の目の光はかなり強く、和彦はややたじろいだ。

「あ、顧問の舟木先生です」

 荒川がややあわてて紹介した。

「舟木です。よろしく」

 握手の手は差し出さなかったが、やはり有無を言わさない調子だった。

「だけど、ぼくはまるっきりの素人ですよ」

 やっと言い訳が出た。

「誰でも初めは素人ですよ」

 また退屈な押し問答が始まるのか、と思いながら千晶を見ていると、千晶はこちらのやりとりには関心など払わず、自分で筆をとって硯の中の中の墨に浸し、さらさらと何か書いて、

「これでよろしいでしょうか」

 と、舟木に見せた。

 何の気なしにその「若村千晶」という文字を見て、和彦はちょっと息を呑んだ。ただの入部願いの署名なのだが、文字そのものが何か異様な気のようなものを発している。自分のそれこそ気のせいか、と思ったが、明らかに舟木がそれを見た時びくっと肉体的な反応を見せたのがわかった。先輩部員たちも、さっき舟木に叱責されたのとはまた違う、押し黙るような沈黙に陥っていた。

 何だろう、これは。ただ上手いというのではない、いつのまににこんな字を書けるようになっていたのか。小さいときの千晶からは考えられないような成長を見せている。

そう感じるより早く、和彦は思わず口に出していた。

「ぼくも入部します」

 そう言ってから、千晶とは握手していないことに気がついた。







 

 


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