[4] 放棄

 いまや戦況はドイツ軍に対して、東部戦線全域で攻勢から退却戦へと転じることを要求していた。レニングラード一帯の北部戦域でも、11月の攻勢で生じたティフヴィン突出部に対するソ連軍の反攻が、12月に入ってさらに激しさを増した。北方軍集団はティフヴィンの放棄と西への撤退を視野に入れなくてはならない情勢に追い込まれていた。

 12月1日、北方軍集団司令官レープ元帥は第16軍司令官ブッシュ上級大将に対して次のような命令を下した。

「貴軍の北翼であるティフヴィン突出部は可能な限り保持すべきだが、兵力や補給物資の不足によりそれが不可能となった場合に備えて、突出部を放棄する準備にも着手せよ」

 12月3日、レープは陸軍総司令部に対し、ティフヴィン突出部を放棄すべき時期に来ていることを警告した。しかし、陸軍総司令部からは何の反応も返ってこなかった。

 ソ連軍は突出部の先端に位置するティフヴィンを北西、北東、南東の三方向から挟撃しており、この小さな街を護る第39装甲軍団の人的損害は増加の一途を辿っていた。さらにこの一帯の気温は同月6日に摂氏マイナス35度を記録し、冬季用装備を持たない北方軍集団の将兵たちは絶望的な状況下で防戦を続けていた。

 12月7日、第4軍(メレツコフ上級大将)はティフヴィンの外縁に到達した。レープはただちに陸軍総司令部に連絡して、ティフヴィンの放棄と第39装甲軍団のヴォルホフ河への退却を許可してくれるよう、繰り返し要請した。これに対し、陸軍参謀総長ハルダー上級大将は同日の深夜、次のような返電をレープに送った。

「総統は、当初の計画(ティフヴィンの保持と同地からの北への進撃)を完遂することを望んでおられる。よって、ティフヴィンの放棄と退却は許可できない」

 12月8日、レープはヒトラーに対して次のように直訴した。

「第39装甲軍団は2倍の敵と戦っており、このまま退却を許可しなければ間違いなく全滅します」

 ここに至ってヒトラーはようやくティフヴィンの放棄を許可したが、第39装甲軍団をヴォルホフ河まで一気に退却させるというレープの提案には難色を示し、ヴォルホフ河の東に広がる凍結した湿地帯で新たな防御陣地を形成するよう命じた。この命令により、第39装甲軍団はちょうど1か月前に占領したティフヴィンを放棄して、酷寒の吹雪のなか南西への長い退却を開始した。

 12月9日、モスクワではスターリンが第4軍司令官メレツコフ上級大将と参謀長ステリマフ少将らをクレムリンに呼び出し、ティフヴィン方面での今後の作戦計画について協議を行った。協議の結果、ヴォルホフ河方面での作戦を担当する「ヴォルホフ正面軍」が12月17日付けで創設された。第4軍・第52軍に加えて、戦略予備から第2打撃軍(ソコロフ中将)と第59軍(ガラーニン少将)が配属されることになり、ヴォルホフ正面軍司令官にはメレツコフが昇進した。

「最高司令部」は同日、メレツコフに対して次のような命令を伝えた。

「ヴォルホフ河西岸の敵防衛線に攻撃を仕掛け、戦線を突破した日に北西へと進撃してレニングラード正面軍と連携し、同市を包囲している敵軍を撃滅せよ」

 12月16日、戦局悪化の報告を受けたヒトラーは、退却中の第39装甲軍団をヴォルホフ河の西岸に収容することを許可した。第12装甲師団と第18自動車化歩兵師団は同月22日前後にヴォルホフ河に到達したが、退却作戦中の消耗により稼動戦車台数がそれぞれ約30両にまで落ち込んでいた。

 ヴォルホフ正面軍は12月30日までに、ヴォルホフ河より東方に置かれた北方軍集団の拠点をすべて粉砕し、キリシからノヴゴロドに至るヴォルホフ河の東岸に沿った線まで前進することに成功した。しかし、物資の枯渇と将兵の消耗によりヴォルホフ正面軍に所属する各軍はいずれも弱体化し、西岸に築かれた北方軍集団の陣地帯を攻撃する余力はもはや残されていなかった。

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